第36話 忘れられない人

「いらっしゃいませーーーーーー」



かすかな営業スマイルで店に立つ私。


できるなら今日は仕事を休みたかった。


だけど、そうも言ってられない。


谷崎は今日はまだ来ていない。


できるなら顔を合わせたくない……。


そう思っていた。



なんだか私、変なの。


谷崎に対する想いが大きくなればなるほど、楓さんの存在が私の中でどんどん大きくなっていくんだ。


もう、この世にはいない人なのに………。


いや……この世にいない人だからこそ、谷崎の楓さんへの想いが、果てしなく尊いものに感じるんだ。


かなわない……って思うんだ。



昨日の病院でのあの出来事で、私はハッキリとそう感じたんだ。


谷崎の心の中にいる大切な人は、間違いなく楓さんなんだ。


かけがえのない想い……たった1人の大切な人。


だけど、私は谷崎のことをどんどん好きになって……すごく好きになってしまって。


この気持ちを止めることもできないし、どうしたらいいのかもわからない。



昨日、私は初めて目の前で起こっている悪事から目をそらしてしまった。


見て見ぬフリをしてしまったーーーー。


あの揉めあいは結局大事には至らずに済んだけど。


なんだか、自分じゃないみたい……。


だけどーーーー。


それでもやっぱり、楓さんのような素敵な人になりたい、アイツをもっと笑顔にしてあげたい……。


そう思うのに。


好きなのに……。


そう思えば思うほど、なんだかすごく苦しくなるんだ。



そして、苦しくなるのは谷崎だけのことじゃない。


時々ふっと思い出す蘭太郎のこと。


やっぱり切ない。


私の好きな人達が、どんどん遠くに行ってしまうような気がして。


なんだか妙に寂しいんだ。


どうしてかな……黙っていてもなんだか泣きそうになってしまう。


蘭太郎や谷崎の笑顔を思い出してしまう。



ーーー私、女なのにケンカっ早くて、悪いヤツらを見たらすぐに追っかけてっちゃう男勝りの女だから。


今まで、誰も私のことを本気で好きになってくれたこともなく、ちゃんと恋をしたこともなく。


蘭太郎だけは、そんな私を昔っから『好きだ』と言ってくれてたけど……。


だから私、谷崎が私のことを『本気だ』って言ってくれた時、ドキドキして。


すごくすごく嬉しかったんだ。


そんなの初めてだったから。


その嬉しさが日に日に大きくなって、そのままアイツに対する気持ちの大きさになっていって………。



アイツと一緒にいるとね、なんだかそれだけで嬉しくて楽しくて、仕事に来るのが楽しみだった。


アイツに会えるのが楽しみだった。


ああ、私好きだなんだな……ーーーって思った。


だけど。


なんか、苦しいよ……。


すごく苦しいよ……。


私が小さなため息をついたその時だった。



カラン、カランーーーーーーー。



入り口の鐘が鳴った。


ふと顔を上げた私の視線の先には、店に入ってきた谷崎の姿があった。


ドキン……ーーー。


大きく鈍く、胸が鳴る。



「……お、お疲れさまっ……」


とっさに、無理に明るく挨拶する自分がいた。


「あ、きょ……今日は新商品ないんだねっ」


何も持たずにやってきた谷崎。


私は、自分でもわからないまま必要以上にペラペラと谷崎に話しかけた。


すると。



「春姫」


谷崎が静かに私の名前を呼んだんだ。


ドキン。


「今夜、空いてるか?」


なぜか、谷崎がいつもより真剣な雰囲気で真っ直ぐに私を見ている。


「……なんで?」


「ちょっと話したいことがあるんだ」


話したいことーーーー。


私はその話の内容に大体察しがついた。


きっと、楓さんのことだ……。


昨日私が帰ったあと、お母さんから聞いたんだろう。


実は私が楓さんの存在を知っていたことを。


きっと谷崎は謝ってくれるつもりなんだ。


昨日、楓さんのことでウソをついたこと。


でも私……。


その話は今はなんだか聞きたくないよ。



「ーーーあ、ごめん店長。私、今夜予定入ってたんだ」


私が思い出したように言った時、ちょうど店内にいたお客さんが店を出て行った。


「ありがとうございましたーーー」


私の声が響き渡ったあと、店内は私と谷崎の2人きりになった。


すると、すかさず谷崎が言ったんだ。


「じゃあ、今話すよ」


そう言いながら、谷崎は入り口の方に向かい、ドアにかかっているオープンクローズのプレートをひっくり返してドアを閉めたんだ。


「えっ……?なにしてんの?」


突然の谷崎の行動に驚いている私をよそに、アイツは私の目の前に赤いイスを置いてドカッと座ったんだ。


そして、なにも言えずに黙っている私に、谷崎は切り出した。



「ーーー昨日はホントにごめん。せっかく親父の見舞いに来てくれたのに、春姫のこと間違えた名前で呼んじまって」


やっぱりーーーーーーー。


そのことだ……。


「……ううん。気にしてないよ。そんなの」


私が笑顔で言うと、谷崎が静かに私を見た。


「………楓のこと、お袋に聞いて知ってたんだってな。オレ、なにも知らなくて。おまえにウソついた。ごめん」


谷崎が深く頭を下げた。


そんな谷崎の姿を見ていたら、なんだか余計に胸が苦しくなった。


私は小さく首を横に振った。


