第19話 皇帝は育ての母を迎えに来た

 一方、その頃皇帝はかつて暮らしていた村に居た。


「……カ――― こ、皇帝陛下」


 馬から下りた彼を見て、太公主とそう変わらないくらいの女が咄嗟に手に持っていた壺を下ろし、その場に膝をついた。


「その声は、昔の俺の幼馴染み殿と思って良いか?」

「……恐れ多いことでございます」


 顔を伏せてしまった女は、ひたすらに恐縮する。だがそんな茶番をしている場合ではない。さっと彼女と同じ目線にまで膝を落とすと、皇帝カヤは彼女の両肩を掴んだ。


「ダリヤ様に聞いたのだ。母さんは?」

「……ちょっと、何だね――― やけに馬の蹄の音がうるさいと思ったら」


 太った腰の曲がった老婆が四角い家から出てくる。と同時に、さっ、とあちこちの町角から人が出てくる気配がある。


「小母さん! 寝てなくては駄目って」

「いちいちうるさいよ、メンリ。で? さっきからどっかで聞いた声がしている様な気がするんだが? あたしの耳も等々幻聴まで聞かせるようになったかね? 何があった? また戦かえ?」

「母さん」


 その声に、老婆の眉間に深く皺が寄る。声の方を向きはする。だが彼の方ではなかった。

 目が。

 カヤは気付く。


「母さん、目が」


 立ち上がり、彼は育ての母の手にそっと触れる。


「……何でお前がここに居るんだい」

「小母さん」

「お前にはお前の役目があるんだろう?」

「役目は半分終わった! ダリヤ様が母さんの調子がよくないって言ったから!」

「ああ、ああ落ち着きのない! いつまでもお前は子供の様だ!」


 見えないのが幸いだ、とメンリと呼ばれた女は思う。

 何故なら、この目の前に居る彼は、―――かつての幼馴染みは、自分の息子よりずっと若くにしか見えない。孫だと言ってもいいくらいなのだ。

 ああこれが、彼がずっと昔この村を出ていって、しばらくして近くにものものしい男達がこの小母さんを、住む村を護る様になった原因なのだ。


「別に何処も悪くないよ。ただちょっと目が見えなくなっただけで」

「そんなことないです! 聞いてください小母さんはもうここ半年ほど、胸の具合が良くないんです!」

「メンリ!」


 よく通る声が彼女を一喝する。だがその声のいきなりの大きさに、すぐに咳き込んでしまう。肩で息をするその姿に、彼は背中をさする。


「お願いです、小母さんをもっと住みよい場所で休ませてやってください。お願いします」

「俺もそうしたい、と。母さんにもしものことがあったら俺は」

「お前はたかが二十年育てただけの血もつながらない女のためにわざわざ来たって訳かい? それはそれは、おめでたいことだ。お前が都を離れて大丈夫だというのかい?」

「ああ、大丈夫だ」

「……」

「聞いてくれ母さん。ようやく跡継ぎが生まれたんだ。……ここでも聞いたろう? 男の子が生まれたと。やっと、俺は俺の義務を果たすことができたんだ。だから、母さんも頼むよ、せめて俺の目の届くところに居てくれよ」

「嫌だね」


 ふい、とかつての舞姫は優雅に首を振る。


「そう言ってお前はわざわざ都にまであたしを連れていくつもりだろう。嫌なこった。疲れるんだよ。もう」

「医者に診てもらって欲しいんだ。お願いだ。母さんとサシャだけは!」

「サシャ」


 声の方を彼女は向く。


「そう、あの公主さんをようやく取り戻した。そう言いたいのかい? 全くだからお前という息子を間違って育ててしまったと思うよ。あの方はお前の我が儘にずっと付き合ってくれた。ああ何ってありがたいことだ。だがあたしはそうはいかないよ。あたしはあたしで、好きな所に居たいんだ」

「でも最近本当に、季節風が辛いってこぼしていたじゃない!」

「お黙りメンリ!」

「それにいい加減、私達も、小母さんの世話に明け暮れるのは疲れたのよ!」

「まあ! 何ってこと言うんだい!」

「メンリ」


 幼馴染みの表情は、声とは裏腹にひどく泣きそうなものになっていた。


「うちの人も、いくら昔から世話になっていたからと言って、幼馴染みの小母さんの世話を、金をもらったからってする必要があるんだ、ってうるさいんだから!」

「あんたそういうこと今まで思っていたのかい!?」

「そうよ! うちにだって、旦那のお母さんもそろそろ足が弱くなってきたのよ! いい加減私を自由にして、引き取ってくれるひとが居るなら、そっちに行けばいいのよ!」


 それでも、最後の声が揺れている。それに気付かないはずはない。


「頼むよ母さん。疲れるというなら、静かに静かに運ばせる。少なくとも、こんな馬でがちゃがちゃ運ぶようなことはしない。お姫様のようにゆっくり運ばせるから」

「私の知ってる姫様は、馬に乗って剣が強かったさ――― そうか。それじゃ、さっさと連れていくがいいさ。お前の勝手にするんだから、それ相応の自信があるんだろうし!」


 そして彼女はふっ、と手を伸ばす。探す様にその手を動かし、やがてそれはメンリの元にたどり着く。

 その手をぐっと握って四代皇帝の育ての親、カイは言った。


「ヤッセには息子が来て引き取ってった、ということだけ伝えておくれ。今朝世間話してたのがいきなり居なくなったら心配するだろうさ」

「は、はい……」


 近所に住む自分の実の母の名を出されると、メンリはただもうそう答えるしかない。無論今の罵倒が芝居だということくらい、人に揉まれて生きてきたこのひとには判っているのだ、と。


「やっと孫の顔を見せるという馬鹿が来たから行かなくてはならないとな。戻らないだろうが、心配は無いと言っておくれ。楽しかったよ」



 それからの周囲の行動は早かった。一体どれだけの人数がこの村に潜んでいたのだろう。

 決して大きくはないこの宿場町の、三分の一の家から男女合わせて飛び出してくる。そしてかねてから用意してあったのか、大きく揺れの少なそうな馬車を組み立てて行く。

 メンリにとってはあっという間のことだった。

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