第9話 誰が私を見つめるのか?
「こんな時間、こんな場所に子供が一人……か」
突然、女の人の声が聞こえた。
驚いて辺りを見回す。
虫の声もしない夜の公園には、遊具の上で泣いている自分以外誰もいない。
「へえ、やっぱり聞こえるんだね」
声のする方を見ると、白い光を投げかける街灯に向かって、のっぺりとした影だけが伸びていた。
その影には、夜空にチラチラと浮かんでは消えていく有象無象の光の帯とは一線を画する、確かな存在感があった。
「誰……?」
恐る恐る声をかける。すると、影が滑るように動いた。
数メートルの距離を一瞬で移動してきたそれに対して思わず身構える。
「私は、魔女……みたいなものかな。君の強い輝きに惹かれて見物に来たの」
「……」
「ねえ、君はどうして泣いていたの?」
思いがけず優しい声だった。
姿は見えないけど、彼女は微笑んでいるような気がした。
子供は泣くのをやめて、影だけの得体の知れない魔女に、自分のことをぽつぽつと話し始めた。
一週間ほど前から、なんだかよくわからないものが突然見え始めたこと。
誰に話しても信じてもらえず、自分以外にそれが見える人は誰もいなかったこと。
最近は不快な音まで聞こえ始めて、満足に眠ることもできなくなったこと。
このままでは気が狂ってしまう。誰か助けてほしい。でも誰もまともに話を聞いてくれない。もう死ぬしかないのか……そんなことを、影に向かって独白した。
「君、小学生だよね? 何年生?」
「五年だけど……」
「そっか。第二次性徴のタイミングで覚醒したんだね。ただでさえ自分の体に起きる変化に戸惑う時期なのに、変なものまで見え始めて、つらかったね」
「……うん」
自分のつらい気持ちをわかってくれる人がいたということが嬉しくて――それは人ではなかったのかもしれないけど――引っ込んでいた涙が再び決壊したようにあふれ出して止まらなかった。
「かわいそうに。
「……魔法?」
「君の力を封印する魔法。君はこれまでに見た不思議なものや、それらと関わり合った全ての記憶を失う。もちろん、私のこともね。もしかしたら欠けた記憶の整合性を保つために、ちょっとくらい
それはまるで悪魔の囁きだった。
そんな都合のいい話があるのだろうか。得体の知れない怪物に騙されて、魂を飲み込まれるのではないだろうか。あるいはこの会話自体、精神を追い詰められた自分が都合の良い妄想をしているだけなのではないだろうか。
そんな考えが一瞬だけ頭の中をよぎったけれど、すぐにそれは無駄なことだと思い至った。
悪魔に騙されるならそれでいい。妄想だったとしても構わない。
差し伸べられたその手を取ろうが取るまいが、どの道そう長くは正気を保っていられないのだから。
自分には最初から、その誘いに乗る以外の選択肢などなかったのだ。
◆
ぼんやりと意識が覚醒する。
見慣れない部屋。二段ベッドの上から粕谷の静かな寝息が聞こえてくる。
何か……夢の中で大事なことを思い出していたような気がした。
でもそれは混沌とした思考とともに急速に薄れていって、一分後には
この異界に来てから、あっという間に3日くらいが過ぎていった。
くらい、というのは、スマホの電池がなくなって時間が分からなくなったからだ。
太陽は上りも沈みもせず、ずっと変わらないまま同じ場所にいる。おかげで俺たちの時間感覚は完全に狂ってしまった。
俺たちは今が昼か夜かなどと考えるのは早々に諦めて、腹が減ったら適当な店に入って食えるものを食い、疲れたら脇道に入って民家のベッドやら風呂やらを勝手に使うという、当初考えていたよりもずっと緊張感のない生活を送ることになった。
ここは、以前兄貴と一緒に飛ばされたあの灰色の異界とは一線を画している。
明らかに日本の街並みを模倣して作られているにもかかわらず、そこに住んでいるはずの生物の気配が一切ない。
だが、それも慣れてしまえばどうということはなかった。
本がただの板だったり、食べ物の味が一切見た目にそぐわなかったりと色々めちゃくちゃなこの異界において、例外的に正しいことがあった。その一つは温度だ。
