第46話 未来の画伯
「ルカ君、きみ泳ぐのは得意かな」
先生が唐突にそう訊ねてきたのは、六月も終わりの、雨の日の午後だった。いつものように先生と差し向かいでお茶を飲んでいたぼくは、ビスケットにのばしかけた手をとめて首をかしげた。
「得意……でもないですけど」
イヴォンリーの村で川遊びをした経験はあれど、それだけで泳ぎが得意だと胸を張れるはずもなく、煮え切らない回答をするしかなかったぼくに、先生は「ああ」と笑って手をふった。
「質問が悪かった。きみ、泳ぐのは好きかい」
「好きです」
これには自信をもって答えることができた。陽をあびてきらきら輝く水面に飛び込むときの爽快感。あれは何物にも代えがたい。
「それはよかった」
何がいいのかさっぱりわからなかったが、謎かけのような先生の言動には慣れっこになっていたぼくは、あわてず騒がず、半分に割ったビスケットに
「じゃあ、これを飲んだらすぐに支度するとしよう」
「出かけるんですか」
窓の外は、どしゃぶりの雨だった。こんな中を出かけたら、あっという間にずぶ濡れになること請け合いだろう。それこそ川でひと泳ぎするのと変わらないくらいに。そんなことを考えていたぼくだったが、先生の次の台詞はぼくの予想をはるかに超えていた。
「そう。しばらくこの街を離れようと思ってね」
ぼくはあやうくビスケットを喉につまらせるところだった。盛大に咳き込むぼくに、先生は「大丈夫かい」とお茶のカップを手渡してくれた。
「……先生」
ビスケットのかけらをお茶で流し込んで、ぼくはそろりと問いかけた。
「お一人で?」
「まさか」
即座に否定されて、ぼくはほっとした。街を離れてどこへ行くにせよ、ぼくが置き去りにされる心配はなさそうだと。
「北のグレンシャムというところに、わたしの持ち家があってね。夏はそこで過ごそうと思うんだ。ほら、この街は最近雨ばかりでいい加減うんざりだろう? おまけに、これからどんどん暑くなることだし」
だから避暑としゃれこむのだと、先生はつづけた。
「田舎だけど、いいところだよ。海はないけど、大きな湖も川もあるから、これからの季節は毎日泳げる。魚釣りや山歩きもいいだろうね。ああ、だけどきみには」
先生はそこで言葉をきって、意味ありげな笑みをぼくに向けた。
「スケッチをする場所には事欠かないと言ったほうがいいかな」
ぼくはカップを両手でつつんだまま赤面した。
「……ご存じだったんですか」
「まあね」
先生はすました顔でうなずいた。
「未来の画伯がわたしの弟子だと思うと、鼻が高いよ」
「やめてください」
蚊の鳴くような声でぼくは抗議した。ぼくが何をそんなに恥ずかしがっていたのか、もうおわかりだろう。そう、ぼくはこの頃から絵を描いていたのだ。
ぼくが絵にのめり込むようになったきっかけは、イヴォンリーの孤児院長が――毎回しつこいようだが――バザーで手に入れてきたスケッチブックを、ぼくが競り落としたことだった。競り落とす、という表現が適切かどうかはわからないが、同じくスケッチブックを欲しがった仲間に
めでたくスケッチブックを勝ちとったぼくは、それから暇さえあれば、そのざらざらした紙面に木炭を走らせるようになった。スケッチの対象はもっぱら風景や草花、鳥や羊といった動物だった。人物を描いたことはない。その人がまとう「色」に気を散らされたし、そもそも自分が絵を描いているところを誰かに見られたくなかったからだ。
「気を悪くしたのなら謝るよ」
先生はお茶をひとくち飲んで微笑んだ。
「だけど、そんなに恥ずかしがることでもないと思うがね」
たぶん、ぼくが絵を描くことをひた隠しにしていたのは、祖母の影響だろう。おそらく物心ついた頃から、ぼくは絵を描くことが好きだった。この目に映る美しいもの、不思議なもの、心震わせるものの数々を、紙面に描き出すのが楽しくて仕方なかったのだ。
そんなぼくの嗜好を、しかし祖母はひどく
険しい目をした祖母のまわりには、きまって悲しい「色」が漂っていた。深い嘆きと、おそらくぼくを通して別の誰かに向けられていたであろう暗い感情の「色」が。その「色」を見るのが嫌で、ぼくはいつしか絵から遠ざかっていた。数年後、孤児院長が黄ばんだスケッチブックを持ち帰るまでは。
それにしても、役に立つ遊びとは一体なんだろう。こればかりは未だにわからない。たぶん一生わからないままだろう。祖母がああも強くぼくの父を憎んだ
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