第14話。裕秋の安堵
「あ、お兄ちゃん」
病院に着いた時、酷く取り乱していたと思う。受付で
思わず、裕秋はベッドのそばにいる母親の顔を見た。母親は考えを察してくれたのか、二人だけで病室から抜け出し、柚子や
「柚子の怪我は、大丈夫なのか?」
電話で聞いたのは、柚子が道路に飛び出して車に跳ねられたことだけだ。しかし、実際に柚子の様子を見れば重症というわけでもなさそうだ。
「大きな怪我してない。でも、少し入院」
「入院って……」
「一応、検査があるから」
「そうか……」
安心した。きっと、顔に出るくらいには焦っていたのだろう。裕秋が安堵すると同時に母親が肩に触れる。
「裕秋。柚子のこと。お願い、ね」
「っ、なんでわざわざ言った?」
母親なら、自分の息子が嫌でも柚子の面倒を見ることを知っているはずだった。なのに、改めて言う必要があったのか。
「さあ。なんとなく」
母親がはぐらかした時に質問を繰り返しても無駄だと裕秋は知っている。もし、聞き出すなら母親と本気で向き合う必要があった。
「裕秋。先に時雨と一緒に帰ってくれる?」
「母さんは、柚子といるのか?」
「そう。でも、夜には戻るから」
「わかった。俺は、もう少し柚子の顔を見てから帰る」
裕秋が部屋に入ろうとすれば、扉が勝手に開いた。
「お兄」
扉の向こう側から現れた時雨。
「ママ。ボク、お兄と話したいことがある」
母親は時雨の頬を軽く触ると、病室の中に戻って行った。母親を通した扉が閉ざされ、時雨は深いため息を吐いた。
「赤信号だった」
「赤信号……?」
「お姉は急いで帰ろうとしてた。でも、信号を無視するなんて、馬鹿なことをお姉がしないって、ボクはわかってる」
時雨の表情は相変わらず、何を考えているのか読み取れない。ただ、時雨は柚子よりも頭の中で考え込むような性格だと知っている。
「でも、お姉は……」
「時雨……」
「お姉は、赤信号だったのに道路に飛び出した」
いったい、何が柚子をそうさせたのか。
もし、柚子にぶつかった車の速度がもっと速かったから。もし、当たり所が悪く大怪我をしていたら。もし、もしも、柚子が死んでいたら。
死。柚子が望んで自殺をするような性格だとは思いたくはないが。時雨が悩んでいるのは、裕秋と同じように柚子の性格について理解しているからだろう。
「時雨。俺はお前のことも心配だ」
「ボクは平気……」
「そうは見えないぞ」
いくら強がっていても、時雨は子供だ。柚子の事故に動揺している。時雨を落ち着かせる為にも今は柚子から引き離した方がいい。柚子を見る度に時雨が事故のことを思い出す可能性があった。
「時雨。俺たちは先に帰るからな」
最後に柚子の顔を見て帰ろう。
裕秋は病室の扉を開け、柚子のベッドに近づいた。けれども、柚子は布団を深く被り、顔が見えなくなっていた。
「母さん。柚子、どうしたんだ?」
「少し、眠るそうよ」
柚子は反省しているのだろうか。
これまでの人生で、柚子や時雨を叱ったことは一度もない。少なくとも、自分に与えられた役目ではないような気がするからだ。
母親は時雨のように感情が深く沈んでいる。けれども、今回のことは母親が何も言わずに済ませてるとは考えられなかった。
だったら、自分から柚子に伝える言葉ない。
「俺は先に時雨と帰るからな」
その言葉は、寝たフリをしている柚子に聞かさせる為だった。特に柚子は反応をしなかったが、聞こえてはいるだろう。
「裕秋」
裕秋が病室を出て行こうとした時、母親に腕を掴まれた。そのまま母親はすぐに手を握ってきた。
「お父さん。仕事が終わり次第、病院に来るから。先に二人で何か食べてなさい」
母親から渡されたのは、一万円札だった。
「わかった」
裕秋は時雨の手を掴んで、病室から出て行った。
