第11話 彼女は笑う。そして彼女は、

 俺たちを見てニッコリと微笑むその姿は、6ヵ月経っていても忘れようがない。


「助けに来たよ。さあ、入って入って」


 あれ、なんか口調が……カネザワさんってこんな感じの人だったっけ?


「すげー、カネザワちゃんってこんなことできたんだ」

「ちょっとだけ手伝ってもらってね」

「あー、星野さん? あの人ならこのくらいできそうだもんなー」

「そうそう。それより、早くしないとこの穴、すぐ閉じちゃうから」

「マジ? じゃあさっさと行こうぜ友紀」


 粕谷は何一つ疑っていないらしく、俺の手を掴んで歩き出した。

 ……まあ、仮にこの穴みたいなものが罠だったとしても、粕谷が触れた瞬間にぶっ壊れるだろう、多分。

 身に危険を及ぼすような異象に対して粕谷は鉄壁の防御を誇る。こいつを盾にしておけば大抵のことは問題にならないはずだ。


 黒い穴に粕谷が触れても、何も変化は起こらなかった。

 穴は光を全く通さないらしく、まるで触れた部分だけが切り取られていくかのように、粕谷の体がその中に消えていく。

 握られていた手が離れた。

 俺も続けて穴に入ろうと手を伸ばし……ゴムのような感触が指先に伝わってきた。

 何かふたのようなものがあるのか、穴に入れない。

 というかこれは……俺の目の前にあるものは、穴なんかじゃない。ただの真っ黒な、弾力のある何かだ。


「やっぱりダメだったか」


 声の方へ振り向くと、無表情のカネザワさんが立ち尽くしていた。


「……なんだよこれ。あんた、カネザワさんじゃないだろ。粕谷をどこにやった?」


 にらみ付ける俺の視線をかわすように、彼女は燃え続けている学校に顔を向けた。


「派手に燃えてるねえ」

「答えろ! 粕谷をどうした!?」

「君のお友達なら、無事に元の世界に帰ったよ。君も見てたでしょ?」

「帰ったって……本当に?」

「本当だよ。さっきも言ったでしょ、君たちを助けるために来たって。まあ、さすがにこんな辺鄙へんぴな所まで来るのは大変だったから、この子の体を借りることになっちゃったんだけど」


 そう言いながら、カネザワさんに似た何者かは、右手で自分の左腕を抱くようにして撫でた。


「あっちでこの子に会ったらお礼を……あー、や、なんでもない」

「あんた、誰なんだ?」

「うーん……魔女、かな」


 彼女が魔女と名乗るのを聞いて、一瞬、星野さんの同業者かと思った。

 カネザワさんから連絡を受けた星野さんが俺たちを救出するために、魔女の仲間に協力を仰ぐ……普通にあり得そうな話ではある。

 しかし、俺の心の奥深くにある何かは、そうではないと確信していた。


「君は覚えていないだろうけど、こうなっちゃったのは私の責任でもあるからね」


 その瞬間、俺の中で何かが弾けた。

 閉ざされていた記憶が一斉に溢れ出す。

 魔女──そうだ、かつて俺は魔女と出会い、魔法をかけてもらったのだ。


「あんた……あの時の魔女なのか?」

「ありゃ、思い出しちゃったか。時間の問題だとは思ってたけど、記憶の方も完全に戻ったみたいだね。……そうだよ。小学五年生の君が出会ったのは私」


 やっぱりという思いと同時に、いくつもの疑問が浮かび上がる。


「じゃあどうして俺は、今、になっているんだ?」


 あの時俺は、異象に関する全て──それこそ記憶さえも──を封印されたはずだ。

 そして、そのお陰でかろうじてまともな人生を取り戻すことができた。

 原因不明の人間不審のせいでずっとぼっちだったが……それはまあいい。

 問題は、そうして異象に関する能力を失ったはずの俺が何故、再びがっつり異象と関わることになってしまっているのかということだ。

 そういった疑問を伝えるにはあまりにも言葉が足りなかったが、それでも彼女は俺の言いたいことを理解してくれたらしかった。


「私にも予想外だったんだよ。あの金髪の子……まさかあんな人間がいるなんて」

「粕谷のことか……? あいつが何か関係あるのか?」

「あの子は魔女の天敵だね。特に私の魔法とは相性が最悪。あの子がそれを望むなら、どんな強固な封印も砂のお城みたいに崩れて消えてしまうでしょうね」

「それって……」


 粕谷が俺の封印を壊したということだろうか?

 何のために?

