第17話。大鳳時雨

 もう何日家に帰っていないだろう。


 学校にも行かず、ネカフェの個室に引きこもっていた。そろそろ持ってきた金も底を尽きそうになり、他に行く場所を考えなくてはならない。


「今さら帰れるわけないよな……」


 柚子ゆずは兄の気を引く為に嘘をついた。


 世の中には理不尽で、自分には到底納得出来ないような事象が溢れており。それを人間は我慢をしなくてはならない。


 裕秋ひろあきはずっと我慢をしていた。柚子が妹でなければ、どれだけ簡単に割り切れただろう。間違いを犯した時から、裕秋の人生は転げ落ちるように変化をした。


「そういえば……」


 次の行き先を考えている時に、一つだけ思いついた場所があった。実際に足を運んだことはなかったが、母親に頼めば確実に行くことの出来る場所。


 母親に連絡をしようとケータイを探した時、扉のノックする音が聞こえた。店員が何か用でもあるのかと思い、すぐに扉を開けて対応をしようとする。


「お兄」


 しかし、そこに立っていたのは時雨しぐれだった。


 裕秋が思わず、扉から離れれば。時雨はすぐに個室の中に足を踏み入れ、扉を閉ざした。


「何の用だ。時雨」


 どうしてここがわかったのか。


「お姉がいなくなった」


「……だから、なんだよ」


 一瞬、露骨に反応してしまいそうになったが、時雨には悟られないように平常心を保つ。柚子のことは心配だが、自分には柚子を探し出す資格が無いように思えた。


「お兄は、心配じゃないの?」


「お前は柚子をやっていることがバカバカしいとは思わないのか?自分が嘘をついて、それが原因で自分が傷ついて、勝手に家を抜け出して。さらに、周りに迷惑かけてるんだぞ」


 強気な言葉とは裏腹に、裕秋は自分が情けなく感じていた。自分の心を偽る為に妹を蔑む。既に兄としても落ちぶれてしまった人間が、何を言っても自分自身が誰よりも納得出来なかった。


