第10話 20歳の黄昏

 そこは古い学校だった。

 床は全て木組みで、深いあめ色の光沢を放っている。

 階段の一段一段がやけに低い。恐らく小学校なのだろう。

 歩くたびにギシギシと音が鳴る。床が抜けないか不安になるが、粕谷はまるで気にしていないようだった。


「うおー屋上行こうぜー!」


 テンションガン上がりの粕谷がすごい勢いで階段を駆け上がっていく。

 まるで本物の小学生だ。


 いつものようにねぐらを探して大通りから外れた俺たちは、ビルの陰に隠れていた広い敷地と大きな建物を発見した。

 白いラインが引かれた校庭。そして古ぼけた校舎。

 これまでも住宅街で民家以外の建物を見つけることはあったが、ここまでしっかりと学校と分かるものは初めてだった。

 夕焼けの赤い光が照らす学校の校舎は、実際にそんな記憶などないのに、どうしてこうもノスタルジックな気持ちを呼び起こすのだろうか。


 どこかの窓が開いているのか、校舎の中にいても「遠き山に日は落ちて」のメロディが小さく聞こえてくる。

 6ヵ月もの間、白夜のような終わらない夕焼けの中で延々と同じ音楽を聴かされているにもかかわらず、俺たちはそれを特に不快と思うこともなく生活していた。

 普通ならノイローゼになってしまうのかもしれない。しかし、異象への強烈な耐性を持つ粕谷については言わずもがなだが、俺がそうならないのは、恐らく星野さんから貰ったこの指輪のおかげなのだろう。

 俺は指輪の感触を確かめつつ、そっと心の中で星野さんに感謝した。

 あの日もらった指輪は、どの指にはめてみても大きすぎた。なので俺は仕方なく、紐を通して首から下げるという方法を取ることにしたのだった。

 結局、ネックレスを選ぼうが指輪を選ぼうが同じことだったというわけだ。


 粕谷の後を追うように、ゆっくりと階段を上っていく。

 段差が小さいとはいえ、階段は階段だ。俺のような引きこもり体質の人間にとっては、あまり嬉しくない運動であることに変わりはない。

 この異界に来てからは以前より運動量が増えたので、多少は体力がついたような気がするけれど、だからといって粕谷のように元気よく階段を駆け上がれるほどの気力はない。短時間の運動ならば、アスリートでもない限り、多少の体力の差など気力でカバーできてしまうものだ。つまり万年無気力な俺はどれだけ体力が付こうとも、それを100%発揮することはできないのである。

 ……などと、頭の中でどうでもいいような面倒くさい理屈をこねながらダラダラと階段を上っていると、騒がしい音をたてながら粕谷が戻ってきた。


「屋上ねーし!」

「なかったかー」


 外から見た感じでは屋根の上に何かしらの設備があるように見えたので、屋上そのものがないと言うわけではないはずだ。恐らくそこへ出るための扉なり階段なりが見つからなかったと言うことなのだろう。

 この異界で一緒に過ごすうちに、俺は粕谷語をかなり正確に理解できるようになっていた。

 いや、それどころか、状況によっては黙っていても粕谷が何を考えているのか、ある程度把握できてしまうことさえある。まったく慣れというのは恐ろしい。

 粕谷も同じように、俺の考えていることを察してくれていれば嬉しいのだけれど。


「んじゃ、適当に教室見て回ろうぜ」

「だなー」


 教室の扉を開けると、真っ先に特徴的なものが目に飛び込んできた。

 1メートル程度の高さの、円筒形のストーブだ。

 銀色の煙突がびよーんと伸びて、窓の外まで繋がっている。

 隣に置かれた四つ足のタンクとパイプで繋がっているところを見ると、恐らくこのタンクから送られる燃料の量を操作することで、火力を調整するのだろう。


「おおー、なにこれ」


 粕谷が興味津々といった様子で駆け寄る。


「ストーブだな。俺の田舎の中学でも似たようなの使ってたわ」


 俺の学校ではこんなタンクは付いていなかったけど、今思えばどうやって燃料を補充していたのか謎だ。


「えっ、エアコンとかねーの?」

「ねーんですよ」


 東京の、恐らくはクソ高い私立の学校に通っていたであろう粕谷にとっては、教室にストーブがあるというのは相当珍しいことだったらしい。早速ガチャガチャといじり始めた。


「友紀ー、これどうやってつけんの?」

「俺もやり方は知らんけど……」


 適当にそれっぽいスイッチなどを操作してみるが、うんともすんとも言わない。

 ふと思い立って隣のタンクにくっついているバルブのようなものを緩めてみると、トクトクという小さな音が聞こえてきた。


「多分これで……」


 改めてストーブの点火スイッチらしきものを操作する。少し待つと、覗き窓からオレンジ色の炎がちらりと見え始めた。


「おーついたー……けど、なんか思ってたより火力よえーなあ」

「最初はこんなもんなんだよ。そのうち熱くなる」


 この異界で見つかる道具は、見た目こそ元の世界のものに似ている場合が多いが、中身はまったくの別物だったりする。それをかんがみればこのストーブが見た目通りに動いたことは、ある意味ラッキーとも言えた。


