第18話 乳母はやはり必要なのだ。
翌日早速女官長に乳母を寄越して欲しい、ということをサボンが告げると、レレンネイはほっとした顔になった。
「やはりその方が良いのですか?」
問いかける。
「まあそうですよ。確かに皇后陛下にはお考えがあるのでしょうが、もうずっと前から選りすぐった乳母ですからね。乳離れするまで待て、なんていうのは彼女の自尊心も傷つけますよ」
「あ」
そういう問題もあるのだな、とサボンは思った。
「全くの身分の無い者を雇う訳にはいけません。ある程度の身分の中で、人柄の良い者、口の固い者、何より健康な者、そしてちょうど皇后陛下とそう変わらない時期に出産を控えていた者…… と選んでいくと、案外限られてしまうのですよ」
「そうなのですか……」
ややしょんぼりとしたサボンの姿に思うところあってか、レレンネイはぽん、と彼女の肩に手を置き、いつもより優しげに笑った。
「貴女は乳母子のはずだけど、確か少し事情が違ったのだったわね。だったらよく判らないのも仕方がないわ」
「ありがとうございます」
そう、サボンという子供が乳母子として居た時の状況というものは一応話してあるのだ。拾い子を一緒に育てた、ということで。だから事情を多少知らなくとも仕方がない、と言える様に。
「ではできるだけ早く、乳母と対面させましょう。今は自分の子の方に戻っているけど、副帝都から呼び戻さなくては」
「女官長様」
「はい?」
「今は乳母子にお乳をやっている状態なのですよね。ではその子は?」
「ああ、それは大丈夫。またその子にも乳母がつくから。……言ったでしょう、それなりの身分だって」
成る程、とサボンはうなづいた。その一方で何だか面倒だな、と思った自分も居たのだが。
しかし考えてみれば、その乳母子は自分と同じ様なものなのだ。母親と赤子の頃に引き離され、乳母の乳で最初から育てられなくてはならないということは。
*
その翌々日、乳母がアリカの元にやってきた。
「メラ・フリエガナ・トバーシュと申します、皇后陛下」
「宜しく。私は貴女をどう呼んだらいいのです? メラ・フリエガナ」
「呼びやすいほうで。夫や親しい友はエガナと呼びます」
「では私もそれで。宜しくこの子をお願いしますエガナ。私はこの子に乳をやることはできるのですが、上手く扱うことができませんし、しなくてはならないことが沢山できてしまうと思います。ですのでそのお手伝いをして欲しいのです」
「無論です。ずっとお待ちしておりました。皇后陛下は皇太子様がどんな御子にお育ちするといいと思われますか?」
「この子は普通の子よりはおそらくは頑丈に生まれつきました。だから、きちんと生きていてくれさえすれば」
「それだけですか?」
「あ…… と、普通に人らしい感情を持ってくれれば」
よく判らない、という様にエガナは首を傾げた。
「……そう、優しい子であれば」
「判りました」
本当に? そんな思いはアリカにはある。だがそもそも自分自身「優しい」が何処までなのか「強い」はどうなのか、上手く判らないのだから、そこは普通の人間の感覚に任せたいと思う。
「まだ私も若いので、その辺りはよく判ったひとの知識を借りたいと思います」
「そうでしたら!」
エガナは大きく胸を張った。実にたわわな胸がぽん、と張りだしている。見かけ通りなら、きっと良い乳が出るのだろう。
「ではお願いします」
エガナはそこでようやく自分が育てる赤子と対面した。
「これはまあ、実にしっかりした手足の御子ですこと」
そっと抱き上げ、慣れた手つきで支える。
と、それまで眠っていた子供が目を覚ました。ほにゃほにゃ、と軽く泣き出すが、ゆらゆらと軽く揺らすとそれはすぐに止んだ。
「凄いですね」
「いえ、幾人か子供を育てたことがあるだけで」
「何人を?」
「最近生まれたので、七人目です」
「それは…… 凄いですね」
「丈夫だということで夫には望まれたのですから、できるだけ家のためにと。皆元気で育っております」
「頼もしいです」
そのまま子供は時々あやされ、寝かされ、乳をやられることとなった。
アリカはサボンに今までの作業の書類を持ってこさせると、これから考えていきたいものの検討をしだした。
*
「……さま! 陛下!」
はっ、と気付くと女官長が呼んでいた。
「え? はい?」
「何度もお呼び致しました。夕食ですが……」
「あ、はい、ワゴンで」
「……サボンをつければいいですね。あと沢山お茶が淹れられる様にお支度を致します」
気付いたら夢中になっていた。手元にあったのは、それまでなかなかまとまった時間が取れなかったのでよく内容を読み込めなかった技術方からの書類だった。
「測量」について現在どのくらいの技術があるのか、アリカはそれを知りたかった。集中して考え、現存している地図と突き合わせ、それがいつのものであるか、その頃はどの程度の精度だったのか、そういったことをまとめさせておいたのだ。
すっかり子供のことなど頭から抜け落ちていた。
やっぱり、と思ったが、確かにそうだった。
乳母は必要だ、どうしても。確かに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます