29日目 「月下に散る想いたち」

 ――あと1日。



「そういうわけで、あたしたちは、この世界の人間じゃないんだ」


 夜の暗闇の中、星明りで浮かび上がる、雨ざらしになったコンクリート。

 どうやら学校の屋上らしい。

 角度的にかろうじて見える校舎の大時計の針は、あと少しで頂点で重なろうとしている。


 気が付いた時、和仁はなぜかここにいた。

 屋上の片隅で、おなじみの学校のイスに座らされ、両手を後ろで縛られている。


「幼馴染だなんて、ぜんぶウソの記憶だよ。……ごめんね」


 目の前に立っているルイは、いつもと同じように制服の上からコートを着てマフラーを巻いた姿で、両手をポケットに突っこんだまま、和仁に向かってそう言った。


「ウソの記憶……?

 て言うかこれ、何の冗談だよ。

 バレンタインのサプライズかなんかのつもりなら、いくらなんでも悪趣味だぞ」


「では、彼女と幼い頃の思い出話など語り合ったことがありますか?」


 横のほうからアリスの声がした。


「きっと、いろいろ細かな齟齬があったはずですわ。

 なぜなら、そんな過去なんて本当は存在しないのですから」


「現に和仁くん、自分がどうやってここに連れて来られたか、わからないでしょ?

 ……あたしたちは、そういうことができるの」


 言われて和仁は気づいた。放課後から何をしていたのか、記憶が全くの空白で、時間が飛んでいる。


 ルイは、マフラーに半ば顔をうずめるように頭を下げて、小さな声で言った。


「……本当に、ごめん。恨んでくれていいよ」


「どうして、わざわざ今その話をしたのですか?

 自分の立場が不利になるだけでは?」


 そう問うアリスに、ルイは答える。


「違う。これでやっと同じスタートラインに立てるの」


 ――ウサギの自分では、空を舞う大鷲に追いつけるはずがないとしても。


 吐く息が白くなるのを見ながら、ルイは言った。


「……ここんとこ暖かかったけど。さすがに夜になるとかなり寒いなー。

 でも、“向こう側”の月の位置関係から、この時間帯じゃないとダメなんだよね」


 そしてルイは、隣におるアリスのほうを見た。


「あんた、そんなカッコでよく平気ね」


「ええ。ずっと待ち望んできた儀式の日ですもの」


 雲が途切れたのか、月の光がアリスを照らし出す。

 オーロラのように反射できらめく布に、柔らかな雪綿をまとわせた白いドレス。


「リノのやつも、気を利かせて灯油ストーブでも用意してくれればいいのに」


「リノさんにはいま警報装置のほうを見てもらっています。

 彼女には、いろいろ『後始末』をしてもらってから、遅れて来てもらわないと」


 この不自然な状況で、当たり前のように会話を交わすふたりに向かって、和仁は困惑しながら言った。


「瑠衣たちが別の世界から来たってのは、まだわかった。

 でも俺がその、何とかリンクスの子孫だとか、何かの力があるとか、そんなのただの伝説だろ?

 そんな話を信じてわざわざこんな……」


「……和仁くんはさ、授業で習ったジャンヌ・ダルクさんとか織田信長さんの存在や功績を疑ったことある?