「まあ、この教室だけ暖かくなった所でって感じだけど……」


 校舎の中は外の空気と同じくらい冷えきっていた。民家や店のように最初から暖房が入っていないのは、こうしてストーブが設置されているから……なのだろうか。


 ぼんやりと揺らめく炎を眺めていると、突然頭の中に閃きが生まれた。

 突拍子もない、現実世界ではまず実行に移すことはないであろう思い付き。

 しかしここは、常識や良識などとは無縁の異界なのだ。故に、この思い付きを妨げるものは何もなかった。


「粕谷、ちょっと手伝って」


        ◆


「あー疲れた。こんな働いたのバックレた居酒屋のバイト以来だわー」


 保健室に入るなり、粕谷は飛び込むようにしてベッドに身を投げ出した。

 この保健室を学校での活動拠点にしようと決めた時にあらかじめストーブをつけておいたので、一歩足を踏み入れると暖かい空気が出迎えてくれる。

 俺も粕谷につられたのか、ほどよい疲労感も相まって、まぶたが重くなってきた。

 今が昼なのか夜なのかは分からないが、眠くなった時に寝て腹が減ったらその都度食うというのが、この数ヶ月で確立した俺たちのライフスタイルだ。

 異界の常識と己の欲望に忠実に従うべく、俺は薄いカーテンを閉めて電気を消し、粕谷の隣のベッドに潜り込んだ。


 窓を閉めていても微かに聞こえてくる音楽が何十周した頃だろうか。俺はふと、何者かの――もちろん隣の粕谷以外の――息遣いのようなものを感じて目を覚ました。

 ゆっくりと周囲をうかがってから、なるべく音を立てないように起き上がる。

 ――いた。

 保健室の隅。ガーゼなどを入れてある棚の陰に、不本意ながらもすっかり見慣れてしまった青白い顔があった。

 普段であればすぐに消えてしまうのに、今日に限ってそいつはじっとこちらを見つめたまま動こうとしない。

 ぴたりと目が合う。……合っている、のだと思う。

 これほどじっくりと観察するのは初めてだったが、やはりどう見ても人間ではないようだ。この異界の住人なのだろうか。

 しかしその時俺の心の中にあったのは、恐怖や好奇心を軽く凌駕りょうがするほどに積み重なった苛立ちと不快感だけだった。

 その存在に初めて気付いた時からずっと、本当に何度も何度もこいつは俺の視界に入ってきた。ふと視線を感じてそっちを見ればスッと消える、見ないふりをすればずっと視界の端に居座る。その繰り返しだった。しかも消える時はその青白い顔の残像が目に焼き付くくらいの程よい速度でだ。これはもう完全に嫌がらせだろう。


 蓄積されてきた鬱憤が頂点に達した俺の行動は早かった。

 俺はベッドの脇にある小さな棚から瓶を取り出すと、その口から飛び出ている布に百円ライターで火をつけた。


「くたばれ!」


 近所の店から持ってきた空き瓶にストーブの燃料を入れて、引き裂いたシーツを突っ込んだお手製の火炎瓶は、狙い通りの場所に向かって放物線を描き……ドムンと鈍い音を立てて床に転がった。


「あれっ、割れねーし!」


 思いの外、瓶が頑丈だったのか。あるいは木の床や壁に当たった程度では割れないものなのか。そもそもちゃんとした(?)火炎瓶の作り方など知らない俺が、なんとなくの想像で作ったものだ。ひょっとしたら首尾よく割れたとしても、うまく燃えなかったかもしれない。