この異界の気温は、俺たちの世界の冬と同じくらい寒かった。
そして店や民家の中は高い確率で暖房が効いていた。
ポットからは(それがちゃんとポットの機能を有していれば)適正な温度のお湯が出るし、蛇口をひねれば冷たい水が出た。
触れるだけで燃えたり凍ったりするような非常識な温度というものが存在しない。
よくよく考えれば気圧や重力や酸素にしてもそうだ。
この異界は、ある程度の所までは『きちんとしている』のだ。
それがどういう意味を持つのかは分からないが、俺はなんとなくシムシティというゲームを思い出していた。
さらっと流したが、蛇口をひねるだけで真水が簡単に手に入るのは大きかった。
この発見のおかげで、生き残りをかけたサバイバルかと思っていた生活が、観光レベルにまで引き下がった。
水があり、食べ物があり、温かい家がある。
民家やデパート的な建物を探索すれば、衣類も調達できた。まともな機能を備えたもの――変なところに穴が開いていないやつ――を探すのは少し手間だったが。
人間、衣食住が揃えば心に余裕が生まれる。
こんなヘンテコな世界でも、まあ急がずゆっくり出口を探しましょうよという気持ちになってくる。
結果、起きてから寝るまでに100メートルも進まなかったり、居心地の良い民家でずっとダラダラしていたりすることも多くなっていった。
少し歩いては気になった店に入り、不可思議な商品をあれこれ漁って遊ぶという生活を繰り返していると、凄まじい速度で時間がぶっ飛んでいき、気が付けばそこからさらに6ヶ月ほどが経過していた。
まともな時計がないこの世界で、どうして6ヶ月という時間の経過が分かったのかというと、これは健康優良児であるところの粕谷のおかげなのだが……まあそれに関しては詳しく説明するのはやめておこう。
スマホの充電ができないこととゲームができないことを除けば、この異界は俺にとっては案外悪くない場所のように思えた。
そして真っ先に飽きてブーブー文句を言い出すかと思っていた粕谷は、意外なことに、いつまで経ってもテンションが高いままだった。
「なんかお前、こっちに来てからやけに生き生きしてるな」
ある時、俺はなんとなく粕谷に言ってみた。
「え? だって楽しいじゃん」
粕谷は、当然だろ? と言わんばかりだった。
「元の世界に戻りたくねーの?」
「……まあ、パパとかママのこと考えると戻った方がいいとは思うけどさー……」
「そりゃあな」
「でもさ、オレ、やっぱ
「ピントが合う?」
「それそれ」
「でもそれは星野さんからもらった魔道具で解決したんじゃなかった?」
「まあそうなんだけどさ。でも、やっぱ違うんだよ。なんつーか、メガネみたいな。いくら視力を矯正しても、裸眼じゃない。……遠いんだよ。あの世界は」
この異界には、俺と粕谷しかいない。
二人きりで何ヶ月も一緒に過ごしているうちに、元の世界ではこっ恥ずかしくてとても真顔じゃ話せなかったような青臭い話まで、自然にできるようになっていた。
断片的に
何一つ不自由のない暮らし。子供に甘い父親と、厳しくも優しい母親。恵まれたルックスのおかげか、黙っていてもクラスメイトたちが話しかけてきてくれる。運動も勉強も(!)、やろうと思えばそれなりにできたらしい。
不公平だぞと文句の一つも言ってやりたくなるような人生ガチャ大当たりの生い立ちだったが、それでも粕谷の心の中はいつも乾いていた。
何をしていても現実感がない。
ひたすらに刺激を求めて不良の先輩たちと付き合い、非合法スレスレの薬物にすら手を出したこともあったらしいが、それは薬が効きにくいという生まれ持っての体質のせいか、粕谷の精神には何の効果ももたらさなかった。
唯一、他人との肉体的な交わりだけが、粕谷の乾きを一時的に紛らわせてくれた。
恋をしたことがなかった、と粕谷は言った。
好きというのがどういうことか分からなかった。同時に、
いつも斜め上から自分を見下ろしているような虚無感を殺しきれないまま。