 ……いや、あいつも意識してそうした訳じゃないはずだ。出会った時はお互いに、自分がどういう力を持っているかさえ知らなかったのだから。


「つまり、俺が粕谷とたまたま出会ったせいで……あいつの力が偶然働いたせいで、封印がダメになった?」

「そういうこと。一応年に一回くらいは様子を見に来てたんだけど、まさかいきなりこんな所に閉じ込められてるとは思わなかったよ」

「あのバカ……」


 初めてあいつと出会った瞬間、ガチリと歯車がどこかヤバい所にシフトしてしまったかのような感じがしたのは、そういうことだったのか。

 あいつのせいで俺の人生は、突然ジェットコースターに乗せられたかのようにせわしないものへと変化してしまった。

 マイペースなあいつに振り回されて、かつて望んでいた平穏な日々は遥か彼方へと吹き飛び、挙げ句の果てにこんな奇妙な異界で何ヵ月も過ごすことになるなんて、大学に入ったばかりの俺に教えてやっても絶対に信じなかっただろう。


 ……でもまあ、正直に言えば、そんな慌ただしい毎日は嫌いじゃなかった。

 あいつと一緒にいると、良くも悪くも、自分の心の奥底にわだかまっている鬱々とした気持ちに構っている余裕などなくなってしまうのだから。

 それはもしかしたら、俺が本当に望んでいたものだったのかもしれない。


「まあ、仕方ないか……」


 仕方ない。

 きっと、なるべくしてそうなったのだ。

 例え人生をやり直すことができたとしても、恐らくどう足掻いたって俺は粕谷と再び出会い、懲りずにもう一度この奇妙な世界に足を踏み入れるに違いない。

 不思議と、そんな確信があった。


「いい関係なんだね。君たちは」

「まあ悪くはないけど……」


 そこでふと俺は、目の前の魔女に、小学生の時に助けてもらったお礼を言えていなかったことを思い出した。


「……あー、今更だけど。あの時あんたが助けてくれなかったら、俺は多分……自殺とか、そんな感じのことになってたと思う。それに今もこうして来てくれて……だから……なんつーか、ありがとう」


 俺が目をそらしながら言うと、彼女はポカンと口を半開きにして固まった。

 かなり間抜けな顔だ。


「なんだよその顔」

「いやー、ちょっとびっくりしちゃって。ずいぶん可愛げのない子に育っちゃったのかと思ってたけど、やっぱり根は良い子なんだねえ。それに記憶を消したのは私なんだから、そんなの気にしなくていいんだよ」


 何故か目の前の魔女は顔を赤くして、パタパタと手を振りながら言った。

 くそう、恥ずかしいのはこっちだ……慣れないことはするもんじゃない。


「それで……一つ聞きたいんだけど、どうして俺は穴に入れなかったんだ?」


 いたたまれなくなった俺は、さっさと話題を変えることにした。

 粕谷が通った黒い穴はもう既に、人が通れる大きさではなくなっている。

 さっき彼女は「やっぱりダメだった」とか言っていた。つまり、何か心当たりがあるのだろう。


「君がこの世界と深く結びついてしまったからだよ」


 彼女の答えは簡潔だった。


「……どういうこと?」

「君は私みたいな魔女よりもずっと、こういう世界に馴染んでしまう性質を持っているの」


 星野さんや蛇一の兄貴が言う、異象に対する親和性というやつだろう。

 しかしいくらそれが高いからといって、元の世界に帰れなくなる程なのだろうか。


「普通ならこんなに深く世界に根付いてしまうなんてことは起こり得ない。けれど、この世界はちょっと普通じゃないからね」

「普通じゃないって……異界なんてどれも普通じゃないのが普通だと思うんだけど」


 俺が生まれ育った世界とは何もかもが違う、常識の通用しない突拍子もない世界。

 それが俺の抱いている異界全般に対するイメージだ。

 今いるこの異界なんて、まさにそのイメージ通りと言えるだろう。


「うーん、君はちょっと思い違いをしてる。ここはね、見た目よりもずっと、ずーっと、ものすごく小さいの。分かりやすく言うと、この世界を構成しているデータ量がとても少ないって感じ。イメージ的には四畳半だね」

