第5話 不運についてどう考えるか

広島で思い出すことといえば、お好み焼きと宮島に遊びに行ったことである。


フェリーに乗り、海上に佇む厳島神社の赤い鳥居に目をこらす。

ない。

櫓が組まれていて赤い鳥居が隠されていた。前日までの嵐で損傷し、修理中とのアナウンスがあった。ため息がでた。なんのために来たのか。


思えば、人生においてそのようなことは多かった。出雲大社に出かけたときは大修理中だった。平安神宮もそう。日光東照宮陽明門もそう。


極めつけは友人と高知県に行ったとき、桂浜の坂本龍馬の銅像が見られなかったことだ。翌日にお披露目ということで白い布に覆われていたのだ。なんという不運。


だがこれは本当に不運なのだろうか。


松島の瑞巌寺では平成の大修理にあたってしまった。しかし、おかげで通常は表にでてこない様々な文化財を拝見拝観することができた。普段は公開されていない大書院、庫裏、陽徳院御霊屋(寶華殿)。ご本尊。伊達政宗公の位牌などなど。つまりまあ、不運のときにしか経験できないことばかりだったのだ。


坂本龍馬立像の話だって、今から考えればいい想い出である。「フ〜ン」で終わるところが「あー、チクショウ」という実感がこもることでいつまでも立体的な新鮮さを失わないし、この文章だって書けた。


不運かどうかは考え方ひとつ。自分はいくつかの病気で苦しんできたし、いまもまだ通院している。しかし、病気になってはじめてわかったことも多い。ひとのやさしさや思いやりは本当にありがたい。若い頃の傲慢な考え方も恥ずかしいと思えるようになった。自分とはなんで、どう生きるべきか。受けた恩をどう返すか。残された寿命のことも考えるようにもなった。いまは自分のつまらなさにもなにかの意味があると感じられる。


だからまあ、不運を嘆く必要はないし、そのときそのときの自分を感じることができれば特別な経験に結びつけることができる。


いま、自分は歯医者に通院している。差し歯がとれてしまって、土台から補修しているところなのである。前歯がない、じつに間抜けなツラをさらしている。不運であるのだろう。だが、こんなときにしか会えない、覗けない自分の顔がある。別の素顔というかなんというか。情けないが笑えるなにか。


秘仏のご開帳のようなもの。


そんなわたしに会えるのは51年に一度だけである。なのでいつでも遊びにきてください。来週に歯が入る予定ですけどね。



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