第三章

第26話 赤毛の来訪者

 その人が訪ねてきた日のことは、よく覚えている。パルモント劇場の一件から三日後の昼下がり、ぼくは台所に一人立ち、頭を悩ませていた。


 ぼくの目の前では、焼き上がったばかりのチョコレートケーキが甘い匂いをふりまいていた。ラム酒漬けレーズンがたっぷり入ったそのケーキは、午後のお茶のためにとキャリガン夫人が仕込んでいってくれたものだ。


 本当は明日のほうが美味しいんですよ、とケーキをオーブンに入れながらキャリガン夫人は教えてくれた。焼きたてよりも一日おいたほうが、しっとりした風味が増すのだという。


「でもまあ、男の子のいる家にケーキをおいて、明日まで眺めていなさいと言うほうが無理ですよねえ」


 キャリガン夫人の意見に、ぼくも全面的に賛成だった。


「だけど坊ちゃん、ナイフを入れるのはケーキが冷めてからにしてくださいね。すぐに切っちゃいけませんよ」


 そうぼくに念押しして、キャリガン夫人は帰っていった。もちろん、ぼくは夫人の言いつけを破るつもりなんてこれっぽっちもなかった。だけど、台所にくらりとするような良い香りがたちこめる頃には、ぼくの理性は早くも白旗を縫いはじめていたのだった。


 ちょっとだけなら、とぼくは自分に言い聞かせた。端っこだけなら構わないんじゃないかと。大きなケーキの端がほんのちょっと欠けたところで、困る人なんていないだろう。それに、中までちゃんと火が通っているか確認しておくのも大事じゃないか。


 よし、と心を決めてナイフを手にしたとき、玄関のドアをたたく音がした。郵便かな、とぼくが思った次の瞬間、


「アーサー!」


 大きな声とともに、勢いよくドアが開いた。


「出てこい、この根性曲がり! 居留守を使っても無駄だぞ!」


 台所から飛び出したぼくは、そこでぽかんと立ちつくした。


 ぼくの視界いっぱいに、あざやかな赤が広がっていた。燃える炎のような、朝焼けの空のような、強く華やかなその「色」に、ぼくは一瞬で心を奪われた。


「なんだ、おまえ」


 不審げにぼくを見下ろしたのは、その身にまとう「色」にふさわしい、見事な赤毛の紳士だった。年は先生と同じくらいか。身なりはごく上品だったが、大柄でがっしりした体つきは、貴族というより勇猛な軍人を連想させるものだった。


「やる気か」


 灰色の瞳がぼくの手元をにらみつける。よく光るナイフを握りしめた、ぼくの手を。


「ちがいます、これは……」


 うろたえるぼくの前で、赤毛の紳士はさっと片手をあげた。ぶたれる、とぼくが反射的に目をつぶった、そのときだった。


「やめないか、ダリル」


 とがった声が割って入った。ふりむいたぼくは仰天した。いつの間に現れたのか、ぼくの背後で先生が腕組みをして立っていた。いつも通りシャツにガウンをひっかけただけの姿で。そして先生にしてはめずらしく、ひどいしかめっ面で。


「子ども相手に何をする気だ」

「アーサー」


 ダリルと呼ばれた紳士は、心外だと言いたげにぼくを指さした。


「先にしかけてきたのはそいつだぞ。見ろ、刃物なんか持って……」

「黙れ、不法侵入者」


 紳士の抗弁をばっさり切り捨てて、先生は一歩前に出た。


「招かれざる客に相応の出迎えをしたまでだ。ああルカ君、きみは悪くないよ。むしろよくやってくれた。さすがはわたしの弟子」

「弟子だと」


 とたんに、赤毛の紳士が顔をしかめた。


「どういうつもりだ。おまえ、いまさら……」

「ダリル」


 先生のひと声で、赤毛の紳士は口をつぐんだ。かわりに舌打ちをもらし、燃えるような髪をかきまわす。


「すまないが、ルカ君」


 呆然と二人のやりとりを見つめていたぼくは、おだやかな先生の声で我に返った。


「お茶を淹れてくれないか。わたしときみの二人分。それから」


 おれの分は、という紳士のつぶやきを無視して、先生はぼくに共犯者の笑みを向けた。


「ケーキを切るならわたしの分も頼むよ」


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