第15話。裕秋の拒絶
今日は用事で行けない母親の代わりに、
幸い、柚子の怪我は完治すれば、以前と変わらない生活に戻ることが出来るそうだ。大きな後遺症が残る可能性は低いが、治るまで柚子は色々と不便な想いをすることになる。
「お兄ちゃんまだ?」
「もう少し、待ってくれ」
会話をしながら裕秋は柚子の荷物を片付けていた。
荷物は柚子が退屈しないように母親が持ってきたであろう漫画が特に多かった。中には新しく買ってもらった、本も含まれており母親がどれだけ柚子を甘やかしているかわかった。
改めて、柚子の方に裕秋は顔を向けたが、右手に巻かれた包帯が痛々しい。脚の方は母親の言っていた通り重症ではなかったが、走るのは控えるように言われている。
「母さん、学校には行くように言ってるのか?」
「歩くのが辛いなら車で送るって言ってたよ」
その腕じゃあ勉強どころじゃないと思うが。柚子が学校に行ったところで真面目に勉強するとは思えないし、何もしないなら学校に行かせておいた方がいいのか。
荷物をまとめ終われば、後は柚子を連れて帰るだけだった。車椅子を使ってもいいと言われていたにも関わらず、柚子は自分の足で立っていた。
多少はふらつくかと思えば、見た目だけなら問題はなさそうに見える。それでも裕秋は鞄を肩に引っさげ、柚子が転ばないように手を掴んで病室から出て行った。
生活の変化。柚子が退院した日から、裕秋は出来るかぎり柚子の世話をした。そこには償いの気持ちも含まれていたが、ほとんどが愛する妹の為にやったことだった。
「お兄ちゃん。これ食べさせて」
数日が経っても柚子の脚はまだ痛むそうだ。包帯の巻かれた腕は利き手ということもあり、これまで柚子が一人で出来ていたことが出来なくなっていた。
「お姉。あんまり、わがまま言わない方がいい」
「いいんだ、時雨。気にしないでくれ」
時雨が柚子の世話をすると言っていたが、それは自分が柚子と一緒にいられない時だけ任せることにした。
「お兄ちゃん、はーやーくー」
「わかってる」
裕秋は柚子の近くに置かれていた、ケーキの乗った皿を手に取る。用意していたフォークで一口分を取れば、柚子の小さな口に運ぶ。
親鳥が雛鳥に餌をやる気分だ。ただ、そんな冗談が裕秋の頭に浮かんだ時、柚子が口を閉じて顔を横に振った。
「もういらない」
「お姉。お姉がケーキ食べたいって言うから、お兄が買ってきてくれたのに。もういらないって、どういうつもり?」
「だって。もう食べられないし」
時雨が黙って柚子を見ていた。
最近、柚子が少しわがままになっている。それは時雨も気づいているのだろう。誰も注意しないからこそ、時雨の不満が溜まっているように見えた。
「お兄。後はボクが食べるよ」
裕秋はケーキの乗った皿を時雨に渡した。
「時雨。お前にも食べさせてやろうか?」
「必要ない」
時雨はフォークでケーキを食べようとする。しかし、時雨がケーキを口にする直前、裕秋は時雨の腕を掴んで止めた。
「時雨……お前、甘いの苦手だろ?」
「なんだ。覚えてたんだ」
忘れていたわけじゃない。もし、本当に忘れていたら止めることも出来ずに時雨に苦手なケーキを食べさせていた。
「無理して食べなくてもいいぞ?」
「大丈夫だよ。これくらいなら」
柚子は知らん顔しているが、元々は柚子がケーキを残したせいだ。時雨は黙って食べているが、そんな姿を見るのが裕秋は辛くなってしまった。
「時雨。俺、部屋に戻るからな」
「うん。お姉のことは任せて」
裕秋は部屋から出て、自分の部屋に戻る。扉を開け部屋に入るなり、ベッドに寝転がった。柚子と一緒にいる時間は気が休まらず、肉体的な疲労とは別に疲れていた。
そのせいか、すぐに眠気がやってくる。眠らないように頭を働かせようとしたが、考え込むほど余計なことばかりが頭に浮かんでしまった。
劇的な日々の変化の中でも、裕秋が抱いている欲望は、砂時計のように積もっていた。
柚子が傍にいることが、余計に悪化をさせた。一度柚子の味を知ってしまった裕秋は以前よりも、我慢をすることが難しくなり。自分を抑えられなくなっていた。
