第13話。白石萌絵
少しずつ自分の中で何かがおかしくなるような感覚に
毎晩紗奈とは一緒のベッドで眠っているのに。裕秋は自分でも恐ろしいと感じるほど、紗奈に対して欲情することがなかった。
これまでに
自分で自分を殺したいと裕秋は何度も思った。
幼い彼女達に向けられる感情は純粋ではない。紗奈という人間に歪められた性癖。あの日の蜜の味を今も忘れることが出来ず、惨めに求めてしまっている。
「俺は……どうしたら……」
そんな悩みを抱えた日々の中で裕秋は出会った。
学校が終わった帰り道。信号待ちをしている女の子がいた。後ろを姿を見ただけでは、誰かわからなかったが。不意に女の子が振り返ったことで、知り合いだとわかった。
「萌絵……」
「お兄さん」
萌絵が近寄ってくる。思わず、逃げ出しそうになったが、萌絵にそんな態度をとって傷つけるわけにはいかない。
「もう風邪は大丈夫なんですか?」
「風邪ならずっと前に治ってる」
萌絵は心配してくれていたのか。裕秋は柚子と接するように萌絵の頭を撫でそうになったが、寸前で止めてしまった。
「お兄さん?」
「そういえば、何をしてたんだ?」
「柚子さんの家に遊びに行く途中です」
柚子と遊ぶ約束でもしていたのか。家には時雨もいるから、萌絵が遊びに来るとは思わなかった。
「そうか」
信号機が青に変わり二人で歩き出す。当然、向かう先が一緒なのだから、裕秋の隣を萌絵が並んで歩く。
「萌絵。聞きたいことがあるんだが」
「なんですか?」
「時雨と仲直りしたのか」
ずっと気になっていたことだ。
「柚子さんの髪を引っ張ったことなら謝りました」
「そもそも、なんで柚子の髪を引っ張ったりした?」
「あれは柚子さんが……外で走り回っている時に花壇に突っ込もうとしたので、咄嗟に髪を掴んでしまって」
そう言えば、追いかけっこで遊んでいるとか聞いた。柚子が猪のように花壇に向かったのなら、誰だって止めるだろう。
「時雨さんが私を突き飛ばした後、柚子さんと時雨さんが大喧嘩をして。私の方から謝るタイミングが無かったんです」
「なんというか、悪かったな」
「いえ。お兄さんが謝ることじゃないです」
「それもそうか……」
話題が無くなった。そもそも理沙とも上手く会話を続けられないのに、よく知りもしない萌絵と世間話を続けるなんて難しいことだった。
「理沙とは、仲がいいのか?」
「理沙お姉ちゃんとは普通です」
「普通なのか」
「最近は遊んでくれますけど、少し前まで理沙お姉ちゃんは友達のような人とばかり遊んでいました」
理沙の友達と言われても想像がつかない。
「理沙が構ってくれないから、いじけてるのか?」
「そんなに子供じゃないです」
「まだまだ子供だろ」
裕秋は柚子に接するように、萌絵の頭に軽く触った。もし、嫌がるようなら手を離して二度とやらないだけだった。
「私、姉よりも兄の方が欲しかったです」
「なんでだ?」
「なんだか、安心出来ます」
安心。きっと、萌絵が自分の妹なら、そんな言葉は口にしないのだろうと、裕秋は考えてしまう。
「お兄さん。理沙お姉ちゃんと結婚する気はないですか?」
「理沙と結婚して、萌絵のお兄ちゃんってなれって言うのか」
「はい。お兄さんが、本当のお兄さんになります」
随分と萌絵は強欲なことを口する。ただ、冗談を言っていることに裕秋は気づいた。萌絵が本気で望んでいるなら、理沙の方に頼んでいるだろう。
「悪いけど、理沙のことは好きじゃないだ」
「じゃあ。お兄さんは誰が好きなんですか?」
萌絵の言葉で裕秋は足を止めた。
「俺は……」
柚子や時雨。その名前をすぐに口に出来ないのは、萌絵の問いかけに違和感があったからだ。萌絵が求めている答えは、当たり前の回答とは違う。
