第12話。大鳳の食卓
雨の降る音で
暗い部屋。顔を動かせば、隣で
ただ、紗奈を突き飛ばさずには済んだ。
「なんだよ……」
長い時間眠っていたせいか、昔のことを夢に見てしまい裕秋の気分は最悪だった。いつもなら、夕飯が出来れば誰かが起こしに来るせいで、完全に油断をしていた。
ケータイの画面を確認するが、いつもの夕飯の時間は過ぎていた。誰も呼びに来ないということは何か問題でもあったのだろうか。
「おい、紗奈」
紗奈の体に触れようとした時、寸前で止めた。
声を掛けただけで、紗奈が起きたからだ。
「なに……もう時間……?」
「お前は何を言ってるんだ」
状況を確かめる為に、裕秋は部屋から廊下に出ることにした。後を追って廊下に出てきた紗奈が裕秋の腕を掴む。
「おい、まだ寝ぼけてるのか」
「……」
ふらふらする紗奈を引っ張るように一階に続く階段を目指す。流石に紗奈を階段で落とすわけにもいかず、しっかりと支えながら降りて行った。
リビングから聞こえてるテレビの音。扉を開ける前に紗奈を引き離し、リビングの様子を一人で確認することにした。
「……」
そこにいたのは母親と
こちらに気づいた時雨が扉に近づいてくる。母親に聞かれたらマズいと思い、時雨を廊下まで連れ出した。
「時雨。柚子は大丈夫なのか?」
まだ、柚子に謝ることが出来ていない。
「お姉?別に何もなかったけど」
「何も?本当に何もなかったのか?」
「うん」
廊下の向こうにある、トイレの扉が開く。その中から現れた柚子と顔が合った。すると柚子は走り出し、こちらに飛び込んできた。
「お兄ちゃん。今日、お寿司だって」
「……っ」
いつもと変わらない柚子。時雨の言葉が嘘でないとわかり、余計に頭が混乱する。柚子から逃げるように、後退りをすれば、後ろにいた紗奈にぶつかった。
悪い夢でも見ていたのか。もし、本当にすべてが夢だったら、生々しく残っている唇の感触。柚子の怯えた表情。あれらが何もかもが酷い妄想だったことになる。
ありえない。そんな馬鹿なことは絶対にない。
確かに、柚子には拒絶された。
なのに、その柚子が今。目の前で、変わらない笑顔を見せている。それが演技であるのなら、柚子の嘘を見抜くことは絶対に出来ないように思えた。
「……っ」
不意に紗奈から背中を触れられ、裕秋は自分が考え込んでいたことに気づいた。時間にして数秒。決して、長い時間ではなかったが、このまま黙っているだけでは何も解決しない。
裕秋は確実な答えを出せず、助けを求めるように時雨の肩に触れる。時雨は察してくれたのか、柚子に近づいていく。
「お姉。お母さんのところに行こ」
「どうして?」
「そのままだとお兄が動けない」
「あ、そうだね」
柚子は時雨の腕を掴んで、リビングに向かって行った。二人が廊下から居なくなったところで、裕秋は頭を抱えた。
「何が起きてるんだよ……」
「アキ」
ようやく目が覚めたのか、紗奈が口を開いた。
「人間って、嫌なことから目を背けるものよ」
「柚子がそうだって言いたいのか?」
「あの子も人間よ。何かを選んで、何かを選ばない。そうやって選択したのが、今なんでしょ」
柚子が選んだ結果。柚子は兄に対して以前と変わらない関係を望んでいるというのか。柚子が何事も無かったかのように振舞っているのは、日常を壊したくないから。
「……お前、何処まで知ってるんだ?」
「さあ。私は何も知らないつもり」
紗奈は答える気はないのか。
「ほんと、情けないな……」
今の生活が続けられるのは、柚子のおかげだ。本当に柚子に嫌われたら、すべてを失ってしまう。
それをわかっているはずなのに。
裕秋の心は何一つ変わらなかった。
リビングでの食事。
今日、父親は仕事で帰って来ない。特に珍しいことではなかったが、このタイミングで母親が寿司の出前を取ったのは少し父親が可哀想に思えた。
もちろん、あの父親が気にする人間でないとわかっている。こんなことを一々気にしていたら、母親と一緒の生活が上手くいくわけがない。