「ごめん、全然分からないんだけど……バカにも分かるように説明してくれる?」


 俺がいきなり白旗を揚げると、彼女は少し困ったように笑った。


「えっと、つまりね、この世界は自然に出来上がったものじゃなくて、人為的に作られたものなの」

「あー……それはまあ、そうか」


 この異界は明らかに、日本の街並みを劣化コピーしたような、いびつな作りになっている。そこに何者かの意志が介在していると考えるのは当然かもしれない。

 何故こんなものを作ったのか、理由までは分からないが……。


「あれ、全然驚いてない? ひょっとして知ってた?」

「知らないけど……そもそも異界ってのがどういうものなのかよく分かってないから、何に驚けばいいのかも分からない」

「あー、なるほど。……えっとね、私から見たら、君が生まれた世界も異界のうちの一つなの。私が言っている意味、わかる?」


 ……ということは、やっぱりこの魔女は異界の住人だった訳だ。

 まあ、影だけの状態で現れたり、カネザワさんの肉体を乗っ取ったり(本人は借りてるとか言ってたけど同じようなものだろう)している時点で、普通の人間じゃないんだろうなとは思っていたけど。

 漠然とだが、なんとなく分かったような気がして俺は頷いた。


「異界っていうものは、君の世界と同じように太陽みたいなものの周りを回っている、ごくありふれた惑星なんだよ。それが別の宇宙に存在していたり、あるいは分岐した可能性の世界だったりするっていうだけでね」

「なんか急にSF じみてきたな……」

「世界っていうものを説明しようとしたら、必然的にそうなっちゃうかな。君の世界だけが球体の星で、他の異界はみんな亀の背中に乗っているとは思わないでしょ?」

「あー……言いたいことは分かったよ」


 俺は大人しく降参して、黙って話を聞くことにした。


「ところがこの不出来な世界は、そういった異界とはそもそもの成り立ちからして違う。一人の魔女によって作られた、箱庭みたいなものだからね」


 今、ちょっと聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がする。

 一人の魔女によって作られた? 人為的ってそういう意味だったの?

 俺はてっきり、国とかそういう規模の話かと思っていた。異界にも国があるのか知らないけど。

 だってこの街全部だよ? 6ヶ月間ずいぶん歩いたけど、行けども行けども街が続いていて、とても果てまでたどり着けるとは思えないくらいに広大だった。そんな街並みを、たった一人の魔女が作ったなんて、到底信じられない。


「信じられないって顔してるね」

「いや……だってそんなの、魔法じゃん……」


 思わず俺が呟くと、彼女は驚いた猫のように目を丸くした。


「それは冗談で言ってる?」

「あー……いや、分かってる。あんたが魔女だってこととか、俺のために魔法を使ってくれたこととか、そもそもこの異界に引きずり込まれてる時点で今更何言ってるんだってことは……」

「なんだ、分かってるじゃない」

「でもさー、なんつーか……スケールが違うっていうか」

「む、心外だなあ。私だって、やろうと思えばこのくらいの規模の魔法くらい、余裕で使えるんだからね」


 他の魔女が作った世界に介入できている時点で私の方が格上なんだからね、と胸を張る彼女を、俺は初めて畏怖の目で見つめた。

 マジかよ。魔女って実はものすごい存在なの?

 星野さんも本気出したらとんでもない魔法が使えたりするのだろうか。


「ま、とにかくこの世界はどこぞの魔女が作り出したもので……捕食目的、じゃなさそうだね。仕掛けがいちいち大げさだから。だとすると研究……あるいは、趣味のためのものって所かな?」

「趣味?」

「自分が作った箱庭に人間を閉じ込めて観察するのが趣味なのかなって。研究目的にしては干渉が少なすぎるし、無駄が多すぎるから」

「虫を捕まえてきて自作のカゴで飼う感じ?」

「そんな感じ」

「最悪だな、あいつ」


 俺はじっとこちらを見つめていた青白い顔を思い出して、思わず悪態をつく。

 ほぼ間違いなく、俺たちも最初からずっと観察されていたということだ。プライバシーも何もあったもんじゃない。

 許せんな、あの青いやつ……というかあいつが魔女なのか? どうも魔女って言葉とイメージがかけ離れてるけど、まあ異界の魔女ならそんなものなのか。


「ところで、君はどうして火を?」


 青白い顔の怪物とは打って変わって可愛らしい姿(ただし借り物)をしたこちらの魔女は、校舎を指差しながら言った。

 唐突な話題の転換にやや面食らったが、しかしその質問の内容は話題の延長線上にあった。さっきの会話の中で彼女はそこまで見抜いたのかもしれない。

 まあ、難しいことはどうでもいい。俺はあの青い顔をした化け物のことを話した。


「ふうん。それは……ちょっとマズいかもだね」

「マズいって……あ、ひょっとして俺、また何かやっちゃいました?」

「また? ていうか何その口調。急にどうしたの?」

「気にしないで」

「……まあとにかく、この世界の主はアリンコを捕まえるつもりで猛毒の虫をってきちゃったってこと。自分の命が危険に晒されるとも知らずに」

「それ、俺のこと?」

「他に誰がいるのよ。君が見たその青白い化け物は恐らく魔女本人じゃないと思うけど、本人と繋がりがあることは間違いない。大方、君たちが何ヶ月間も、のほほんと異世界生活をエンジョイしてたのが気に入らなかったんでしょうね。ちょっと脅してやって愉快なリアクションを観察しようとか考えて……」

