第18話。裕秋の堕落

 行方不明だった柚子ゆずを見つけ出し、裕秋ひろあきは家まで連れて帰ってきた。


 玄関の扉を開けた時、そこには座り込んでいる時雨しぐれがいた。時雨は壁に寄りかかり、目を閉じて眠っている。


「裕秋。おかえりなさい」


 リビングの方から姿を見せた母親。母親の声が聞こえたと同時に背負っている柚子の体に力が入ったことが分かった。


「柚子。お父さん、話したいそうよ」


 流石に今回は父親が柚子のことを叱るのか。普段は娘達に甘い父親だが、叱る時だけは母親よりも人間的な恐怖を感じることがある。


 ただでさえ弱っている柚子を父親に差し出すのは酷だと分かっていた。けれども、柚子がどれだけ反省していたとしても、両親には何も伝わらない。


「母さん。柚子は……」


「裕秋。アナタは時雨を部屋に運びなさい」


 自分には何も出来ないようだ。真正面から母親に歯向かうのはバカバカしい。元々は柚子が背負うべき責任なのだから。


 母親に背を向け、柚子を引き渡した。最後まで柚子は手を伸ばし、助けを求めていたが、兄であるからこそ何もしなかった。


 時雨の体を抱き上げて、二階に向かう。


「時雨の部屋でいいか」


 普段、裕秋や柚子が足を踏み入れない時雨の部屋。そこにあっても、誰も必要としない。


 扉を開けた先、久しぶりに入った時雨の部屋は以前とは何も変わらない。母親が買い与えた物以外に時雨の私物と呼べる物はほとんど無かった。


 個性の無い部屋。それ以上の言葉は裕秋には思いつかなかった。時雨の心情を反映したような部屋は寒気を感じるような空間になっていた。


 そんな中で、裕秋は時雨をベッドに下ろした。


「あれ……お兄……」


 時雨が薄らと目を開いた。


「悪い。起こしたか?」


「お姉は……」


「柚子なら見つかった。今は母さん達と話をしている」


 時雨から離れようとした時、裕秋の腕は掴まれた。


「どうした?」


「お兄。行かないで」


「俺は何処にも行かない」


 もう家出を続けるような金はない。それに柚子が同じことを繰り返す可能性がある以上、いじけていても仕方がない。


 裕秋はベッドに腰を下ろした。


「時雨。お前に全部話したのは、誰よりも信じているからだ。でも、もし誰かに柚子のことを話したら、今の関係は続けられない」


「お兄は……お姉のこと愛してる?」


「愛してる。ただ、それは家族としてだ」


 だから、一線を踏み越えた時に後悔をする。その先にあるものは愛なんて呼ぶには、あまりにも歪な感情なのだから。


「どうして、それ以上お姉を愛せないの?」


「それは……」


 裕秋は自分で気づいていた。


「……柚子のことが嫌いなんだよ」


 騒ぐ柚子が嫌い。嘘をつく柚子が嫌い。時雨に負担をかける柚子が嫌い。わがままな柚子が嫌い。家族でなければ、愛なんて言葉は生まれなかった。


 今まで過去を言い訳にしていただけだ。


 本当は立ち直っていたはずなのに、紗奈さなのせいにして柚子を傷つける理由にした。嫌いで愛してる柚子の人生を壊したいと、裕秋は思ってしまった。


「お兄」


 時雨の声と共に、裕秋の背中に重みがかかる。


「ボクのことも嫌い?」


「お前は……好きだと思う」


「なら、どうしてボクを選んでくれないの?」


 時雨の腕が裕秋の体を強く掴む。


「選べるわけないだろ」


 裕秋は時雨の腕を掴んだ。けれども、簡単に引き離せるものではなく、細い腕からは想像も出来ない力を発揮していた。


「やっぱり、ボクのこと嫌いなんだ」


「……」


 柚子に対する愛は歪んでいる。


 なら、時雨に対する感情とはなんだったのか。


「お前のことは、人間として愛してる」


 時雨の力が抜ける感覚があった。


 裕秋の背後から布が擦れるような音が聞こえた。


「お兄。証明してよ」


「証明……?」


 裕秋は振り返ることが出来なかった。振り返ってしまえば、何もかも壊れてしまう気がした。


「あの日、お姉にしようとしたこと。ボクにしてよ」


 もし、あの日に時雨ではなく柚子がベッドに眠っていたら。裕秋が越える一線は家族としての関係を終わらせるものだったはずだ。


 それを時雨が望んでいる。愛の証明に、兄との関係を終わらせ、家族ではなくなってしまう。


「自分が何を言ってるか分かるのか?」


「ボクは気づいたから」


 時雨の白い腕が裕秋の首に触れる。


「お姉よりも、お兄の方がボクを愛してくれるって」


 耳元で囁かれる時雨の声が裕秋の理性を崩壊させた。長い時間、家出をしていたせいだ。欲望を解き放つことなく、抱えた感情は理性を呑み込み、時雨を思いやることすら出来なくなる。


