第6話 その後の旅路は順調だった

 その後の旅路は順調だった。

 追っ手という追っ手もなく、何事もなく村までもうすぐだ。


 末の姫様を姫という身分のままではすぐに見つかってしまうと、俺たちは兄妹を装って旅をしていた。

 姫様と呼び慣れていたこともあって姫百合と偽名を付けようとしたところ、末の姫様は御自身で『紫苑しおん』と名乗られた。

 足元に咲いていたというだけのことだが、御本人がお気に召していられるのだ。

 無理に俺の案を通すことは出来なかった。

 『紫苑』と名乗られた時に頭に飾られた紫苑の花は本当に良く似合っていた。

 黒い髪に小さな星のように広がる花弁が栄え、紫水晶の瞳と紫苑色が相まって肌の白さを際立たせていた。


「ひめ……紫苑? もうしばらくの辛抱だ」


 真っ黒な髪を汗で額に貼り付け苦しそうに肩で息をしている。

 ここに来て疲れが出てしまったのだろうか?

 齢僅か十ばかりの少女だ。それに今までずっと宮の奥にいた姫君である。

 市井の子共に比べたら体力だって少ないし、子共が街道を進むだけでも大変だというのに、末の……紫苑は道ともいない獣道ばかりを通ってきたんだ。

 疲れて当然だ。


「私は大丈夫です。……兄様の方こそ怪我だってしているのに」


 紫苑に兄様と呼ばれるのはなんだかこそばゆい。

 旅の間に慣れなくてはと思っても、これはなかなか大変だ。

 紫苑よりも、俺の方が姫様と口にしてしまいそうでヒヤヒヤしていた。


「ここを過ぎれば村まであっという間だ」


 山間にある村は閑散としているように見えるが、子共が笑い、あばた道で走りよく遊んでいる長閑な風景の村だった。

 庵主からの手紙を見せただけでよそ者と厳しかった視線は幾分か和らいだ。

 紫苑が旅の疲れに倒れてしまったせいもあるだろうが、総じて村の人は俺たちに良くしてくれる。

 よそ者の浪人というだけで排他的な扱いを受けても仕方がないと思っていた。

 本当にあの庵主には頭が上がらない。

 熱を出してうなされる紫苑を村の女達はよく看病してくれた。

 宮の外に出ることのなかった紫苑の白い肌に病弱な娘と村では見られるようになっていた。

 お陰で充てがわれた山奥の家から紫苑が村に下りることが少なくても不信に思われることはなさそうだ。

 紫苑と呼び名を変えたところで末の姫様であることは変わらないんだ。

 頻繁に村で、人前で過ごすような事は避けなくてはと思っている。


 困った事といえば、紫苑だ。

 自ら剣術を習いたいと言い出したのだ。

 幾ら身を守るためとはいえ、命を奪う術であり、修羅に通ずるもの。

 姫君の手習いとしては不適切だろう。

 だからといってこの村で、姫君の手習いになるようなものなどなにもないのだが、それでも剣術とはどうなんだ?

 いつ追っ手が来るともわからず、家で紫苑一人で過ごすことも多い。

 剣術を身につけていた方が安心ではあるが……


「兄様は何を悩んでいるのですか? 私は生きる為に剣術の指南をお願いしているのです」


 それはわかっている。

 だが、紫苑は末の姫様なんだ。


「兄様が教えてくださらないなら、精霊にお願いします」


 紫苑はそう言い捨てて家を出て行く。


 ――精霊にお願いします


 紫苑は精霊に何を願うと……紫苑は精霊と話しが出来るとでもいうのだろうか。


「待て。紫苑!」


 家に寄りかかり、悪戯を仕掛けた悪童のような笑みを浮かべ


「待ってました。さあ、教えてください」


「それよりも紫苑は精霊と話しが出来るのか?」


 口を尖らせ、不機嫌を懸命に表し


「精霊とお話が出来たら素敵ですね」


 紫苑は刀を俺に押しつけ、重そうに、俺を真似て構える。

 全く様にならないその姿に俺は剣術の指南に覚悟を決めた。


*****


 ――末の姫様が紫苑となられてからどのくらいの月日が過ぎたのだろうか?


 子供だったそのお姿はすっかり娘らしくなり、麓の村に降りれば若者達の視線を集めるようになられた。

 それもそのはずだ。

 幼き頃から美しくうねりのない真っ直ぐな黒髪はその艶やかさを増し、山で暮らしているにも関わらず、白くなめらかな肌は宮中のどの女御にも負けることはないだろう。

 紫水晶の大きな瞳は今も昔もなんの迷いもなく常に澄んでいる。


 この山の中での生活に親しまれている姿を見ると、姫であったことなどご自身が忘れているのではないだろうかと心配になるが、忘れ去ってしまった方がいいのかもしれないと思うこともあるんだ。

 生き抜くためにと請われて指南する剣術もご自身を守る確かな術となり、このままお忍びでの生活を続けさせるのもいかがなものだろうか?


 都に戻ることは出来なくてもどこかの若者と幸せになる事を考えてもいいのではないかと頭を過ぎる。

 紫苑を追う者が全くないということも、女としての幸せを願う要因の一つになっていた。

 王の御息女として、白の一族の生き残りとして、この国を治めて頂きたいとの思いもあるが、その過程にある危険に姫様を巻き込みたくない。


 俺は一体どうしたいんだろうな……


 この数年穏やかな時間が過ぎていた。

 畑に悪さをする猪を退治し、山賊が出たと村からの要請があれば殲滅に向かい、人食い熊が出たとなれば撃退する。

 俺はいつの間にか棋士とは遠い山男になったものだ。


 夕食を終え夜の帳もすっかり下りきった頃、掘っ立て小屋ともいえる家の外に嫌な気配が漂う。

 山の中での生活だ。獣がこの家を囲むこともあったが、それとは明らかに違う。

 気配の中に悪意が混じっている。

 紫苑も感じ取っているのか、いつもの穏やかな表情が険しい。


 ――油断していた。


 俺は穏やかなこの月日の中に紫苑が末の姫様である事をすっかり失念していたのではないだろうか?

 家を囲まれている事がその証だ。


 なんとしても紫苑を守らなくては!


 刀を後ろ手に出入り口を開けた。

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