同じことを繰り返せば、今度こそ柚子が死んでしまう可能性もある。裕秋の心にある不安や恐れこそがあるからこそ、理性に似たモノは保たれていた。
眠気によって意識が完全に閉ざされようとした時、扉の開く音が聞こえた。すぐ確認すると、そこには時雨が立っていた。
「お兄」
部屋を訪ねてきた時雨。普段と変わらない時雨の表情は、何を考えているか読み取ることは出来ない。
「どうした?」
「お姉が大変なことになってる」
「大変って、なんだよ?」
「怪我のことで。すぐに行かないとお姉が……」
時雨が冗談を言ってないことがわかり、裕秋は血の気が引いた。すぐに部屋を飛び出して、隣にある部屋の扉を開け放った。
床に寝転がっている柚子。その姿を見た瞬間、裕秋の心の中で、まだ芽生えていなかった感情が生まれる感覚があった。
「どういうことだ。柚子」
「お兄ちゃん……」
柚子は片手で漫画を読みながら、使える手で菓子を食べている。つまりは、両手を使ってるということだ。
「時雨、なんで、お兄ちゃんを呼んだの……?」
「お姉。調子に乗り過ぎだよ」
おそらく、時雨に誘導されなければ、気づけなかった。柚子が兄を騙す為に嘘をついていたこと。
初めから柚子は腕の怪我なんてしていなかった。
「お兄ちゃん……」
手を伸ばしてくる柚子。それを裕秋は振り払った。
「触るな」
裕秋の怒りは、完全な形として成した。
「柚子。いつからだ?」
「……」
「黙ってないで答えろ!」
柚子が泣き出しそうな顔をしているが、関係なかった。裕秋の感情は、ただただ怒りに満ちていた。
「怪我……してない……」
「声が小さい」
「最初から……手……怪我してない……」
思い返せば、おかしいな点もあったはずだ。事故のことに気を取られ、怪我に関しては詳しく聞いてなかった。
「お前は……」
柚子の為に使った無駄な時間が、裕秋の怒りを増幅させる。冷静でいようとするほど、裕秋の感情は荒れてしまう。柚子の嘘が、裕秋の心を歪ませた。
裕秋は感情を込めるように拳を握る。
「お兄。ダメだよ」
時雨が裕秋の腕を掴んだ。時雨一人、振り払うことは造作もなかったが、裕秋は時雨に触れられ、自分が柚子に何をしようとしたか自覚をした。
「それだけは。ダメ」
時雨に止められなかったら、柚子に暴力をふるっていたかもしれない。それほどまでに、裕秋の感情はハッキリとしていた。
「時雨。離してくれ」
「お兄……」
「もう、柚子のことはいい」
時雨は察したのか、ゆっくりと手を離した。
裕秋は柚子に何も言わずに、部屋から出て行くことにした。これ以上、柚子の泣き顔を見ているだけで、苛立ちが収まらなくなりそうだったからだ。
一度、裕秋は自分の部屋りに戻りケータイと財布をポケットに突っ込んだ。このまま家に居ても、平常心を保つことは出来ないと考え、裕秋は家を出ることにした。
部屋から出る時、廊下に時雨の姿があったが。裕秋は声をかけなかった。階段降り、真っ直ぐ玄関の方に向かった。
裕秋が玄関で靴を履いている時。背後でリビングの扉が開く音が聞こえた。廊下を歩く足音が裕秋に近づき、真後ろで止まった。
「裕秋。何処に行くの?」
母親に声を掛けられた。
「しばらく、家には帰らない」
「そう。気をつけて」
どんな時でも母親は変わらない。
今も昔も、母親の考え方は一つしかない。
「なあ、母さん……」
裕秋が振り返ると、目の前に母親の顔があった。
思わず、裕秋は驚いてしまうが、母親には悪意があったわけではないのか。顔は笑ってはいなかった。
「昔、母さんが言ったこと覚えてるか?」
「私が、何を言った?」
「いや、なんでもない」
改めて聞き直すことではなかった。
裕秋は諦め、玄関の扉に手をかけた。
「裕秋。その先に幸せはあるの?」
母親の言葉が酷く響いてくる。もし、答えがあったのなら、返していただろう。そして自分の行動が無駄な事だと理解して、扉から手を離していたはずだ。
「今の俺には、わからない」
裕秋は玄関の扉を開け、家を出て行った。
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