第五話「惨劇の夜」(少女の独白)
私は、基本的に眠りが深い
何か物音が聞こえたとか、異変を感じたとか、そういう理由ではありません。少なくとも私の気づいた限りでは、何もなかったはずですが……。
目が覚めて最初に思ったのは、なぜ部屋がこんなに薄暗いのだろう、ということでした。いつもならば、私が起きる頃には、窓から朝日が差し込んでいるはずですからね。
まだ夜中であるとも知らずに、不思議に思いながら、暗い室内をボーッと見回すと……。
隣のベッドが空っぽなことに、気が付いたのです。
ああ、申し遅れました。私の部屋は姉のジゼルと一緒でして、おばあちゃんの部屋の隣が、私たち姉妹の寝室になっています。
どうやら私は、姉がいなくなったのを無意識のうちに察して、それで起きてしまったようです。最初はトイレにでも行ったのかと思いましたが、妙な胸騒ぎがして、窓から外を見ると……。
月明かりの下を歩く姉の姿が、視界に入ってきたのです。
寝間着の上から一枚引っ掛けただけの、簡単な格好でした。遠くまで出かけるつもりには見えません。
ならば声をかけるより、姉が何をするのか直接この目で見届けようと考えて、私も上着を羽織って外に出ました。
姉は夜の逢い引きに行くのだろうと、私は思いました。ちょうど姉には、そういう相手がいましたから。
そうです。二人が知り合った場面には私もいたので、よく知っていたのです。姉妹で街まで買い物に出かけた際、袋からこぼれたオレンジを彼に拾ってもらったのが、出会いのきっかけでした。
彼はラファエルと名乗っていましたが、もしかしたら偽名かもしれません。いわゆる『悪い男』のようで……。いえ、別に犯罪者ではないのですよ。ただ、いかにも『女の敵』という感じの男だったのです。
二十代半ばの貴族くずれで、見てくれは良いのですが、何と言いますか、退廃的な雰囲気を漂わせていて……。もちろん、それはそれで、女性を惹き付ける魅力になっていたのでしょうけど。
まあ簡単に言ってしまえば、姉は女たらしに引っ掛かったのですね。
姉は私と一つしか違わず、顔も体型も私とよく似ていましたが、性格は大違いでした。地味で大人しく、あまり自己主張することもなく……。
でも結局は、世間知らずだったのですね。だからこそ、あんな男に騙されてしまったのでしょう。
ええ、姉は『騙されていた』のです。どう間違っても、彼が本気で姉を愛していたとは思えません!
……申し訳ありません、少し取り乱してしまいました。あまり、あの男のことは口にしたくないもので。
そうですね、話を戻しましょう。問題の夜の出来事に……。
音を立てないように注意しながら、私が家の外に出た時には、もう姉の姿はありませんでした。ぐるりと家のまわりを一周してみましたが、どこにも見当たりません。
最初は「遠くまで出かけるつもりではないだろう」と思っていましたが、ここで考えを改めました。密会するにせよ何にせよ、姉は家の近くではなく、少し離れた場所を選んだのではないか、と。人目につかないよう、村の外へ向かったのではないか、と。
そこで姉の行く先として、真っ先に頭に浮かんだのが、東の森でした。
東の森には『異界の魔塔』がありますからね。
しかも、それだけではありません。
いつだったか忘れましたが……。夕焼けがきれいな時間帯に一度、東の森へと通じる小道から、姉が出てくるのを目撃したことがありました。『山菜を探しに行っていた』と言われて素直に信じてしまったのですが、後から思い返してみれば、あれも逢い引きだったのでしょう。
つまり、二人は『異界の魔塔』付近を、前々から密会場所として使っていた可能性が高いのです。
もちろん、あの時一人で夜風を受けながら、そこまで理屈立てて考えたわけではありません。ただ今になって言葉にするならば、無意識のうちにそう考えていたのだろう、と思えるのです。
あの晩の私の感覚としては「なんとなく」でしたが、とりあえず自分の直感を信じることにして、大きく一つ深呼吸してから……。
東の森へ向かって、歩き出したのです。
静かな夜でした。
フクロウの鳴き声が遠くから聞こえましたが、ただ、それだけでした。
自分の足音、いや正確には、茂みや木々の間を歩くことで生じる葉ずれの音でしょうね。それが妙に目立って聞こえて、先を行くはずの姉の耳にも入るのではないかと、心配になるくらいでした。
そもそも私は、か弱い平民であり、うら若き女性ですからね。夜の森というだけで、ちょっと入って行くのを躊躇するような、漠然とした怖さもあったのです。
とはいえ、いったん行動し始めた以上、泣き言なんて口に出来ません。勇気を振り絞って、どんどん森の奥へと進んでいきました。
幸い、あの日の夜空は、雲ひとつない晴天でした。木々の枝や葉が重なり合う隙間から、月と星々が、私の行く道をハッキリと照らし出してくれました。
目指す『異界の魔塔』へは、一応、人の通れる林道があります。あの塔が今では廃墟であるように、かなり獣道と化していますが……。それでも歩くこと自体には、さほど苦労しませんでした。
一本道ではないのですが、木々の隙間から時々、星明かりを遮る形で、大きな建物が存在を主張していましたからね。特に迷うこともありませんでした。
そうして、ただの黒い影だったものが、明確に『異界の魔塔』の形として見えてきた頃……。
道幅が広くなって、少し開けた感じの場所で。
姉がボーッと立っているのを、ついに発見したのです。
まだ逢い引きの相手は来ておらず、姉は一人でした。
これから現れる男のことを想って、心が昂ぶっていたのでしょう。体も火照っていたのでしょう。
羽織っていた上着は足元に脱ぎ捨てて、寝間着も半分、はだけたような状態です。器量もスタイルも良い姉ですから、月明かりの下でそんな格好をしていると、淫美というより幻想的な美しさがありました。
まるで一枚の絵画のようで、この光景を壊すのは無粋にも思えたのですが……。意を決して、声をかけました。
「……ジゼル姉さん!」
恍惚と夜空を見上げていた姉は、驚きの表情で振り返りました。ここで初めて、私の存在に気づいたのです。
「ミシェル? あなた、いったい……。どうして、ここに……」
言葉が出ない、といった感じです。その隙に、私は畳み掛けました。
「ジゼル姉さんこそ! どうせ、あの男と会うのでしょう!」
「な、何を言ってるのかしら? あ、あの男って……」
「しらばっくれないで! もしかして……。彼は今、あそこの塔をねぐらにしているの……?」
近くにそびえる『異界の魔塔』を指し示しながら、そう言ってみたのですが、
「ありえないわ! 誇り高き貴族の生まれなのよ! こんな薄汚い廃墟に寝泊まりするわけないでしょう!」
姉はムキになって否定しました。
今度は動揺していないので本心に聞こえましたが、逆に言えば、先ほど言葉が震えたのは大嘘だったということです。私の質問が図星だったということです。
やはり姉は、男と会うために、ここに来ていたのです!
