彼女の世界
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小鳥遊月花。
2年生になってから、片手で足りる程しか学校に来ていないクラスメイト。それでも、僕は彼女のことを鮮明に覚えていた。
好き勝手に伸ばした黒髪。人形のように白い肌。細い手足。そして彼女の、普通の人じゃあ到底持てない、特殊なオーラ。
初めてクラスで見た時、思わず見惚れてしまったのを今でも忘れられない。
そんな僕は今、彼女の家を訪れていた。
担任からプリントを届けてくれ、と頼まれたからだ。担任は何だか忙しいらしく、丁度職員室を訪れた僕に、押し付けたというわけだ。
「たまにはクラスメイトが行った方がいいだろう」、なんて言っていたが、それなら僕じゃなくてもいい。というか、僕なんかに頼むより女子生徒だとか、クラスの人気者の男子生徒とかに頼むべきだ。
でも担任は本当に忙しそうで、なおかつ修学旅行関係の重要なプリントらしく、断る事なんて出来なかった。
「わざわざありがとう」
玄関で出迎えてくれたのは、柔らかい笑みを浮かべる四十代後半くらいの彼女のお母さんだ。彼女とはあまり似ていなかったが、なんとなく目元が似ている気がした。
茶封筒に入ったプリントを確かに渡した僕は、そこで立ち去るつもりだった。
だが、彼女のお母さんが、
「よかったら、月花に会って行かない?」
と、そんな言葉を漏らしたのだった。数ヶ月前に見たきりの、もはや幻想に近い小鳥遊月花の姿が脳裏に浮かび、僕は思わず言ってしまった。
「いいんですか」
と。
彼女のお母さんは、勿論、と微笑んだ。
彼女のお母さんに案内され、僕は彼女の部屋の前に立っていた。ドアの前に立つと、今まで感じていなかった緊張が、一気に襲いかかってきた。
心臓の音と体の震え。なんで今更、と自分でも呆れてしまった。
「月花、お客さんよ」
そう言いながら、彼女のお母さんはドアを開ける。暗闇に光が差し込む。
––––––––そこに広がっていたのは、小さな世界だった。
外から差し込む日差しとパソコンの画面の光。あとは暗くて視界がはっきりしない。
床に散らばる紙やペンやゴミや本。
空気の入れ替えもしていないのか、埃っぽくて色々な匂いが混じっている。
床の空いたスペースに小さく縮こまり、小鳥遊月花はキーボードを叩いていた。
それが、一つの世界のようだと僕は錯覚してしまった。
彼女の領域に入るのが怖くて、中々足が前に進まない。その場でひたすらに文字を打ち込む彼女を、見ているだけだった。手の震えは止まっていた。
「……そんな所に立ってないで、入ったら?」
彼女は潤いを忘れたかさかさした唇を動かし、そして僕の方を見てくる。鼻の下まで伸びている前髪の隙間から、見える瞳。その力強い瞳は確かに僕を映していた。
彼女は人ではない存在に見えた。神さまみたいな、そんな特別な存在に。
僕は何も言えなかったが、どうにかして足を彼女の世界へ踏み入れた。その様子を満足そうに見届けた小鳥遊さんのお母さんは、ドアを静かにしめた。
「……君は誰?」
「五十嵐、悠真。一応、小鳥遊さんと同じクラスなんだよ」
ふうん、と適当に相槌を打ちながら、彼女は僕の方を見ないで、パソコンとにらめっこをしていた。キーボードを叩く指は止まらない。
「何しに来たの?」
「修学旅行のプリントを届けに」
「修学旅行ってどこに行くんだっけ?」
「うちの学校は毎年、関西だよ」
「いつ頃?」
「10月下旬くらい」
そこで、彼女はキーボードを叩く手を止めて僕の方を見る。
「驚いた」
それは本当に心の底から出た呟きだった。
「君、驚くほどつまらないね」
そして、けらけらと笑った。
つまらない……?