 あたしから見たら現実味がなくてフィクションとしか思えないんだけど。そーゆーもんじゃない?」


「それとこれとは……それに、ふたりのうちどっちかを選んで好きになれとか……。

 いやこれやっぱ冗談だよな? バレンタインの」


 ルイは、またマフラーで口元を隠して、もごもごと言った。


「そりゃあ、あたしもできればこんな形にはしたくなかったんだけど、

 でもなんとなく最終的にふたり残ってここまで来ちゃったって言うか……

 好きになれって言うか、こんな何考えてんだかわかんないお姫さまよりは、

 まだあたしのほうがマシかもしれないじゃん? って言うか……」



 ――和仁は、とつぜん両手が自由になったのを感じた。

 すぐ後ろで、さっきまではなかった人の気配を感じる。


「……あなたは降りたのではなかったかしら?」


 特に驚いた様子もなくアリスがそう言うと、相手が答える。


「ええ。カイマーン公国の代表としてはね。

 でも、先輩として、そこの後輩にはちょっとした借りがあるんだよ」


 そう言って、マリーは何かを和仁に投げてよこした。

 縛られていたせいでまだぎこちない腕で和仁は反射的にそれをキャッチする。

 予想していなかった熱さに、何度か両手の中でそれを転がす。……缶コーヒーだ。


 マリーは、和仁たちのことなどまるで気にしていないように、ただ懐かしそうに屋上を見渡していた。


「キミたちふたりは、あまり学園行事に興味がなさそうだったよね。

 学園祭のとき、そこから垂れ幕がかかってたことも。

 ……合鍵を作る機会があったのは生徒会だけじゃないってこと。

 最後の儀式に使うのはここだろうと思ってたからね」


 マリーは、手袋をはめた両手をパンパンとはたいた。


「そのときにはまだ、どう使うかなんて考えてなかったけど……

 今日、キミたちが来る前にロープを仕込んでおいて正解だったよ」


「……公女のわりに、ずいぶんアグレッシブなのね」


「姫と言っても田舎の森育ちだもの。木登りなんかは得意だったよ?」


 そして、マリーは和仁のほうを見た。


「でも、期待させちゃったらごめんね。私はたぶん、あのふたりにはかなわない。

 ただ、最後にキミに言っておきたくて。

 彼女たちは打算でキミを利用しようとしてるだけ。キミのことなんてこれっぽっちも考えちゃいない。

 そんなのに付き合う必要なんてない。キミは、キミ自身の意思で、自分の生き方を選ばなきゃダメだよ。

 ……私みたいになっちゃダメだ」


 そのとき、ルイがつかつかと歩み寄って、和仁とマリーの間に割って入った。


「何も知らないくせに、なに勝手なこと言ってんの……!」


 動けずに後ろから見ている和仁からは、ルイの手足がかすかに震えているのがわかった。

 寒さのせいではないだろう。なら、怒りだろうか。それとも――


「あたしが和仁くんのことなんて考えてないって?

 いったい、あたしが、どれだけ……!

 ねぇ、打算で何が悪いのよ? 好きな人に振り向いてもらおうと思ったら、誰だって少しぐらい打算的になるでしょ!」


 マリーは、驚いたようにこちらを見た。


「ルイ……まさか……本気で、そうなの?」


 ルイは黙り込んだ。

 しばらくしてから、小さく咳ばらいをひとつして、和仁に背を向けたまま話しだした。


「……べつに、不思議な話じゃないでしょ。

 相手を落としたいなら、自分がまず本気で好きになるのがいちばん確実だと思っただけ。

 ただ、それだけ」


「自分で作ったウソの記憶に引っ張られてるんじゃないのかな」


「もしかしたら多少はそうかもね。……でも、今さらそんなことどうでもいい。

 私は、自分の中にこんな気持ちがあるなんて知らなかった。和仁くんがそれに気づかせてくれた。

 それは、ウソじゃない」


 そこで、ルイは初めて和仁のほうを振り返った。

 顔を赤くして、少し泣きそうな顔をして。


「本当だよ。小さい頃の思い出は偽物だけど、幼馴染なんかじゃないけど、

 放課後も、バスの中も、休日に買い物に行った日も、ふたりで入ったお店も……

 会話の中身にはウソもあったけど、キャラ作ってた部分もあるけど、

 でも、あのおしゃべりしてた時間は、ぜんぶ本当に本当だから……!

 お弁当だって、ちゃんと毎朝がんばって作ってたんだから……!」


 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、マリーが口を開いた。


「わかった、キミの気持ちには敬意を払うよ。

 でも、それはそれとして……」


 ルイは小さくうなずき、ポケットから手を出した。


 大きな口を叩いてみせたものの、実際この状況でマリーに出来ることはひとつしかなかった。


(“転生の月片”は、たぶんペンダントとして首からかけているはず……

 つまり、あのマフラーでガードされて……

 本当に、何から何まで合理的だな、この子は……!)