 後悔なんて忘れるほど、裕秋は堕ちていく。




「お兄。起きて」


 朝の目覚めは最悪だった。味わったことのない疲労感とは無関係に、時雨に起こされたことが寝不足気味で辛かった。


「あれ、時雨の部屋で寝たのか……」


 裕秋が体を起こすと、ベッドの傍に時雨が立っているのが見えた。


「お兄。おはよう」


 相変わらず、時雨の表情は顔に出ていない。


 昨晩の出来事が夢だと言われたら簡単に信じてしまうほど時雨は平然を保っており。裕秋は頭を抱えてしまう。


「時雨。昨日は……」


「昨日は何も無かったよ」


 時雨の言葉で余計に混乱する。


「ボクとお兄は、家族だから」


 本当に夢だったのか。ただ、夢だとしたら、いつからだろうか。ここで寝ていたと言うことは、部屋に時雨を運んだことは間違いない。


 色々と時雨に聞こうとしたが、部屋の入口で裕秋のことを見ている存在に気づいた。


「何やってるんだ。柚子」


「お兄ちゃん。怒ってる?」


 随分としおらしい柚子。昨日、よっぽど叱られたのか、いつもの明るさはなく。時雨に近づくことすらしないようだ。


「怒ってない」


「本当に?」


 柚子がゆっくりと近づいてくる。


「本当に怒ってない」


 裕秋はベッドから起き上がり、向かってくる柚子の頭に手を乗せた。柚子の髪を撫で下ろしたが、裕秋の感情は以前よりも落ち着いていた。


「お兄ちゃん。大好き」


 柚子の小さな体が裕秋に抱きつく。


「暑苦しいからやめてくれ」


 それを裕秋は軽く引き離した。柚子は驚いた顔をしていたが、悪気があったわけでない。時雨と眠っていたせいか、体の熱が冷めていない気がした。


 時雨が柚子の近くに歩いてくる。時雨は柚子の手を握り手を繋ぐが、それに対して柚子が反応することはなかった。


 どうやら、時雨は柚子に怒りを示すつもりはないようだ。腹の中では何かを抱えていても、時雨は今まで通りの家族を演じるつもりなのか。


「お姉。歯磨きくらいしなよ」


「あ、そうだね」


 時雨に連れられ柚子が部屋を出て行く。


 裕秋は近くに置いていた服からケータイを取り出し、届いていたメールを確認する。差出人は紗奈だが、内容は柚子を心配するようなものだった。


「一応、返しておくか」


 文章を考え、メールを返そうとした。


 しかし、裕秋が紗奈にメールを送ることはなかった。部屋の外から聞こえてきた物々しい音が、裕秋の心臓をはね上げた。


 すぐに裕秋は部屋から飛び出した。廊下では時雨が階段の先を見下ろして立っているが、柚子の姿は無かった。


「時雨……?」


 裕秋は嫌な予感がしていた。


 もし、時雨が何も考えていないように見えて、感情を荒らげていたとしたら。気づけないことは本当に恐ろしいのではないか。


 時雨を押しのけて、階段の下に目を向ける。


「柚子ッ!」


 そこには倒れている柚子の姿があった。裕秋は転びそうになりながら階段を駆け下り、ぐったりとしている柚子の体を動かして意識を確かめる。


「おい、柚子、しっかりしろ!」


「お兄ちゃん……」


 僅かな声が聞こえる。ただ、それが意識があるとは言い難い状況であり、裕秋の正常な思考は急速に失われていく。


「母さん……」


 そんな時、玄関の扉が開き、母親が姿を見せた。


「母さん、柚子が!」


 柚子の体を抱き上げようとして、母親に止められた。母親は取り乱すことなく、救急車を呼ぶように指示を出してきた。


 母親に柚子を任せて、すぐに救急車を呼んだ。あまり時間が経たないうちに、駆けつけた救急隊員に柚子は運ばれ、裕秋はサイレンが遠くなるまで立ち尽くしていた。


 母親からは学校に行くように言われた。けれども、何日も休んでいたせいで義務感なんてなかった。


 それに問題はまだ何も解決してはいない。

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