私は、少し口調を柔らかくしました。
「ねえ、ジゼル姉さん……。お願いだから、目を覚ましてよ。悪い男に騙されてるんだから……。あんな貴族くずれに誑かされる姉を持って、妹としては、情けないくらいだわ……」
「馬鹿なこと言わないで! 子供のあなたに、何がわかるというの?」
おかしいじゃありませんか。姉は自分の行動を棚に上げて、私を子供扱いするのです。
そもそも、私とは一つしか違わないのに。
それに内向的な姉よりも、積極的で行動的な私の方が、知識も経験も豊富で、むしろ大人だと言えるのに。
私が目を丸くしていると、姉は飛び掛かってきました。惚れた男のことを悪く言われて、逆上したのでしょうね。実力行使で私を追い返そう、という気持ちもあったのかもしれません。
「……!?」
不意を突かれて、私は腕を引っかかれてしまいました。
ほら、見てください。ここの傷ですよ。まだ少し痕が残っているでしょう?
いやはや、いくら姉が恋に狂った乙女とはいえ、まさか実の妹である私に手を上げるとは思いませんでした。
「やめてよ、ジゼル姉さん! 暴力はダメだわ! 冷静に話し合いましょう!」
「そんなこと言って! 私から彼を奪うつもりなのでしょう? だから、ここに来たのでしょう? あなただって、彼を好きなのでしょう?」
純粋に諌めようとしただけなのに、いつのまにか、恋敵に認定されてしまうとは……。
まるで笑い話ですが、笑っていられる状況ではありません。
「ちょっと待って、ジゼル姉さん! どうして、そういう話になるの? そんな気持ち、私にあるはずないし……」
姉は私の言葉に耳を傾けず、子供の喧嘩のように腕を振り回していましたが……。
その時、事件が起こったのでした。
ガサ……。ガサガサ……。
争っていた私たちがハッと動きを止めるくらい、大きな物音が聞こえてきたのです。私から見て右――ちょうど『異界の魔塔』がある方角――の茂みからでした。
「……!」
姉は表情を明るくして、そちらへ駆け寄りました。もう私のことなど構わない、と言わんばかりの態度で。
待ち人、来たる。そう思ったのでしょう。
でも。
「……え?」
姉はポカンとして、立ちすくんでしまいました。森の中から現れたものが、あまりにも予想外だったからです。
「……牛さん?」
と呟いたのは私です。
真っ先に考えたのは『異界の魔塔』に住み着いたという野生動物のこと。それに、最初に目に入ったのは、その頭だけでしたから。
でも、すぐに全身も見えてきて……。
「きゃああああああああああああ!」
大声で悲鳴を上げてしまいました。
大斧を握りしめた、
そして。
怪物は、その斧を振るって……。
「逃げなさい、ミシェル!」
ザックリと斬られて血を流しながらも、姉は毅然と叫んでいました。
その瞳は、もう、恋に恋する乙女のものではありません。私に襲いかかった、嫉妬深い
いつも私に向けられていた、あの優しいジゼル姉さんの目でした。
「何してるの! 逃げなさい、ミシェル!」
同じ言葉を繰り返す姉は既に、まともに立つことも出来ない有様です。それでも、まだ健在な二本の腕で、しっかりと怪物の脚に組み付いていました。
文字通り、その場に怪物を足止めするために。
「は、はい!」
それしか言えずに、私は逃げ出しました。
私が背中を向けて駆け出した瞬間、姉は満足そうに笑っていたような気がします。これが、姉を見た最後になりました。
「ミシェルだけは……! 妹だけは、絶対に……!」
「ウォオオオオオオッ!」
姉の叫びをかき消すかのように、怪物の咆哮が聞こえてきました。
いや、唸り声だけではありません。
バリバリと骨を噛み砕くような音も、耳に届いたのです。
そうした恐ろしい音を背に受けて、追い立てられるようにして……。
後ろを振り返ることなく、ただただ泣きながら、私は走り続けました。
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