 慣れない手つきで掴みかかろうとするマリーに対して、

 ルイはただ、手に持った赤い石をひょいと放り投げただけだった。

 まるでハトに餌でもやるような軽い動作で。


 その石に触れた瞬間、マリーが懐に忍ばせていたはずの“転生の月片”が輝き始める。


「別の月片を遠隔起動させる……

 いわばスターターみたいな、ただそれだけの月片だけど、

 相手が“転生の月片”を着けてるこういう場面では最強の飛び道具になるの。

 こっちの世界で色々とやりあった結果得た意外な収穫ね」


 光に包まれていく中で、マリーは仕方ないというように大きな溜息をひとつつき、和仁に向かって言った。


「私はこれから故郷で、公女として自分にできることを探してみるつもり。

 あ、キミに言ってもわからなかったっけ。

 ……とにかく、二度と私と出会わずに済むことを祈ってる」


 マリーの姿が消えるのを見届けて、ルイはアリスのほうを振り返った。


「手持ちの月片はあれでちょうど最後。

 ほんと、星術院の資材管理はバカみたいに厳格だわ」


「では、あらためて始めましょうか」


 アリスは、理解が追い付かない和仁の左手を取り、薬指に指輪をはめた。


「こちらの世界の流儀にあわせて用意しました。

 気に入っていただけると良いのですけど」


 ルイが横から口を挟む。


「和仁くんの身に危険はないからね? 心配しないで。

 ただ、あたしと一緒に転生したいって、そう思ってくれればいいの。

 ……あ、別に口に出してくれてもいいんだけど」


 アリスを押しのけて和仁の手を取り、指輪を調整するようなふりでその指に触れながら、ルイは早口でつぶやくように言う。


「そりゃあアリスはあたしなんかよりずっと美人だし、

 小柄で人形みたいで可愛らしいし、お金持ちなんてレベルじゃないけど、

 でも、気持ちでなら、絶対あたしが……」


 アリスが、珍しくルイの言葉を途中でさえぎった。


「気持ち、ですか……。

 確かに私には、それが欠けているのかもしれません」


 揺れに合わせて輝きを変える白いドレスをまとったアリスは、ルイと和仁と、どちらにともなく言う。


「皇国に何万人の若い娘がいるかご存じですか?

 彼女たち皆の幸福を守るためなら、私自身の感情なんて全部なかったことにしてしまえる。それが皇女の務めですもの。

 私やあなたの気持ちなんて、ほんの数万分の一。誤差のようなものでしかないわ」


 そしてアリスは、あらためてルイの顔を真正面から見つめた。


「ですから私も、あなたの気持ちぐらいで彼を譲るわけにはいきません。

 ……こういうときは何と言うのだったかしら?

 そうそう、『気を落とさないで。あなたならきっと、もっといい人が見つかるわ』」


「あんたこそ、結婚相手なんていくらでも引く手あまたでしょうが!」


 またいつものように不思議そうな顔をするか、薄く微笑んで受け流すのだろうとルイは思っていた。

 しかしアリスは、しっかりとした口調で反論した。


「私は、私なりにこれまで彼の人間性を見極めてきたつもりです。

 あのフィッシュバーガーのお店で、入枝くんは私に言いました。

 私のことを、今は好きだとかそういうふうに考えることはできないと、とても申し訳なさそうに、断ってくれました。

 一言一言、私をなるべく傷つけないように、言葉を選んで」


 思い返すように瞳を閉じながら、アリスは言う。


「入枝くんは……選ばれなかった人、救われなかった人に想いをはせることができる方です。

 時として冷徹にならねばならない私にはできないことです。

 もし自分の感情や希望を語ることが許されるのなら……

 ……私は、入枝くんのような人と結ばれて、共に国を支えたい」


 そこでアリスは目を開け、ルイから和仁のほうへと向きを変えた。


「ですから、入枝くん。どうか、私と一緒になりたいと願ってください」


 ルイは、ぽかんとした表情でアリスを見ていた。


(あたしが言うことじゃないけど……

 それもっと早く本人に直接言ってれば、ちょっとは状況変わってたでしょうに……

 え、何なの? ばかなの? 

