第20話 ハルの決意
一か月というのは長い。語学習得には短いが、生卵が醜悪な状態になるには十分な時間である。無事回収したリュックだが、水で洗っただけで取れるわけもなく、たらいにおかみさんから分けてもらった石鹸を混ぜてつけおきをしておいた。二日前のことだ。
「ハル! 一体どこからあの鞄を持ってきたのですか」
ワラビがものすごい勢いで家に入ってきた。手にはリュック、ぽたぽたと水が垂れている。
「ワラビ、だめ。それは……」
途中というのはなんというのか。
「ワラビ、悪い子、洗う、半分」
ワラビの手からリュックを奪い、たらいにつけに外に戻る。ワラビが後ろからついてくる。
「それは、あの商人に私の代わりに売ったものですよね。どこで手に入れたのですか。それに、それも」
ワラビはスマホを指さした。
「はい、これは私の物です」
真っ黒いスマホは、当然ながら充電切れだった。奇跡を願って何度かトライしたがそんなものはなかった。これなら、まだノートや文房具を引き替えていた方が使い勝手がよかったかもしれない。
「あいつに、全て取られたはずです。盗んだのですか?」
「私、悪い、ないです」
盗むとは聞き捨てならない。おじいさんは善意の第三者とであるから、正式に荷物を買うために努力しようとしているのだ。そんなことを言うなら、もう一回ワラビを売って、荷物と交換なんて考えがちらと頭をよぎった。ダメだ。この場所に考えが毒されている。同意があればいっかとかちらとでも思ってしまった自分を恥じる。
「私はワラビ売りません。リドゥナを売りました」
「リドゥナを売って交換したということですか?」
ワラビは地面に絵を描いた。意思の疎通が難しいときはワラビが図解してくれるようになっていた。あの悪いやつらしきたっぷりお腹の商人とリドゥナを交換したときかれ首を振る。空白におじいさんの顔を描いて指し示す。
「別の人ということでしょうか」
ワラビは首を傾げた。私の絵は棒と丸だけなので、推して知るべしだ。頷く。
「ここ」
私はワラビを連れて骨董屋のおじいさんのところにやってきていた。
「ここ、ですか。ここの主人は気難しく品揃えはよくても、なかなか売ってくれないという噂なのですが。扱う品物も訳ありが多いと。ハル、本当にここでリドゥナを交換したのですか?」
交換した人のところへ連れていけというので、連れてきたらさらにワラビの顔色が悪くなった。臭いが苦手なのだろうか。
「帰る?」
「いえ、入ります」
そこで、どんな話があったのか分からない。というのも、ものすごい勢いでワラビが話し出したからだ。私が理解できるようにという配慮は全くなかった。しばらくすると、おじいさんの私を見る目がものすごくダメな子を見る目になった。
ワラビの肩をぽんぽんとたたいた。
「予約はしとくよ」
ワラビはおじいさんに頭を下げた。
「いい伴侶じゃないか、自分の気持ち以上に、相手のことを大切にしている。大事にしなよ」
じゃないか、とは何か。だめとだめが重なって二重否定。それにいいが重なって――。頭がこんがらがる。
「いいえ、ワラビ、ちがうます。ワラビ大事」
とりあえず、ワラビは大事であると伝えたところ、おじいさんがぎょっとした顔をした。
「サイタリ族の伴侶を否定するなんて」
おじいさんがあんぐりと口を開けた。
ワラビはといえば、ぽろっぽろっと大粒の涙だ。
まったくワラビは泣き虫だ。どこに泣く要素があったのか。やはり売られるというのは精神が不安定になるものなのか。仕方なくこちらへ来てから手に入れたハンカチというにはごわごわしているハンカチで、ワラビの滑らかな肌に伝う涙を拭いてやると、ワラビは笑った。
「いいのです、ハルが認めなくても、私にとってあなたが大切な人なのはかわりません」
よくわからなかったが、落ち着いたのならいい。ハンカチをしまい、ワラビの手をひっぱり自分の名札の書いてある荷物の前に連れていく。荷物を指さす。
「ワラビ、私、セドします。これ、全部私持ちます」
この荷物を取り戻すのだ。そして帰る。私の目標を告げるとワラビはにっこりと頷いた。
「そうですね、私も協力します」
どうかよろしくお願いします。おじいさんに頭を二人で下げると、店を出た。
帰り道、泣き虫なワラビはそっと手を伸ばしてきた。仕方ないので手を繋いで家に帰った。
お金はない。今あるのは、リュックとスマホ、そしてワラビ。
『帰るんだ』
いつまでも遭難しているわけにはいかない。自分の荷物をみつけ、帰り道を探そう。
露店のおいしい匂いでお腹を満たす。いつか、帰る前にはワラビと一緒にお腹いっぱいご飯が食べたい。
乾いたリュックは、ごわごわしてちょっと臭いがあるような気がした。露店で買ったハーブみたいな香辛料を中に入れておいた。
翌朝、どういう効果だったのかカレーの匂いのするリュックができた。
常識はどこにいけば分かるのだろうか。
今日も絶賛遭難中である。
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