「あの日さー、フラ語の狭い教室のドア開けて、友紀の顔を初めて見た時はビビったよ。墨汁みてーに真っ黒い髪に、死体かよってくらい白い肌でさ。唇だけ血で濡れたみたいに赤いの。すげー鮮烈だった」
「……粕谷のほうがよっぽど目立ってただろ。サラサラの金髪で、いい服着て、モデルみたいな顔しやがって。なのに口を開いたらそんなんで」
「そんなんってなんだよ。友紀だって似たようなもんだったじゃん」
「まあ、そこはちょっと似てるなとは思ったけど」
「だろ? オレも!」
俺は、他人を信用できず孤立している自分を鼓舞する精一杯の虚勢のために。
粕谷は、この世界に対する諦めと無関心のために。
口が悪い。ただそれだけが二人の共通点だった。
たったそれだけの共通点で、粕谷が俺のような陰キャをどうして気に入ったのか、当時は不思議に思っていたけれど……今ならなんとなく分かる。
生まれつき世界から隔絶されていた粕谷は、今にも別の世界に引きずり込まれそうになっていた俺のことを……多分、
でも俺だって、何でも持っているくせにその全てを雑に扱うお前のことが、いつも羨ましかったよ。
「……そういやお前、地毛も全然黒くないんだな」
「うわー見るなよ。恥ずかしいだろー」
6ヶ月も経てば、髪だって当然伸びる。
粕谷の見事な金髪は、その根本にはっきりと地毛の色を見せ始めていた。
「おばあちゃんがハーフだかで、ママがかなり金髪なんだよ。だからオレも地毛が茶色くてさー、中学ん時いちいちうるさく言われたから、もう面倒になって完全に金髪にしてやったんだ」
「いや、それ余計にうるさく言われねーか……?」
「そこはママの写真見せれば一発よ。ハーフなんですーつって」
「……それならわざわざ金髪にしなくても、最初から写真見せれば……」
「えー、どうせなら金髪の方がおトクじゃん?」
「なに言ってんだこいつ」
くだらない話は尽きなかった。
長い間二人きりで同じ顔を突き合わせていたら、そのうち喧嘩の一つでもするのではないかと思っていたけれど、俺たちに関してはそんな気配すらなかった。
不思議なことだが、なかなか美味いメシにありつけないことを除けば、この異界での生活は粕谷の言う通り、”楽しい”と言っても差し支えないものだった。
だが、変化は唐突に訪れる。
ある時俺は視線を感じた。
粕谷以外の、何者かからの視線だ。
それは電柱の影からだったり、民家で眠る時の天井の角からだったりした。
最初は視線を追っても何も見つからなかった。
しかし、段々とその視線を感じる頻度が上がっていくにつれて、一瞬だけその正体が目の端に入るようになった。
それは恐らく人の顔だった。
青白いような肌。頭髪はなく、昆虫のような真っ黒な目玉がぎょろりと大きく見開かれている。穴のようにぽっかりと口が開いているが、歯も舌も見えない。
その一見間抜けな顔が、ふとした瞬間にこちらを見ているのだ。
正直、かなり怖い。完全にホラーだ。
しっかりと視界に収めた途端に煙のように消えてしまうその顔は、俺たち以外に誰もいないかに思えたこの異界に、第三者が確かに存在していることを証明していた。
粕谷にもそのことを話したが、何も見えないし視線も感じないと言っていた。
まあ、粕谷は異象を拒絶する性質を持っている。見えないのは仕方がない。
じっとこちらを見つめる以外に特に何をしてくるわけでもなく、そうなると対処のしようもないので、俺は仕方なくそいつをスルーするしかなかった。
最初はビクビク怯えていた俺だったが、それが何日、何週間も続くと、だんだんとムカつく気持ちが湧き上がってきた。
なんなんだあいつは。一体何がしたいんだ。つーか誰だよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ。アホみたいな顔しやがって。何見てんだコラ。
完全に不良のイチャモンつけのノリだが、ムカつくものは仕方がない。
未知の恐怖に対して怒りの割合が完全に上回った時、俺は心を決めた。
『なんだかわからんがイラつく顔だし、ぶっ飛ばしてやろう』と。
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