恋を知る

七山月子


私は恋をしている。

そんなの、ただ盲目的になっているだけ、って三鷹くんは言う。


だけど島田さんの、全部が好きだ。

全部、なんて偉そうかな。


蛇口をひねったら、水が出る。水が吹き出して、シンクに逃げていくのを見ていた。

島田さんは、

「水が、綺麗だね」

と言った。私も、

「ええ、そうね」

と応えた。

酔いつぶれたその夜は、島田さんと呑み屋で最後まで居た。

彼の手が梅酒にばかりのびるので、私も梅酒ばかり呑んだ。


味なんてすでにわからなくなった頃、私は全てを投げ捨ててでもこの人と生きようと思っていた。


酒に背を押されたのだ。

「すき」

そう言うと島田さんは、驚いたような顔で、私の頭を撫でた。

優しい手つきだった。

「僕も洋子のことを大事にしたいよ」


キスは梅の匂いとアルコールの強さがした。


そうして島田さんと恋仲になったものの、連絡が来ないまま半月が経とうとしている。

あの夜交わした睦言は夢だったのだろうか。


三鷹くんが、私の膝で寝ている。

それというのも、三鷹くんの家の縁側は日向がちょうどよく、眠くて仕方がない、と言ったのち私によりかかり眠ってしまったのだ。


三鷹くんのまつげが微かに揺れて、綺麗。

庭先の冬桜が、咲いている。三鷹くんの家は、あたたかい。

日差しがそのまま降ってくる。

眩しい。


島田さんは、つめたい。

つめたいから、半月も連絡をよこさない。

でも私はそんなこと知らないふりで、今度会ったら笑ってみせるつもりでいるから、ずるい。


私はずるい、島田さんは、つめたい。三鷹くんは、暖かい。


「ねえ、起きてよ」

膝の重さにしびれてたまらないので、三鷹くんをゆすってみるが、彼の手が私の髪にのびて引っ張った。

「狸寝入りなら、起き上がって」

「だって、きもちいい」

「私は重い」

「だって、洋子、また恋してる」

「そうよ、恋をしてる」


何度目? と唇が動く。三鷹くんの目には呆れが混じってる。


私が何度も、熱して飽きて捨ててきたことを三鷹くんだけは知っているからだろう。


三鷹くんは賢い。私に捨てられることを知っていて、距離を保ちながら、きっと私に恋をしている。そんなことひとつだって言いやしないけど。


重たい三鷹くんの頭が起き上がって、寝癖が立っている。

私はそんな彼の横顔が、やはり綺麗だ、と思う。


去年の冬桜は今年より立派だったように思い出せる。

三鷹くんの家に住まうようになってから、一年が経った。

古民家が素敵だから、箪笥も文机も、全て三鷹くんの祖父母が使っていたそのままにしてある。

私と三鷹くんは、花屋で出会った。


花屋の店先で三鷹くんが、

「クリスマスですね。プレゼントにいかが」

と言ったので、

「じゃあ、もらおうかしら」

と答えた。

それでポインセチアをぶら下げて、鬱蒼とした木々が植わる、4畳半のボロアパートに帰ったのだ。

そのボロアパートの隣に、三鷹くんの家があった。


島田さんは今晩会う約束を、忘れてしまったらしい。

冬桜が散る夜に、縁側で電話を何遍かけたろう。

どうして、電話に出てくれないのだろう、と考えている端で、私は密かに甘やかにときめいている。

突き放されたら苦しい。でもそれがいい。

散った花びらが旋回して土に落ちていく。

ひら、ひら、ひらり。


ホットケーキを作るのは難しい。

笑いながら三鷹くんが、フライパンを返す。

黒焦げになったホットケーキを、私たちは食べる。

「ホイップと、アイスクリームを添えたら焦げなんて見えないよ」

慰めたのに三鷹くんは、

「でも焦げていることは事実だ」

と頑な。


むくれた三鷹くんを放っておいて食べる焦げたホットケーキは、それなりの味で、愛おしくなった。愛おしくなったから、三鷹くんの膝に手を置いたら、三鷹くんは身を固くして、かわいい。