病院から帰る際に、コンビニで二人分の弁当を買った。初めは外で夕飯を済ませようと裕秋は考えていたが、時雨から頼まれ、弁当を買って帰ることにした。
時雨は、あまり食欲が無いのかもしれない。自宅に着くまで多くは話さず、ただ手を引かれるまま歩いていた。
「電気、ついてないな」
もうすぐ日が暮れる頃だが、外から見える自宅の明かりは消えていた。まだ父親が帰って来ていないことは確かだったが、
裕秋が家に入ろうとした時。ポケットに入っていたケータイが不意に鳴る。すぐにケータイを確認すると、一件のメールが届いていた。
裕秋は弁当の入った袋を時雨に渡して、先に家の中に入るように伝える。メールの内容次第では、裕秋の行動が変わる可能性もあった。
「紗奈。帰ったのか……」
紗奈からのメール。内容は実家に帰るというものだったが、何故今になって帰る気になったのか。
疑問には思ったが、わざわざ聞き出すようなこともない。メールの返信はせずに、裕秋はケータイをポケットにしまった。
裕秋が玄関の扉を開けた時、時雨が靴を脱いでいた。柚子なら靴を脱ぎ捨てて散乱させるが、時雨は靴を脱いだ後に綺麗に並べていた。
そんな時雨を見ても、裕秋は靴を適当に脱いで廊下を歩いていく。この家で自分の靴を整えるのは時雨と父親くらいだろう。
「時雨。弁当」
時雨が袋を差し出してくるが、その袋に手を入れて自分の弁当だけを取った。
「わざわざ一緒に食べなくていいだろ」
「うん」
裕秋は弁当を持ったまま階段に向かう。時雨はリビングの方に歩いて行ったが、弁当を食べるかはわからない。
兄として、時雨の傍にいてやるべきだったか。初めは時雨が不安にならないように色々と考えていたが、時雨からは構わないでほしいと言われていた。
時雨には一人で考える時間が必要だった。
今日は長い一日だった。
風呂に入った後、自分の部屋でずっと柚子のことを考えていた。柚子が事故に巻き込まれ、時雨の告げた事実が、裕秋の頭を悩ませていた。
しかし、考えれば考えるほど柚子が事故を起こした理由が分からなくなる。もし、明確な原因があるとすれば、それは裕秋が自身を責める結論に至ってしまう。
「お兄」
その声と同時に開いた扉から、時雨が入ってくる。時雨はパジャマに着替えており、裕秋が壁の時計に目を向ければ既に日付が変わろうとしていた。
「どうした?」
こんな時間まで時雨が起きているのは珍しい。
「お兄。一緒に寝たい」
時雨は一人でも眠れる。昔、裕秋が柚子と一緒に眠っていた時から、時雨は一人で寝ることが出来るようになっていた。
そんな時雨がわざわざ兄の部屋を訪ね、一緒に眠ることを望む理由。時間からしてみても、眠ろうとしても眠れなかったのだろう。
「何かあっても文句言うなよ」
分かりやすい忠告をしても、時雨は裕秋の傍に寄ってきた。時雨がベッドに寝転がり、枕に頭を乗せていた。
裕秋は時雨に布団を被せ、時雨に背を向けて眠ろうとする。元々は一人用のベッド。二人も仰向けで寝れば、それなりに狭くなってしまう。
「お兄」
「どうした?」
裕秋は目を閉じたまま時雨の声に集中する。
「抱きしめてほしい」
「……っ」
頭の中で時雨の言葉を理解しようとするが、どれだけ考えても答えは変わらない。裕秋は言われるがまま腕を動かして、時雨の体に触れる。
体温の高い、時雨の体。抱きしめると、余計に熱を感じ取り。少しだけ、体から離してしまった。
次第に眠気が裕秋の中に満たされる。柚子が事故に遭ったばかりで、時雨に手を出すなんて考えは浮かびもしなかった。
「お兄。ありがとう」
意識の途絶える時、そんな声が聞こえた。
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