 どこまで空気読めないのよ、このお姫さま……!)


 すべてがブーメランとなって自分に突き刺さるのを感じつつも、ルイはその理由に思い当たってさらに呆れ返る。


(そりゃ、まだクライマックスでもないのに、いきなりそんなこと言うヒロインいないけどさあ!

 この子は、ほんとにこの子は……!)


 頭がパニックになり、いったん引きはじめていた血が再びカッと頬に戻ってくる。


「ダメ! ダメだよ和仁くん!」


 口から出てきたのは、およそ彼女らしくなく、ロジックのかけらも感じさせない、ただの駄々っ子のような――


「あたしは、和仁くんと一緒に元の世界に帰るんだから……!」


 ――アリスの言葉を聞いたとき、ルイは『負けた』と感じてしまった。


 ドレス姿の美しいアリス。その首元から黄金の鎖で下げられた黒い石のペンダント。

 アリスに向かって、ルイは詰め寄る。


(あぁ……あたしは、なんて浅ましくて)


「あんたには、あんたにだけは和仁くんは渡さない!!」


(……イヤな女だ)


 アリスは、不思議そうにルイを見て、繰り返す。


「……『あなたには和仁くんは渡さない?』」


 言いながら静かに小首をかしげ――その白く細い指が栗色の髪を飾るティアラに触れ――そこから赤い石片を取り出した。


 ルイの手がアリスの胸元に押し付けられる。

 アリスの小さな手がルイのマフラーの隙間に差し入れられる。


「私には、ですか?」


 アリスが、ルイの顔をじっと見ながら問いかける。


「どうして彼ではなく、私のほうを見ているのですか?

 ――自分が愛される自信がないからですか?」


 『そんなことはないのに』というアリスのつぶやきの上から、ルイが掻き消すように叫ぶ。


「――“再転生”コルネ・テスラ……!」


 互いの身体が光に覆われていくのを、ふたりは互いに見合った。


「……あんたのそういうとこ、本当に大っ嫌い」


 絞り出すようにそう言ってから、ルイはおそるおそる和仁のほうを振り返る。


「和仁くん……」


このままふたりとも消えちゃったらどうなるのかな。和仁くん呆然としてる。まあそりゃそうか。縛られてないから自力で帰れるよね。このあとどうなるのかな。リノのやつ、和仁くんからあたしの記憶もぜんぶ消しちゃうのかな。あのクソ女、ちょっと巨乳だからって調子に乗りやがって。アリスの邪魔なんかしないほうが良かったのかな。あたし何のためにこっちの世界に来たんだろう。こんなんじゃ何の意味もないじゃん。いや、意味はあった。彼に出会えた。彼を好きになれた。好きだよ。和仁くん。


 頭の中を一瞬で思考が渦巻いて、そして。


「……ごめんね」


(――最後の最後に出てくるのがこのセリフなのが、あたしのダメなところだ)