「………私の方こそごめんなさい。私、勝手に店長の過去のことをお母さんに聞きに行ったりして……。楓さんのこと知ってたのに、黙っててごめんなさい」


そうだ。


元はと言えば、私が勝手に気になって。


谷崎に内緒で、勝手に過去になにがあったのかを聞きに行ったりしたのがいけなかったんだ。


誰にだって、触れられたくない過去のひとつやふたつはあるよね。


そこに、私は許可なく勝手に踏み込んでしまったんだよね……。


それなのに。


知ったら知ったで、今度はまた勝手に思い詰めて悩んで落ち込んで。


なにやってんだろ……私。


謝らなきゃいけないのは私の方だ。


「……勝手なことして、ホントにごめんなさい……」


うつむく私に、谷崎が優しくこう言った。


「オレのこと心配して、お袋のとこに聞きに行ってくれたんだってな。ありがとな。すごい嬉しかったよ」


意外な言葉に、私は顔を上げた。


アイツの優しい笑顔。


なんでだろ、目の奥が熱い。


気がつくと、私の目からポロポロと涙がこぼれていたんだ。



「……春姫?」


谷崎の驚いた顔。


自分でもわからないけど、なんだか涙が止まらなかったんだ。


「おい、どうしたよ。春姫?」


谷崎が立ち上がって私の顔を覗き込む。


「わ……わかんない」


グシャグシャに泣いている私。


「私なんか変なの。情緒不安定かも……」



谷崎がそんな私のそばに歩み寄ってきた。


そして、そっと優しく抱きしめたんだ。


ドキンと大きく胸が鳴った。


アイツのあったかいぬくもりが、不思議なほど心地よくて、愛おしくて。


アイツの腕に包まれた私は、ひどく素直な気持ちになっていたんだ。



「店長……。私、店長のことが好きみたい。すごく……ーーー」



自分でも予想もしてなかった、涙の告白。


谷崎はふっと笑った。


「オレも。春姫のとが好きだ。すごくーーー」


頭の上から聞こえてくる優しい声。


「……でも。店長は楓さんのことが………」


私が泣きながら言うと、谷崎が静かに私の体を離した。



「ーーー確かに、楓のことは好きだったよ。でも、楓はもういない。ここにいるのは春姫だろ?」


「でも……。楓さんは、今でもずっと店長の胸の中にいるよね……?忘れられないんだよね……?だから、楓さんがいなくなってからもずっと1人だったんだよね……?それなのに……どうして?そろそろ楓さんを忘れなきゃいけないと思ったの?楓さんを忘れるために、私……ーーー?」


私は涙をぬぐいながら、谷崎に自分の正直な気持ちを問いかけた。


すると、谷崎は静かに首を振った。


「それは違う。オレは純粋に春姫に惚れたんだ」


ドキンーーー。


また胸が鳴る。


谷崎の言葉がひとつひとつが、私の心に響く。


「………自分でも不思議だったよ。ーーーホントのこと言うとさ。楓が死んでから、心が空っぽみたくなったっていうか……。もう、この先誰かを好きになることなんてないと思ってたんだ。だけど、春姫と出会って、知り合って。……気がついたら、おまえのこと好きになってる自分がいた。たぶん、初めて出会ったあの日から。気になっていたっていうか、なんていうか。なんかわかんないけど、おまえはオレの中でちょっと特別なヤツだった。おまえ、ぶっ飛んでたからさ」


谷崎がちょっと笑った。


「オレ、どうでもいいヤツのことはすぐ忘れちまうんだけど。あんなほんのちょっとの最初の出会いでも、おまえのこと忘れなかった。確かに、オレとおまえは出会ってからまだそんなに経ってはいない。オレは春姫が好きだ。ただ……楓を忘れることはないと思う。たぶん、これからもずっと……。アイツが天国で元気でいてくれたらいいなと思う。純粋にそれだけだ。それがオレの正直な気持ちだ」



やっぱり……ーーーーーー。



いくら好きだって言ってくれたって。


私がどんなに谷崎を想ったって。


どうあがいたって、楓さんにはかなわないんだよ。


嫌いになったり気持ちが冷めたりしてお別れたんじゃない。


お互い大好きなまま別れてしまったんだもん。


谷崎の心の中には、不動の地位で楓さんが存在してるんだよ。



いちばんじゃなくてもいい。


そう思ってたいたハズなのに。


いつの間にか、私は谷崎のいちばんになりたい、そう思っていたのかもしれない。


こんなに切ない気持ちになるなら、いっそ楓さんのことをなにも知らないままでいた方がよかったのかもしれない。



私はどうして谷崎と出会ってしまったんだろう。


好きなのに。


好きだと言ってくれてるのに。


私は永遠に、谷崎の心の中のいちばんの人にはなれないんだ……。



「春姫ーーーオレの彼女になってくれる?」


谷崎の優しい声。


「いろんなことが落ち着いてから……。焦らずゆっくりと……。って思ってたけど。春姫がオレのこと好きだって言ってくれたから。オレもおまえが好きだから。だからーーー」


嬉しい……だけど、切ない。


苦しい……だけど、好き。


胸が熱い。



「オレとつき合って下さいーーー」



いろいろな想いが揺れ動く心の中。


それで『好き』という自分の気持ちにだけはウソはつけず。


谷崎の言葉に、私は『はい』とうなずかずにはいられなかったんだーーーー。




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