誰と聞かれて、誰でもないと答えるのが正しい気がした。何故なら、それが最も裕秋が自信を持っていたからだ。
「誰かを好きになったから、理沙お姉ちゃんが好きじゃないってことですよね?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
どうやら、考えすぎようだ。萌絵の質問にそれほど深い意味はない。余計な考えを振り払って、会話を続ける。
「萌絵は、好きな人はいるのか?」
「恋愛的なことなら、いませんよ」
「じゃあ、誰かを好きになるって。感覚はわかるか?」
「普通、わかると思いますよ」
萌絵の言い方的に、その感覚を実際に味わったことはないのだろうか。それでも普通のことだと言いきれるのは、当たり前の感覚が萌絵にはあるからか。
「俺にはいまいちわからない」
誰かを好きなる感覚。その感覚が裕秋には存在しなかった。裕秋が他人に向ける感情は、自分勝手な醜い欲望。それが愛だとは到底思えなかった。
「お兄さん……」
萌絵が手を掴んできた。
「苦しそうな顔をしてますよ」
「平気だ……」
萌絵と手を繋いで気分が落ち着いた。柚子や時雨の手と違って、握る力は弱々しい。それでも確かな熱を持ち、手のひらから伝わってくる。
家に着くまでの少しの間、萌絵と手を繋いだまま帰ることにした。こうしてると、本当の妹のようだと裕秋は感じていた。
裕秋は家に着くと玄関の扉を開けた。いつもなら柚子が駆け寄ってくるが、今日は柚子が現れない。
「おい、柚子」
それなりに大きな声で柚子の名前を呼んでみたが、柚子どころか時雨も姿を見せない。それだけならよかったが、玄関に紗奈の靴が無かった。
「母さん、いないのか?」
母親も家の何処にも居なかった。いつもならリビングで何かをしている母親が今日に限って、姿が見えなかった。
萌絵を玄関に残したまま、一度裕秋は二階に上がってそれぞれの部屋を確かめることにした。自分の部屋には紗奈の姿はなく、荷物も無くなっていた。
柚子と時雨の部屋も扉を開けて確かめたが、二人の姿もなかった。つまり、今、この家には誰もいないということだ。
「誰も帰って来てない……?」
裕秋は何か嫌な予感がしていた。湧き上がる不安が現実となるように、マナーモードにしていたケータイがポケットで鳴っていることに気づいた。
すぐに裕秋はケータイを取り出し、画面を確認する。それはメールではなく母親からの着信だった。
通話を開始すると聞こえてくる母親の声。
「裕秋。まだ学校にいる?」
「いや、もう家には帰ったけど」
「そう。なら病院まで来なさい」
「は?なんで病院なんかに……」
母親は酷く冷静で、告げられる言葉から緊張感を味わうことすらない。なのに、病院という言葉を聞いた時から、全身の血の気が引くような気分を裕秋を味わう。
「柚子が車に轢かれたのよ」
一瞬、母親が何を言ったのか理解出来なかった。
「母さん。悪い冗談なら……」
「裕秋。私が冗談を言っているように聞こえる?」
母親の言葉で、現実の出来事であると理解させられる。裕秋の心は味わったことのない感情に満たされた。
急いで玄関に向かうと、萌絵を待たせていることを思い出した。しかし、この状況では萌絵を待たせても仕方がない。
「萌絵……今日は帰ってくれ」
「お兄さん、何かあったんですか?」
「わからない。とにかく、今は」
「わ、わかりました」
冷静な判断をしたつもりが、裕秋は萌絵を急かすように押し出してしまった。萌絵は驚いていたが気を使う余裕もない。
裕秋は家を出ると、走り出していた。
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