「ボクは、お姉を許せない」


 その時、時雨には明確な怒りの感情があった。


「お兄を騙したお姉をボクは絶対に許さない」


 しかし、すぐに時雨は冷静さを取り戻した。時雨が感情を荒らげること自体珍しく、特に怒りの感情を見せることは滅多に無かった。


 そんな時雨が柚子に対して怒りをあらわにしている。だからこそ、裕秋には時雨の真剣さが伝わってくる気がした。


「だけど、お姉はボクにとって大切な家族だから。お兄と同じくらい、ボクには必要な人なんだよ」


「時雨……」


 時雨は目に涙を浮かべながら、訴えかけてくる。


 そんな誠実な時雨だからこそ、裕秋は抱えている問題を話す気になった。


 時雨には裕秋の罪を知る権利がある。


「時雨。俺は……」


 すべてを時雨に話した。


 過去に紗奈と何があったのか。柚子に対して、欲望を溢れさせてたこと。何もかもを話して、時雨に嫌われるなら、それでも良かった。


「お兄」


 話を聞き終えた時雨の顔から感情が消えていた。


「ボクを選んでよ」


 時雨の口から告げられた言葉は、あまりにも重い。


 時雨は冗談でも、そんなことを言わない。


 嘘偽りの無い、時雨の言葉。


「ボクは、お兄を裏切らない」


 裕秋は時雨のことを信頼している。


 時雨は裕秋を信用している。


「ボクは、お兄のこと愛してる」


 裕秋は体を動かし、時雨の肩に触れた。


 時雨の変わらない表情を裕秋は見ながら。


 ただ、答えを口にする。


「時雨。それは嘘だろ」


「……っ!」


 最後の言葉は、時雨が自分自身を騙すため嘘だった。完全で完璧な嘘。それは兄であっても見破ることは困難であり、時雨が覚悟を決めて放った言葉であったはずだ。


「俺は、お前から愛なんて感じない」


 裕秋は時雨の体を突き放した。


「結局、お前は俺よりも柚子の方が大切なんだろ」


 何故、時雨が自分を選ばせるのか。


 その理由は普通に考えればわかることだ。時雨は自らを犠牲にすることで、柚子を守ろうとしている。


「ボクには、よくわからない。でも、お兄が言うなら、そうなのかもしれない」


 時雨には自覚が無かった。兄と姉、二人を同列に扱っているように見えて、実際は様々な要素が加えられ、兄よりも姉の方を優先していた。


 ただ、それだけの話だ。


「お前のおかげで踏ん切りがつきそうだ」


 掴んでいた蜘蛛の糸が、切れたようだ。心のどこかで時雨に受け入れてもらえることを期待していた裕秋にとって、時雨の行動は最後の希望を握り潰した。


 何処まで行っても、時雨の心を本当の意味で手に入れることは裕秋には出来ない。初めから、時雨の心は柚子の為に存在していたのだから。


「柚子のこと探してやる」


「いいの?」


「ああ。お前に対する償いだ」


 これまでのこと。全部、無かったことに出来るとは思わないが、何もしないよりはマシだと思えた。


「ボクも探す」


「お前まで迷子になったら意味がないだろ」


 これから、日が暮れ始める。時雨一人で探せる範囲には限界があり、何かあった時に連絡を取る手段を時雨は持っていない。


「……わかった。お姉のこと、お願い」


 時雨があっさりと引き下がったのは、それが正しいことだと理解しているからだ。ネカフェから出た後、裕秋は一人で柚子を探すことにした。




 日が沈み、辺りは暗くなっていた。


 柚子の足では、遠くには行けない。しかし、いざ見つけ出すとなれば、心当たりのある場所を探すことしか出来なかった。


 これまで、柚子と一緒に行った場所。色々な店や施設に足を運んで柚子を探したが、裕秋に柚子を見つけ出すことは出来なかった。


 このまま、誰も柚子を見つけられなかったら。


 そんな最悪な考えが裕秋の頭の中で巡り始めていた時。ポケットに入れていたケータイが振動をする。


「メールか……」


 メールの差出人は紗奈だった。メールの内容はたった一言。駅前の公園。と書かれた文章が載っているだけだった。


 裕秋は、急いで公園のある場所に向かう。


 ちょうど駅には近い所にいた。駅前の公園と言えば、一つしか思い浮かばず、特に迷うこともなく目的地に近づいた。


 到着した公園入り口からでも全体を見渡せるほど小さなものだった。日が沈み人影も少なくなっていたおかげか、ソレを見つけるのに時間はかからなかった。


「なんで、お前達が……」


 ベンチに座っている理沙と紗奈。その間に柚子の姿もあり、柚子は顔を見せないように俯いている。


 そんな柚子を庇うように、紗奈が立ち上がり裕秋の前に来る。


「アキ。私達も柚子ちゃんを探してたのよ」


 紗奈からメールで連絡が来た時にそんな気はしていた。


「ちょっと待って。電話が……」


 紗奈がカバンからケータイを取り出した。


「はい。柚子ちゃんなら見つかりました……アキなら、目の前にいますよ。はい。そう、ですか……」


 短い会話で通話が終わったようだ。


「アキ。おばさんから、アキが柚子ちゃんを連れ帰るようにって」


「迎えに来ないのか?」


「みたいね」


 紗奈は特に気にする様子も見せなかった。


「二人でゆっくり話しながら、帰ってた方がいいと思う。でないと、あの子は納得しない」


 確かにこのまま連れて帰ってもダメそうだ。


「じゃあ、また後で」


 紗奈と理沙は立ち去ってしまった。


 残された柚子は、黙っている。


 本来なら、柚子を叱るべきだった。


 しかし、裕秋は柚子の前にしゃがみ背中を向ける。


「まだ、足。痛いんだろ」


 柚子の細い腕が、裕秋の体を掴む。


 裕秋は立ち上がり、しっかりと柚子を支える。


「もう十分、反省しただろ」


 裕秋は気づいていた。柚子がずっと顔を見せないのは、紗奈と理沙の前で散々泣いていたせいだ。


 おそらく、説教とまではいかないが、自分の行動がどれだけ間違っていることなのか、二人から嫌というほど聞かされたはずだ。


 でなければ、今こうして、兄の背中に大人しく乗ったりはしない。傍に裕秋がいなくとも、柚子は人間として成長をしている。


「ごめんなさい……」


 消えてしまいそうな柚子の声。


 もし、馬鹿な兄がいなければ、柚子が苦しみ涙を流すことはなかった。頭の中で理解するほど裕秋の中に存在する理想の柚子は消えていくようだった。


「柚子。時雨もお前のことを探してたぞ」


「そうなんだ……」


「あんまり時雨に心配かけるなよ。お前が居なくなって、一番苦しむのは時雨なんだぞ」


「うん……そうだね……」


 わざわざ言わなくても柚子ならわかっていたはずだ。これ以上の説教は柚子を傷つけてしまう。


「柚子。ごめんな」


 きっと、近いうちにもっと柚子を傷つけることになってしまう。それでも、裕秋は自分のやるべきことが見え始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る