「こんな大火事になった?」


 俺はその光景を眺めながら投げやりに言った。

 校舎を舐め尽くした炎は風に乗ったのか、次々に他の民家へと燃え広がっている。

 ちょっと目を離していた間にこれだ。もう火事なんて可愛いレベルじゃない。

 幸いこちら側は広い校庭なので炎が迫ってくる様子はないが、この異常な燃え広がり方を見るとそれも時間の問題のように思えてくる。


「気のせいかな……なんか燃える速度がおかしい気がするんだけど」

「君くらい力のあるギフテッドが、明確な敵意を持って火を放ったんだから当然。あれはもはや指向性を持った破壊の形と言えるね。多分あの火は対象が逃げ続ける限り、この世界を全部焼き尽くすまで消えないと思うよ」

「……えっ、マジで?」

「君はどんな気持ちで火をつけたの? あ、怒ってるとかじゃなくて、単なる質問ね。どういう意志を持って行動を起こしたのかっていう質問」

「意志? えーと……『邪魔するな』とか?」

「わーお、範囲が広い。こりゃヤバいね。君の言う青い怪物を殺しても、この火は止まらない可能性が高いわ。もしも手を打つのが少しでも遅くなれば、この世界の主である魔女自身も無事じゃ済まないだろうけど……まあ多分? 私が割り込んじゃったせいで? 今はそれどころじゃないかもなー。あはははは」