ねえ、と隣に向いたら、三鷹くんは瞳で怯えてる。三鷹くんは私に怯えている。

手を、退けた。


昼下がり、桜も咲いて空には雲が見当たらない。庭先で私はまた、島田さんを想う。

島田さんにかけた電話の数だけ、募る気持ちよさ。島田さんの声が聞こえなくなった日にち分、募る毒々しい恋心。


竹箒で散りゆく花びらをかき集めて、枯葉混じりになったそれを焚き木で燃やすと、煙が重たくなって立ち上り、空を揺れる。


明日こそは、島田さんと会えますように。

呟いたら、花びらが唇に落ちてリップに張り付いた。おかしくて、三鷹くんを振り返ると、彼は心理学の本を縁側に積んで読んでいる最中。

おもしろくない。

竹箒で、三鷹くんの靴を掃く。

「なに、するの、洋子」

「なに、って、燃やす」

「どうして」

「どうしても」

ゴムの焼ける匂いが、ついに冬を終わらせようとしていることを知らせているようで、私は背中を隠すようストールを巻き直した。


冬が終わって、桜が枯れて、春が来て、乱れる花々が咲き誇っても、島田さんから電話がくることもなく、島田さんの声が聞けることも、その腕で抱きしめてくれる未来を描くことすら、なくなってしまった。


私は三鷹くんの作るサンドイッチを頬張り、

「ねえ」

と隣を向いたが、風に含まれた春の匂いに見とれている三鷹くんは、もう私に怯えないのであった。


この度の春、どうやら私の恋心が消えていくと同時に三鷹くんはようやく恋をしたらしい。


彼女の声は数度聞いた。電話越しに緩やかな女の声が耳障りだった。


彼女の名前も聞いたことがある。

夜、隣り合わせ背中越しで眠る私と三鷹くんの間に、衝立を立てたのだ、それまでは同じ布団の上で掛け布団をふたつ使って眠っていた。時折、身体を触り合うこともあった私たちは絶対にそれ以上の線を超えないよう気を配りながら暮らしていた。


だけど突然、衝立を立てた。


「ねえ、どうしてこんなの立てるの」

わたしが訊くと、

「だって、洋子、寝相が悪いから」

曖昧な返事しかくれない。


その衝立の隙間から、聞こえてきた。寝言だ。苦しそうな、甘やかな声だった。三鷹くんが私を呼ぶ声と様が違うことに、胸が張り裂けそうだった。


彼女の名前は、スミレというらしい。


三鷹くんは私がスミレの電話を応対すると怒る。

私が文机に置いてある彼の本をめくると不機嫌になる。


それで堪らなくなる。


私のものであった三鷹くんはもう居なくて、私がこの家に住まう理由がなくなってしまったことにも不安が募った。


家を探しに出かけた。


街並みは敢えて春を表に出して、賑わしい。


「どこでもいいですから、この街より遠く」

家はすぐに見つかってしまった。


三鷹くんに云おうと玄関を開けると、靴が二足ある。

いつしか燃やしてしまった靴と似たものと、女の細い靴だ。


私は要らなくなったのだ。


戸を閉め、ストールをかきよせた。


春は夏に変わりゆく。夏は秋に変わりゆく。秋は冬になり、あの桜を見るのは私ではなくスミレという名の女だろう。


荷物は少なかった。新しいアパート。

知らない土地。

届くはずもない手紙を待てるように、私は最後に三鷹くんのよく読む心理学の本に住所を挟んでおいた。


好きよ、と書いて消した。

住所だけのメモ帳は、いつまで読まれずにあるだろう。それとも、読まれたのち捨てられてしまうだろうか。


島田さんから、電話がようやく来たのはそれから何度目かの冬だった。

また呑まないか、と誘う島田さんの声に、ときめくこともなく、丁寧に断った。


三鷹くんの縁側に行きたい。

眩くて、暖かいあの場所に帰りたい。

抱きしめた枕が冷たくて、胸が狂いそうだ。



ようやく、私も恋を知ったのだろうか。涙が、温かい。

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