 まあいい、こうなったら仕方がない。

 俺はベッドの下に隠しておいたバケツを取り出すと、部屋の隅でチロチロ燃えている瓶に向けて、その中身を思い切りぶちまけた。

 ボン、という音とともに膨れ上がる緋色の塊が天井を舐めた。

 バケツに入っていたのは火炎瓶の中身と同じ液体だが、予想以上の燃え方だ。


「おいおい! 始めるなら起こせよー!」


 一度寝たらなかなか目覚めないことに定評がある粕谷も、火の前ではさすがに生存本能が働いたのか、勢いよく飛び起きた。


「お前起こそうとしても起きねーじゃん」

「焼け死んだらどうすんだよー……え、つーか何? もう終わったの?」

「分からんけど、多分逃げたと思う」

「てことは……」

「作戦続行だな」


 俺たちは保健室から出ると、それぞれ用意しておいた火炎瓶に火をつけて、左右の廊下に放り投げた。

 鈍い音とともに軽くバウンドしながら瓶が転がっていく。振り返れば粕谷の方も同じだった。


「なにこれ、割れねーじゃん!」

「割れねーんだよなあ」


 三つ投げて三つとも失敗ということは、作成段階で何か間違えているのだろう。

 だがその辺りも含めて全て計算済みだ。

 俺たちは予め廊下に用意しておいた椅子に上って、開きっぱなしになっている目の前の窓から外に飛び降りた。

 飛び降りたと言ってもここは一階だ。しっかり予行演習もしてあるので、運動オンチの俺でも柔らかい地面に難なく着地できた。

 ふう、と息をついてから校舎の方を振り返ると、夕日の赤とは違うオレンジ色の光が、廊下の窓越しに広がっていくのが見えた。


 保健室前を除く廊下、階段、各教室……校舎の隅々にまで撒いておいた燃料にうまく引火したのだろう。俺たちが校庭の指揮台に着く頃には、学校全体が火と黒煙に包まれて、断末魔のような唸り声を上げていた。

 ストーブのタンクから燃料を抜き取って床に撒いていく作業はなかなか骨が折れたが、半ば無理やり手伝わせる形になった粕谷は意外にも終始楽しそうにしていた。

 きっと作業中は俺も同じような顔をしていたに違いない。

 それにしても、あの謎の燃料が灯油のように強いにおいを放つものでなくて本当に良かった。もしも臭いがあったら、とてもあの作業に耐えられなかっただろうし、保健室で休憩して例のやつを誘い出すという作戦も無理だっただろう。

 まあ、結局あいつがちゃんと炎に巻き込まれたかどうかは確認できなかったので、作戦が成功したのか失敗だったのかは分からないのだけれど。


 俺は異界に来てからまったく吸っていなかった紙巻きを取り出して火をつけた。

 久しぶりに吸い込む煙は驚くほど味気のない、つまらないものに感じられた。

 6ヵ月の間にすっかり香りが飛んでしまったのか、それとも自分の感覚の方が変化してしまったのか。

 恐らく後者だろうなと思いつつ、指揮台に腰掛けて、燃え盛る校舎を見上げる。

 なんだか祭りを遠くから見ているみたいだと思ったが、それ以外に特別な感慨かんがいを覚えることはなかった。

 もちろん、罪悪感なども湧いてこない。

 ここは異界で、あの学校はただ原寸大の模型のようにそこにあるだけなのだから。

 ……仮にここが現実世界だったとしても、大して感想は変わらなかったのかもしれないけれど。


「なんかさー……悪くないよな、こういうの」

「うん」


 呆けたような顔で同じ景色を見つめる粕谷の言葉が、すとんと胸に落ちてくる。


「尾崎じゃねーけどさ、オレやっぱ学校ってあんま好きじゃなかったし。一度こういうのやってみたかったのかも」

「……お前、ずいぶん古い曲知ってるんだな。なんか意外。まあこっちは窓ガラスどころじゃねーけど」

「これが青春ってやつですかね?」

「おいやめろ。恥ずかしい」


 口ではそんなことを言いながら、もしかしたら、俺はあの日からずっとこうしたかったのかもしれないと思っていた。


「あれ、あの日から……? あの日っていつだっけ……」

「ん、なんだって?」

「いや、今なにか思い出したような……」


 そうだ。

 あの日、あの夜の公園で、俺は――


 その時、何の前触れもなく目の前に黒い球体が現れた。

 いや、光を一切反射しないそれは球体というよりも、奥行きのない穴と言った方がいいのかもしれない。


「わっ、なにこれ」

「これって……あれじゃね? 前の異界の時にもあったやつ」


 粕谷が妙に落ち着いた様子で言った。

 前の異界……蛇一さんと一緒に行った灰色の異界だ。あそこで見たこれと似たようなものと言えば……


「出口?」


 言われてみれば確かにそんな感じがする。

 しかし、だとすれば、なぜ急に出口が俺たちの目の前に現れたのだろう。

 学校を燃やしたことと何か関係があるのかもしれないが、それにしたって俺たちに都合が良すぎる。怪しさ満点だ。


「多分そうでしょ。んで、どうする?」

「どうって……」


 俺は言葉に詰まってしまった。

 これが本当に出口なら、飛び込めば元の世界に帰れるはずだ。

 しかし、突然目の前に現れたというのがいかにも罠くさい。

 それに俺は、この異界が案外嫌いではなかったりする。

 住めば都というのとは真逆のようだけど、通り過ぎてく家や店をどんどん使い捨てていくこの生活はとても気楽で――多分、粕谷も俺に「どうする?」なんて聞いてきたということは、俺と同じように、未練のような何か言葉にしがたいものを感じているのだろう。

 そんな風に俺が迷っていると、目の前の黒い穴から声が聞こえてきた。


「あ、いたいた。やっと見つけたよ」


 誰だ、と思う間もなく、穴からぬるりと小さな人間の形が生まれ落ちた。

 子供のような背丈に、キャラメル色の綺麗な長い髪。先端はゆるく巻かれている。

 俺たちはその人物を知っていた。


「え……カネザワさん?」

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