彼女の口から出た言葉にも戸惑ったが、1番戸惑ったのは『つまらない』と言いながら、彼女がけらけらと笑うことだ。
「一つや二つ、冗談や身の上話を入れてよ。それじゃあ、ただの業務連絡と何も変わらないじゃん」
聞かれたことに答えただけなのに、何故そこまで言われないといけないんだろうか。確かに面白味のない回答をしたけど、彼女の求める答えを端的に教えてあげたじゃないか。
「君、いつまでそこに立っているの。こっちに来れば」
「でも……」
文字通り足の踏み場もないこの部屋をどうやって歩いて彼女の元に行き、どこに座ればいいんだろう。
「ここに散らかってるものは、全部ゴミだし、踏んでも何の問題もないから。それより早く来て。この距離じゃ、話しづらい」
そう促されたので、出来るだけ物を踏まないように彼女に近づいた。部屋の奥に行くにつれて、冒険しているような不思議な気分になってくる。目も次第に暗闇に慣れてきて、さっきよりはっきりと彼女の顔が見えた。
彼女は近くにあった紙束や本を足で勢いよく押し、スペースを作った。からんと音を立て、ペットボトルや空き缶などが転がる。
その音に彼女はほんの少し嫌そうな顔をしたが、すぐに僕のほうを見て、「座って」と見えた床を手でパシパシと叩いた。彼女と近すぎる位置で躊躇ったが、早く座れという彼女の威圧には勝てず、慎重に腰を下ろした。
それを満足そうに見届けた彼女は、またキーボードを無心に叩き始めた。
「……何してるの」
パソコンと向き合う彼女に見惚れながら、僕は聞いた。
「何してると思う?」
「え」
「何してるか、当ててみせてよ」
楽しそうに彼女は言った。遊園地に初めて来た子供のような横顔だった。
「文字を打っているように見えるけど」
「それで?」
「レポートでも書いてるの?」
パソコンの画面に浮かぶ、文字の数々。その文字の量は異常で、呑まれそうになった。
漢字、平仮名、片仮名、句点、読点、鉤括弧、記号、空白。
文字の世界がそこには広がっていた。
ふふ、と彼女は笑いを漏らした。キーボードを打つ手は止まらない。
「やっぱり君、つまらないね」
「え」
「でも、それが面白い」
そして彼女は、キーボードから手を離し、隣に座った僕を見つめてくる。深い黒の瞳に僕は吸い込まれた。
「正解は、世界を創っている、でした」
やけに自信満々に告げたが、僕は到底信じられなかった。誰が世界を創っているなんて、信じると思うんだ。
「嘘だと思ってるね」
「嘘じゃないのか」
「嘘ではないな」
まあ、大袈裟だけど、彼女はそう付け加えた。
「小説を書いてるんだ」
「小説……?」
「うん、小説。知らない?」
「いや、知ってるけど」
改めて、僕はパソコンを覗き込んだ。文字の羅列。溺れそうになるくらいの文字の迫力と勢い。
だからなのか、と納得できた気がした。
世界に命を宿している。世界に色をを付けている。だから、パソコンに浮かぶただの文字たちが力を持ち、この部屋が小さな世界に見えた。そして、彼女が神のような存在に見えた。
全部、世界を創っているからなのか。
「納得してくれた?」
「うん」
キーボードをうつ、彼女の手を見ながら、僕は首を縦に振った。
そうか、と彼女も流すように言って、命を宿す作業に集中し始めた。
カタカタとキーボードの音しかしない。他の雑音は全くない。
彼女はキーボードを叩き、僕はそれを取り憑かれたように見ていた。
「……見られてると気が散るんだけど」
しばらくして、気まずそうに彼女が言った。確かにずっと見ているのはよくないと思った僕は、ごめんと謝った。
「謝ることじゃないけど。でも、見られてると気が散るからなぁ。
……そうだ」
何かを思いついた彼女は、僕の座っているほうの逆側に積んであった紙束を取り、僕に渡してきた。
「読む?」
「いいの?」
「うん。ついでに誤字脱字とか、日本語が変なところとか、気になるところがあったら教えて」
ペンはその辺に転がってるから、と彼女は言い、またキーボードを打ち始めた。
ずしりと手にかかる、重さ。ただの紙の束のはずなのに、それ以上の重さを感じた。きっとそれは、彼女が紡いだ世界が宿っているからなんだろう。
タイトルの書いてある一枚目のページを丁寧にめくる。
もうすでに、物語は始まっていた。
『了』という文字で、僕は現実世界に引き戻された。パソコンの光を頼りに読み進めていたので、目の焦点が上手く合わない。こんな中、よく読めたなと瞬きを繰り返す。
まだ、彼女が創った世界に取り残されている気分だ。余韻に浸っているどころの話ではない。まだ、向こうの世界に本体がある、そんな不思議な気分だった。
僕が読み終えたのを感じ取ったのか、彼女はキーボードを叩きながら、「どうだった」と聞いてきた。
「面白かった」
単純な感想が、僕の口から飛び出る。
「また君は、つまらないことを言う」
「あ、いやその」
そんな感想を言うつもりはなかった。もっと言いたいことはたくさんあるはずだった。でも、最初に飛び出してしまったのは『面白い』。嘘じゃなかったが、こんな感想は読んでない人だって言える。
失敗してしまった。どうすればいいんだろう。
僕が軽くパニックに陥ってるのを見ると、けらけらと彼女の笑う声が聞こえた。キーボードをうつ音は聞こえない。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。君がちゃんと読んでくれたのはわかってるからさ」
彼女は手を上にあげながら、伸びをすると、言葉を続ける。
「“面白かった”って言われるのが、1番嬉しいんだよ」
「そう、なの」
「うん。そうやって、無意識のうちに出ちゃう、面白かった、がさ」
「それなら、よかった」
その後、彼女に細かい感想を伝えた。物語に集中しすぎて、誤字脱字はチェックできなかった。だから、ただの僕の個人的な感想になってしまった。
でも、彼女は嬉しそうに聞いてくれていたので、いいかなとも思った。
僕が彼女の部屋を出たのは、空が真っ黒に染まった時だった。
それきり彼女とは会っていないが、彼女の世界はいつまでも、僕の中に残って消えなかった。
だからきっと、彼女がいなくなる、と聞いた時に動揺したんだ。もうすでに、その世界は僕の一部だったから。
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