 あ、こりゃ死んだな、その魔女。よく分からんけど。

 まあ自業自得だろう。

 村の人間を何人もさらって、悪趣味な遊びを繰り返してたんだし。

 俺たちは例外的にここの生活を楽しんでいたけれど、他の人たちは恐らく……気が触れて自ら命を断ってたりするんだろうな。


「……さてと、笑い事じゃないね」


 この魔女はひとしきり笑っておきながら、急にシリアスな顔になりやがった。


「えー、このまま行くと、君は死にます」

「えっ」

「君自身がこの世界の一部みたいになっちゃってるからね。そのうち自分で放った火に焼かれるってワケ」

「……バカにも分かりやすい説明をどーも」


 とっさに余裕そうな態度を取ってしまったが、俺の内心は穏やかではなかった。

 いきなり死ぬと言われれば当然だろう。しかも見た感じ、それほど時間的な猶予もなさそうだ。

 というか自分でつけた火で焼け死ぬって馬鹿過ぎないか? あの粕谷は無事に帰れたというのに、俺だけこんなアホ丸出しな感じで死ぬのか……最悪だ……。


「大丈夫だよ」


 俺がこっそり落ち込んでいると、魔女が俺の手をそっと握ってきた。

 体はカネザワさんなので子供みたいに小さい手なのに、触れられているだけで妙な力強さと安心感が伝わってきて、スッと心が落ち着いていった。


「助けに来たって言ったでしょ? まだ方法はあるんだから」

「どうすんの?」

「もう一度、君の力を封印する。今度は全力でやるよ。この世界とのつながりなんて軽く断ち切っちゃうくらいにね」

「封印……」


 あの時、絶望の淵から救ってもらった魔法。

 彼女はその魔法をもう一度使うという。

 それはつまり……


「記憶……俺の記憶もやっぱ、また消えちゃうのかな」

「……うん。封印が壊れた時期からだから、そんなにたくさんじゃないと思うけど」


 それはつまり、粕谷と出会った時からということだ。

 あいつと過ごしたアホみたいな時間も、あいつ自身の存在さえも……俺の中から消えてなくなってしまうということだ。


「色々と辻褄が合わなくなると思うんだけど……。俺、大学に入ってからの記憶がなくなったら三年に上がれなくない? 試験的な意味で」

「その辺は私が全部調整する。君のことを知っている人の記憶もいじらせてもらう。三年生には……なれないかもしれないけど……そこはごめん」

「留年確定じゃん……」


 しかし、やっぱ只者じゃなかったんだな、この魔女。俺に関わった人間全部の記憶をいじるって相当ヤバい魔法だぞ。

 ともあれ、まあ、ちょうど良かったのかもしれない。これですっきりする。

 あいつには振り回されっぱなしで、ロクな思い出が全然ないからなあ。

 あいつが「人を殺したかも」とか言ってきた時は、本当に縁を切ってやろうかと思ったくらいだ。それまでも、その後も、本当にひどい一年とちょっとだった。

 これで異象とかいう非常識なものとも関わり合いにならずに済むのなら、平穏な日常を過ごすという俺の願いは今度こそ叶うだろう。

 まったく願ったり叶ったりだ。




「…………俺、やっぱいいや」

「ん、どういうこと?」

「助けてもらわなくていいよ。せっかく親切にしてもらっといて悪いけど……あいつとの記憶が消えるんなら……そんなの生き延びたって意味ねーし」

「……こんなこと言うのはアレだけどさ、君が今感じてる葛藤も、感傷も、記憶が消えれば全部なかったことになるんだよ? 死んで本当に何もなくなるよりは、新しい人生を歩んだ方がお得だと思わない?」

「それはもう、俺じゃないよ。そんなのは別の誰かだ」

「私にとっては君だよ。私が全部見てるし、全部知ってるよ。それじゃ駄目かな?」

「悪いけど、あんたじゃ駄目なんだ」

「……そう」


 本当にどうかしてる。

 命が助かるなら、それに勝るものなどないはずだ。

 記憶がなんだ。生きていればまた粕谷と出会う可能性だって……まあ、出会った瞬間に封印がぶっ壊されることを知ってしまったこの魔女が、そうやすやすと出会わせてくれるとは思えないが……それでも同じ世界に生きてさえいれば、ほんのちょっとの可能性くらいはあるだろう。

 それなのに、自分でもよく分からないような、こんな下らない意地みたいなもののせいで、助かるはずの命を投げ出すなんて、一体俺はどれだけ面倒くさいヒロインのつもりなんだ?

 さっさと発言を取り消せと、俺の中の本能が全力で叫んでいる。

 当たり前だ。死ぬのは怖い。普通に怖い。

 でも、たぶん、それ以上に俺は……俺が俺でいられた時間を失うのが、怖いのだ。


「あのさ、どうして俺なんかのためにここまで親切にしてくれたんだ?」

「意地だよ。……最初は君のその類稀たぐいまれな輝きに惹かれて思わず……でも今は、魔女としての意地だけで動いてる」

「そっか。俺にはちょっとよく分からないけど……でも、結果的に粕谷を助けてくれてありがとう。それと、期待に添えなくてごめん」

「……」


 彼女はさっきからずっとうつむいたままで、表情が見えない。

 怒らせてしまっただろうか。……まあ、怒るよなあ。

 俺を助けるためにわざわざこんな異界まで来てくれたのに、なんかよく分からないフワッとした理由で断られたらそりゃあ……。


「君の気持ちは分かったよ」


 俯いていた彼女の顔が、ゆっくりと俺に向けられる。

 その表情は……意外にも、不敵な笑みだった。


「でも、私は君に魔法をかけます」

「え? いや、話聞いてた?」

「意地だって言ったでしょ。君の気持ちはよーく分かったよ。でもね、私にとってはそんなこと、どうでもいいんだ」

「はー!?」

「自信満々で君を救ってあげるつもりで手を差し伸べたくせにこの失態。まったく、封印の魔女の面目丸潰れだよ。だから悪いけどね、ここは私自身のプライドのために、君の意志なんて一切関係なく、私は君にもう一度魔法をかける。今度こそ完璧に、最高の仕事を、最後まで成し遂げてみせる。これは私の存在意義に関わることなんだからね」

「無茶苦茶だこの人」

「大丈夫、君はきっと幸せになれる。君の願いはきっと叶う。この私が保証しよう」

「胡散臭えー!」

「言ったでしょ、完璧にやるって。君は何も心配せず全部私に任せとけばいいの!」


 なんなんだこの魔女は。

 最初から俺の意見に耳を貸す気なんてなかったんじゃないか。

 めちゃくちゃにグイグイ来る魔女の瞳は黄金色に光り輝き始めていて、これ以上、とても会話が通じるようには思えなかった。

 そうとなれば逃げるが勝ちだ。俺はくるりと魔女に背を向けると、全力ダッシュを決めようとして……足が一切動かないことに気がついた。

 ドン、と胸に重い何かが打ち込まれたような感覚の直後、視界の色が消えていく。

 やめてくれ。

 俺は、俺ではない何者かになんてなりたくないんだ。

 そううめいたつもりだった。

 その声が魔女に届いたかどうかは、分からなかった。

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