「アキ。わさび付けた方が美味しいよ」
「っ、勝手に付けるな」
隣に紗奈を座らせたのは失敗だったか。柚子と時雨は母親の隣に座っている。母親がいるなら、子供が兄よりも母親を選ぶのは当たり前のことだったが。
「だったら。ほら、食べてみて」
紗奈が寿司を箸で掴んで、差し出してくる。
口を開けようとすれば、母親の笑った顔が視界に映った。どうせ、ろくでもないことを考えているんだと思ったが、柚子や時雨がいる状況で言葉にはしないのだろう。
「うっ……」
わさびが鼻を刺激する。食べたことがないわけではなかったが、明らかに付けすぎだとわかった。
「紗奈、お前……」
「ごめん。付けすぎたかも」
紗奈に差し出されたコップに口をつける。
「紗奈ちゃん。裕秋と結婚したら?」
母親が口にした予想外の言葉に裕秋は思わず、むせてしまった。母親が余計なことを口にした驚きもあったが、その内容も驚くべきことだった。
「いいんですか?」
母親の悪い冗談に乗っかる紗奈。
「どうせ、裕秋は彼女出来ないから」
「私は、アキがいいのなら。構いませんよ」
紗奈が確認するように顔を見てくる。わざわざ確かめなくても、答えはわかっているはずだ。何があっても、答えは一つだ。
「勘弁してくれ」
「ふーん、残念」
母親と紗奈の話が終わったところで、紗奈の体が妙に密着していることに気づいた。しかし、紗奈の体が触れていても不快ではなかった。むしろ、無理に引き離す理由などあったのだろうか。
昔のことを思い出せば、紗奈のことが嫌いになったわけではない。裕秋が紗奈に苛立ちを感じているのは、何も言わずに消えたことがずっと忘れられないからだ。
「……」
裕秋の柚子に対する異常な欲求。
もしも、その問題を解消する為に、紗奈を受け入れたとしたら。今よりも状況はよくなる可能性があった。
「紗奈。一つ聞いてもいいか?」
母親達に聞こえないように紗奈に耳打ちする。
「お前、何処まで本気なんだ」
「結婚するところまで」
紗奈と関係を持つことを裕秋は望まない。けれども、これ以上柚子や時雨を傷つけない為には紗奈を選ぶことも必要なのではないかと、裕秋は考えてしまった。
しかし、裕秋が次に考えるのは紗奈のことであった。柚子や時雨を守る為に、紗奈を犠牲する。そんなふうに割り切れる人間であったら、裕秋は初めから何も悩みはしなかった。
「……っ」
突然、裕秋と紗奈の間が大きく開かれた。
「くっつきすぎ」
いつの間にか背後に迫っていた柚子が二人の間に割り込んできた。そして、裕秋の体に柚子が抱きついた。
「ママ。お兄ちゃんとは私が結婚する」
「裕秋。モテモテね」
人の気持ちも知らないから言えるのか。
ただ、今気になるのは柚子の態度が何も変わっていないことだ。むしろ、積極的とも見て取れるのは気のせいだろうか。
「ママ。私は本気だよ」
柚子の重たい声が吐き出される。
それは時雨が苦手な声だ。しかし、時雨は離れているおかげか、怯えるような様子はなかった。
「そう。でも、残念ね。裕秋には好きな人がいるから」
「え……そうなの?」
まさか、紗奈のことを言っているのか。昔ならともかく、今の紗奈に対して好意を抱いてすらいなかった。
母親が的外れなことを言うのは珍しい。だが、柚子の顔を見れば、母親の言葉を信じきっている様子だった。
「母さん、適当なことを言わないでくれ」
「あら、私の勘違いだったかしら」
「俺に好きな人間なんていない」
少なくとも、今は誰かを好きにはなれない。
「でも、お母さんのことは好きでしょ」
「そういう話じゃなかっただろ……」
母親も、柚子も時雨も。家族としては好きだと言える。そして、紗奈も親戚の中ではマシな人間に思っている。
ただ、紗奈のことが好きかどうか聞かれたとしたら。嫌いだと答えることしか出来ない。紗奈のことを好きになるなんて、絶対にありえないのだから。
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