第5話 撤退 ひとりになる
皆の中にいたって、孤独を感じていた。だけどそういうのとは次元が違う。
白亜の城とか一体何の冗談だろう、ホント。足も痛いし、のどは乾燥でガラガラだし。
一人だし。一人、ぼっちだし。
疲れた。噴水を背に座る。
膝を抱えて縮こまる。もう少ししたら、寒くなって自然と息絶えて、そのうち養分になってキノコ栽培の元とかになれないだろうか。
無理だって知っているけど。
生きて行かないといけないのだろうか。ここで。噴水に手を突っ込んでみる。冷たいのかぬるいのかもよくわからない。涙ってこんなにぼろぼろ出てくるものだっただろうか。号泣ってやつは大概鼻水も出て映画みたいにきれいな泣き顔なんてできない「おまえ、不細工なんだから泣くなよな」レベルだったはずなのに。今だったら、世界一の役者になれる。スイッチが全部涙だ。
緑の人がおろおろと布をだしてくれば、さらに泣けた。近くを通ったおじいさんが飴っぽいものをくれればまた泣けた。自分でもどうしようもない。
緑の人はそのうち、少し離れた噴水の縁に腰かけて静かになった。
どれだけ、そうしていたのか。
白い布をかぶった泣き虫おばけを物珍しそうにのぞきこんでいていた子供も去り、市場の人たちが片付けを始めたころ、いきなり緑の人は大声を出して立ち上がった。
勢いよくかけだすと一人の男の人を捕まえ、こちらを見て指をさした。
どうみても、知り合いという雰囲気ではない。昨日の今日で一体なんなのだ。私はいま自分のことで精いっぱいなのだ。知らないったら知らないのだ。今は泣くと決めたのだ。
と無視を決め込み、さあ泣くのだと思ったせいか、もう泣けなかった。
視界の端で騒がしい緑の人のところへ、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら近づいた。
緑の人は自分とひげ面の男を、交互に指差した。それから、ひげ面の男の細い紐をもつ、美人さんを指差し、それから私を指差した。
むさくるしい男と緑の人に共通点などない。そして美人さんと私の共通点など女性という点以外は言うのも憚られるというものだ。
反応のない私に焦れたのか、緑の人は美人さんの手にある紐を持ち上げた。それは昨日の緑の人のように、ひげ面の男の首に繋がっていた。男の足元には長い衣服で隠れているが重い金属音がした。
まさか、私が非人道的な扱いをこの緑の人にする立場にあるとでもいいたいのだろうか。昨日の光景が脳裡をよぎる。どう見ても、美人さんに所有されているらしい、ひげ面の男。
まさか、緑の人と私もそういう関係だとでも言いたいのだろうか。濡れ衣である。私はいまだかつて人様を紐に繋いで外を歩くなどということはな――、いや、昨日紐を渡された。緑の人はポケットらしき場所から紐を取り出し私に何か言っている。
散歩行きたいぜ、ご主人様。という犬に見える。その光景に美人さんが私の肩に手をおいて、しょうがないわねとでも言うように、緑の人の手から紐の片方を私に握らせた。
緑の人と赤い紐。それを握る私。
まさか、まさかではあるが――。
私は緑の人にご主人様認定されているのだろうか。
思い返すにそれしか答えがないような気がしてきた。ゆっくりと、自分を指差し、美人さんがもつ紐を指差す。それから、緑の人を指差し、男の足元、鎖がある場所を指差す。
緑の人は満面の笑みで頷いた。
そうか、そうなのか。そういえば、昨日のおじさんは千円を出してから対応がていねいだった。あれはせびられているのではなく、売買だったということか。所有権を買ったということだったのか。
ぼうっとしている私に美人さんが怒っている、模様だ。もし、推測が正しければ、管理責任を問われているのだろうか。それは大変申し訳ない、気がする。自分の本意ではないと伝えたいがその術がない。
とりあえず、世の中の万能の言葉の出番だ。これを言っておけば大概のことは片付く。
「すみません」
天啓にも似た閃きをそのまま口に乗せたとたん、美人さんが硬直した。信じられないものを見るような目で私と緑の人を見比べている。
あ、またか、またなのか。何か違う意味を持っていたらしい。
自分が一体何を言ったのか分からない。とりあえず、そうだ。撤退しよう。逃げるのではない。戦略的撤退だ。これ以上この場が混乱して二次災害を起こす前に。焦りにかられてまた何かを口走る前に。
緑の人の監督責任を問われたとして、私にとれる責任などないのだ。ここは逃げ、いや撤退だ。
すみません、すみません、と言いながら、緑の人を引っ張って走った。
ひとけがなくなったところで手を離す。
赤い紐はだらんと地面に落ちた。緑の人の期待に輝く目が怖い。ちょっと、いや大分引いた。言葉が通じないのは分かっている。だが、言うべきことは言わねばならない。
「あなたは私が主人だとか言いたいのかもしれないけど、そんなつもりもないし、人を鎖でつなぐなんてしないから。ついてこなくていいよ。どこでも好きなところへ行ってください」
通じていないことは知っていた。だけど、言わずにはいられなかった。
私は投げつけるように紐を緑の人に渡し、走るように歩きだした。緑の人が何かを言っておいかけてきた。勘弁してほしい。
舗装された道を過ぎて、砂利道を歩く。
振り返るたびに緑の人は立ち止まった。
飼い主に捨てられた犬がどこまでもついてくるみたいで。必要のない罪悪感がわきかけた。
さっき目覚めた家も通りすぎた。それでもずっとついてくる。
何度か来るなと伝え、徐々に距離は広がった。
明りのない暗い道。息遣いと足音だけが、つづく。
私が立ち止まれば、緑の人の音も止まった。
言葉の分からない今、砂利を踏む音だけが、会話だった。
砂利道が終わった。道は森の中へ続いていた。
立ち止まって振り返る。
「あなたは自由だから!来ないで!」
強い拒絶は伝わったらしい。睨みつければ緑の人は、もと来た道を戻っていった。
赤い紐だけがその場に置き去りにされた。
これでいいんだ。
私は森へと歩き出す。足音はもう聞こえなかった。
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