 身体が末端から削れるように、砕けた光の粒と化していく中、ルイはもういちどアリスのほうを振り向いた。


 ずっと、どうすれば彼に好かれるかだけを考え続けて、ただそのためだけに行動し続けてきた。

 たとえ動機が歪んだ打算でも、やることなすこと的外れで空回りであっても。


 ――それが恋でないというなら、何と呼べばいいのだろう。


「……あんただって、同じじゃない」


 全てを受け入れて悟ったように瞳を閉じていたアリスは、その言葉で目を開け、消えゆくルイを見た。

 次いで、和仁のほうを。


「入枝くん……」


 アリスは天を仰ぎ、指を口元に当て、何か言葉を探しているようだった。

 少しして、彼女は和仁に視線を向けて、落ち着いた口調でこう言った。


「私の世界では、月が6つあります。黒く歪んだ宵月や、血のように紅い暁月や……。

 入枝くん。この世界では――」


 アリスは、にっこりと笑って、言った。


「――『月が綺麗ですね』」


 そして、優雅に一礼して、彼女は消えた。





「わあ……本当にみんな潰し合ってくれちゃった。

 いろいろ他のプランも考えてたのにな~」


 屋上の扉を開けて現れたリノが、後ろ手にこちら側から鍵をかける。


 目の前で消えたふたりや、呆然としたままの和仁を全く気にする様子もなく、独り言のように彼女は続ける。


「だから言ったでしょ、“お姉ちゃん”。

 これがいちばんローリスク・ハイリターンの利口なやり方なんだって」


「と、ゆーわけで♪」


 くるっとターンし、そこで初めてリノは和仁のほうを見た。


「残り物のリノちゃんで妥協しちゃうってのはどうかな、和っち?

 向こうの世界でもあたしの容姿はほぼ一緒だよ。

 わりと可愛いほうだと思うし、おっぱい大きいし、悪くないと思うんだけどな~?」


 上着の前をはだけ、わざとらしくブラウスのボタンを上からひとつふたつ外しながら、リノは和仁に近づいていく。


 ――ガチャリ。背後で再び鍵が開く音がした。


「……お兄ちゃん!!」


 さすがに驚いたように振り返るリノの目に、金属製の鍵を手にした愛海の姿が映る。


「――なるほど、マリーっちの最後の仕込みかぁ……。

 負け癖の染みついた人って、こういうとこだけ周到だからな~」


 つぶやくリノに向かって、愛海は大声を張り上げる。


「ふざけないで、この淫乱ビッチ!

 あなたみたいな女の誘惑にお兄ちゃんが乗るわけないでしょ!」


「って、妹ちゃんはなんか怒ってるけど、和っちはどう?

 どんな思惑があったにせよ、こんなに可愛い子たちに迫られて、正直悪い気はしなかったでしょ?

 男の子ってそういうものだもんね~」


 和仁にわざと見せつけるように胸の谷間から黒いペンダントを取り出しながら、リノは言う。


「ぶっちゃけ、こっちの世界で、これからあたしより可愛い子と付き合えるチャンスがどれだけあるかな?

 あたし、キミにとって重荷にならない程度の女だよ。バレないようにしてくれるなら浮気も許しちゃう」


「ダメだよお兄ちゃん! 絶対こいつ、こっそり部屋に入り込んで寝顔を観察したり、

 バスタオル1枚で歩き回ったり、そういうことするはしたない女だよっ! いやらしい!」


「お、妹ちゃん案外わかってるね~。

 愛だの情だのなんて、いっしょに生活してエッチなことしてれば、後から自然に湧いてくるものだって。

 だから……あたしにしときなよ。

 あたしと同じところに行きたいって願ってくれさえすれば、あとはあたしがリードしてあげるから。

 あたしと一緒に、転生しちゃお?」


 悪戯っぽい調子でそう言いつつも、リノは横目で愛海との距離を測りながら、“転生の月片”を和仁に向かって掲げようとした。


「愛海、来るなっ!

 こいつは何かヤバい道具を持ってるんだ! お前は逃げろ!」


 和仁がそう叫んだとき、リノの目の前を――


 最初は、突風でも吹いたのかと思った。

 首の後ろと指先にチリチリと軽い痛みが走った。


 一瞬の間の後、リノが状況を把握したときにはもう、引き千切ったペンダントを握った愛海が、ものすごいスピードで和仁に飛びついているところだった。


 その勢いに押された和仁は、椅子につまづき、バランスを崩して後方に大きく2、3歩たたらを踏み――


 ――愛海を抱きかかえたような格好のまま、フッと屋上の端から姿が消えた。


「えっ、ちょ!?」


 リノはあわてて屋上の縁に駆け寄り、身を乗り出して下を見る。

 小さな光の粒が、ゆらゆらと漂いながら、風に流されるように消えていった。


「……マジで?」


 カチリと、その距離にいる者にしか聞こえない音を立てて、大時計の針が頂点で重なった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る