第6話 森 八つ当たりとやさぐれた結果

 森は途中まで整備されていたが、すこし行くと下草が生い茂り、鬱蒼とした道に変わった。

どこかに行ったら、なにかがあるとは思えない。だけど立ち止まることができなかった。ふくらはぎも足の裏も痛いけれど、立ち止まったらもうどこにも帰れなくなる。ひざ丈くらいの草の中を進んだ。

歩いて歩いて歩いて歩いて。

そのまま倒れてしまえば。

暗い思考に呑まれかけたころ、木々の間で何かが揺れた。


「なに?」


風?じゃない。ぬめりのある風。そう息だ。大きな何かが息をしている。小さな生き物の気配が消えていた。

一気に生態系ヒエラルキー最下位の生存本能が息を吹き返す。

暗い森の野原のような広まった場所。四方は木。少しでも明りを求めて月明かりの下まで歩き、ぐるりと見渡す。

きらり、視界の隅で光った。

何かがい、たー。と同時に、ぶわりと目前に現れた口。

ギャーと叫びながら、私はその口の中の住人になった。


野たれ死ぬかもとは思ったが、何か分からない生物の餌はいやだ。苦しいのは大丈夫だが、痛いのはだめだ。ささくれだっていやなのだ。

真っ暗な口の中、私は舌にしがみつく。足元の牙らしき物体に刺されたら終わりだというのは馬鹿な私でもわかる。

目標は、目指せ安楽死だ。決して刺殺体ではない。

その時、外から人間の声がした。

何か分からない生物は口を開けた。

男の人が、いた。

月の光を背にしていても、言葉が通じなくても分かる。万国共通。呆れられている。

そりゃそうだろう。

巨大生物が口を開け、その中に舌にしがみついた唾液まみれの人間がいたら、私ならまず自分の正気を疑う。


「いや、これには深い事情があって」


舌につかまったまま、弁解しつつ、両足で巨大生物の牙に足を乗せて出ようと試みた。男の人は呆れた風ながら、腰にはいた剣を鞘つきのまま、こちらに差し出した。足場にしろというのだろうか。いい人である。私は慎重に足を延ばす。足をかけようとしたそのとき、男の人はいきなり差し出していた剣を引いた。


「なっ!」


いきなり剣をひかれ、私はたたらを踏んで巨大生物の口に逆戻りした。男の人はなにやらこの生物に話しかける。巨大生物の口が閉じていく。なんだと、助けてくれるのではないのか。さっさと飲み込め、今日の餌は私だとでも言ったのか。このくそ、閉じかけた上顎にパンチを食らわせるために手を伸ばした。だが喧嘩慣れしていない私に不安定な足場で攻撃をするということは無理な話だった。

目測を誤った私は、鋭い前歯に自ら手を献上してしまった。痛いと思えば、弱者の常、弱い場所を庇おうと、もう片方の手を舌から離していた。


「あっ」


飲み込まれる。覚悟した。


「ダメ!」


最後に見えたのは牙ごしの月明かり、ではなかった。見知った顔。


「ダメ!トオイナ!」


それは私の名前ではないぞ、緑の人。

巨大生物の口が閉じた。


「ぎゃ、開け、開け」


口を開けば、巨大生物の唾液が口の中に落ちてきた。息ができなくなりそうな唾液の領に思わず口を閉じる。必死で口の中で体勢を整える。前歯、奥歯。よし、これでしばらくは大丈夫、と一息ついたとたん、巨大生物が揺れた。中の私も揺れた。必死に踏ん張るも揺れは収まらない。何この波状攻撃。飲み込まれる前に、牙に体が突き刺さりそうである。

外からは何やら言い合う声がして、突如内臓がぐわっと持ち上がる感じがした。

うわ、跳んだ。えっ?飛んだ?

と思ったら今度は上から下への衝撃があった。もしかして緑の人が攻撃しているのだろうか。私を助けるために。


感動したいが、口の中は真っ暗で、あるのは舌と牙と唾液。右に左に柔らかい歯茎に触れながら、必死で牙をよけながら舌につかまり揺れるしかできない。間違って食道へ落ちないように必死である。

助けられる前に死にそうである。

舌につかまろうとして、何やら小さい突起に触れた。ちょうど掌サイズ。思わずつかんだ。その瞬間、吐き出された。つかんではいけないとこだったのか。


「え?」


突然の外にパニックになった。空には月。その月を背に大きな獣。月明かりを浴びて薄蒼に光る毛むくじゃらのヤツ。

森の木が遥か下。解放と同時に再び命の危機だった。


「トオイナ!」

「みどり!」


緑の人が木登りなんてレベルじゃない勢いで木を駆け上がると、枝を蹴った。空中で今までにないくらいの力で体を掴まれる。そのまま二人、草むらを転がった。

唾液まみれの体に、若草がまとわりつく。緑のミノムシになったまま起き上がる。緑の人もちょうど起き上がったところだった。

起き上がらされて、体中を点検された。出血は大したことないと判断したのか何やら頷いた。あんな別れ方をした後なので気まずいが、お礼は言うべきである。


「助けてくれてありがとうございます」


緑の人は信じられないというような顔をした。

しまった、また何か違う意味になったのか。とはいえ、分からない以上、無言で相手を見守るしかできない私に、緑の人は首がもげるのではないかというほど振りだした。


「ダメトオイナ」


がばり、抱きつかれ、泣きだした。さっきまでの私が死にそうになるくらいの攻撃力はなんだったのだと思うくらいの変わり具合である。めそめそとしがみついてこられるので、もそもそと不思議な気持ちで緑の人の背中に手をまわした。髪をなでたりなんかしてみる。緑の人も売られるくらいだから、弱い立場なのかもしれない。強さの定義も弱さの定義も移ろうものだ。緑の人のポケットから薄汚れた赤い紐がのぞいていた。


そういえば、あの男の人は、どこへ行った。ぬくもりを感じながら周りを見るが地上には誰もいない。不意に視界に影がよぎった。


夜空。大きな獣の上に、男の人は立っていた。月明かりを背に、剣を佩きこちらを見ていた。緑の人のぬくもりを感じながらいいようのない寒さを感じのけぞれば、緑の人に強く抱きしめられる。ダメとトオイナが耳元で繰り返される。


「そうだな」


目がそらせない。不意に、一人と一匹が去って行く。意識を空に奪われたまま、私は泣き続ける緑の人の背をたたき続けた。

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