第47話 いつかの約束

「いつか、きみの絵を見せてもらいたいものだな」


 お茶のカップを優雅に掲げ、先生は言った。


「きみはきっといい絵を描くんだろう」


 そんなことないです、とぼくは赤い顔のまま応じ、恥ずかしさをまぎらわすためにビスケットを口に押しこんだ。


 ほんのりバターの香るビスケットは、キャリガン夫人に教わってぼくが作ったものだった。見た目はまずまずで、夫人も「上出来ですよ」とほめてくれたのだが、軽さというか、口に入れたときのざっくりとした食感の妙は、夫人がいつもこしらえてくれるものに今くらい及ばなかった。


 夫人の教えに従って、なるべく手早く、そして――夫人いわく「これがいちばんのコツ」なのだそうだが――なるべく適当に作ってみたのだけれど、悲しいかな、経験と技量の差は圧倒的だった。


「ぼくなんて全然……下手で……」

「そんなこと」


 先生は笑ってビスケットをひとつ取り上げた。


「関係ないよ。きみが描くなら、きっといい絵だ」


 関係ない。先生はよくその台詞を口にしていた。時と場合、相手によって、声の温度と色を自在に使い分けて。ねえルカ君、いったい誰がそんなことを気にするんだい?


「だったら」


 先生の言葉に勇気づけられて、ぼくはかねてから温めていた願いを打ち明けた。


「先生を描いてもいいですか」


 意表を突かれたように先生は目を見張り、ぼくはちょっと得意な気持ちになった。先生を驚かせるなんて、滅多にないことだったから。逆はしょっちゅうだったけど。


「わたしを?」

「だめですか?」


 さっきも話したが、それまでぼくは人物を描いたことはなかった。グラウベンに来てからスケッチブックに追加された絵といえば、もっぱら屋根裏の窓から見た街の風景。あとは、先生の舞台で目に焼きつけた光り輝く蝶や鳥たちだった。


 だけど、先生と日々を過ごすうち、ひとつの思いがぼくの胸の中で膨れ上がっていったのだ。この綺麗な「色」のほんのひとかけらでも、紙面にとどめておけたらどんなに素敵だろう、という。


「だめではないけどね」


 先生は首をかしげてビスケットをかじった。


「対象としては面白みに欠けるんじゃないかい」

「そんなことないです」

「じっとしているのはあまり好きじゃないんだが」

「寝ているところでもいいんですけど」

「いや、それはだめだろう」


 真顔で言い返した先生の様子がおかしくて、ぼくはつい噴き出してしまった。笑いの発作に襲われているぼくを呆れたような目で見やって、先生は「いつかね」と言った。


「いつか描いてもらうとしよう。偉大なる画家に、わたしの肖像画を」

「はい、当代一の幻術師の肖像画を」

 

 お互い真面目くさった顔でうなずいて、それから同時に笑い出したところで、からんと玄関の呼び鈴が鳴った。


「よう、ルカ坊」


 勝手知ったるといったふうに居間に現れたのは、先生の従弟のダリルさんだった。いつものように華やかな「色」をまとうダリルさんが加わると、湿っぽい空間にぱっと明るい炎が躍るような気がしたものだ。


「こんな天気で退屈しているだろうと思って、遊びにきてやったぞ」

「退屈しているのはきみだろう」


 先生のぼやきを聞き流し、ダリルさんは椅子のひとつを占領すると、早速ビスケットの攻略にとりかかった。


「いまお茶を淹れますね」

「おう、悪いな」

「もてなさなくていいよ、ルカ君」


 腰を浮かしかけたぼくを、先生が止めた。


「すぐに帰るそうだから」

「つれないな、アーサー」

「あいにく、われわれはきみほど暇じゃないんでね。これから荷造りもしなきゃならないし」

「なんだ、夜逃げか?」

「旅行だよ」


 憮然とした面持ちで、先生はグレンシャム行きの件を説明した。


「そりゃいいな。ルカ坊、おまえ釣りは好きか? あそこはでかいますが釣れるぞ。おれが前に釣り上げたのは、このくらいもあってな……」


 ダリルさんが楽しそうなことを次から次へと話してくれたおかげで、ぼくはグレンシャムを訪れる前から、すっかりその土地のことが好きになってしまった。


「で、いつ行くんだ?」


 ひとしきりグレンシャムの魅力について語った後で、ダリルさんは先生に訊ねた。


「明日」

「明日⁉」


 これにはダリルさんだけでなく、ぼくも仰天した。


「明日って、おまえ、だったらなんでもっと早く言わないんだ!」

「先生、ぼく何を持っていけばいいんですか」


 憤慨するダリルさんとおろおろするぼくを順番に眺めやり、先生はお茶をひと口飲んだ。


「落ち着きなさい、ルカ君。なにも海を渡ろうって話じゃないんだから」

「おまえはまたそういう……」


 赤毛をかきまわしてダリルさんは立ち上がり、ぼくの腕をつかんだ。


「こうしちゃいられない。行くぞ、ルカ坊」


 なんだか前にもこういうことがあったな、と思いながら、ぼくはダリルさんに引きずられるように居間を出た。


「ああ、ダリル」


 ぼくたちの背中に先生がのんびりと声をかけた。


「買い物に行くなら、ついでに頼みたいものがあるんだが」

「かまわんが、何を買ってこいって?」


 めずらしいと言いたげな顔でふりむいたダリルさんに、先生は微笑んで依頼の内容を告げた。


「スケッチブックを一ダース」



 

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