第11話。裕秋の過去

「なんだよ……」


 裕秋ひろあきが自分の部屋に足を踏み入れた時、紗奈さながベッドで寝転がっているのが見えた。特に変わった光景ではなかったが、裕秋は紗奈の姿を見た時、苛立ちを覚えた。


 しかし、紗奈に文句を言っても無駄だとわかっている。裕秋は不貞腐れるように、紗奈の隣に体を倒した。


「アキ。何かあった?」


「お前には関係ないだろ」


 適当に答えれば、紗奈の手が裕秋の体に触れた。


「アキって。昔と同じで分かりやすい」


「お前に、俺の何が分かるんだ」


「アキは今、酷く怯えてる」


 紗奈の言っていることは間違っていない。体の震えがおさまらないのは、自分の行動を恐れていたからだ。


 醜い欲望に塗れ、裕秋は柚子ゆずに手を出した。


 しかし、裕秋に誤算があったとすれば、それは柚子の反応だった。時雨しぐれとは違い、柚子は兄に唇を奪われた時から、酷く怯えた表情していた。


 目の前にいるのが兄ではなく、ただの飢えた獣であると柚子は理解した。真の拒絶とは、相手の本性を知った時に起こり得る。


 本来であれば裕秋が自らの意思だけで止めることは出来なかった。柚子の体に触れようと裕秋が手を伸ばした時、柚子は口を開いて裕秋に噛み付いた。


 柚子の噛みつきは、裕秋が失っていた理性を取り戻すほど強烈だった。鋭い釘が皮膚を貫くような痛み。逃れる為、裕秋は柚子から大きく離れた。


 その隙に柚子は現実から目を背けるように、頭まで布団を被って姿を隠した。


 怖がらせてしまった。そう思い、裕秋は柚子に近づこうとしたが。布団の中から聞こえてくる押し殺した泣き声が、裕秋の足を止める。


 柚子に与えたのは、明確な恐怖だ。


 そこで裕秋は柚子の部屋から飛び出した。


 廊下に出た時、裕秋は自分の行いを後悔することしか出来なかった。裕秋が何もやらずに部屋に戻ったのも、すべてを諦めたからだった。


「アキ。私に甘えてもいいよ」


「それだけは、お断りだ」


 紗奈に頼らなくとも、平常心を保てるように心を落ち着かせる。けれども、目を閉じれば、余計な考えばかり頭に浮かぶ。心臓の鼓動が嫌というほど聞こえてしまい、不安を増幅させる。


「アキ。心臓が激しく動いてる」


 紗奈の体が裕秋の背中に密着した。


「アキ。落ち着いて」


 名前を聞けば、吐くほど嫌いな人間。なのに、紗奈の声が頭の中に届くほど、心臓の鼓動がおさまっていく。安心とは違う複雑な感覚に裕秋は身を委ねることしか出来なかった。


「アキ。私は、ずっとアキに会いたかった」


 それは本心だったのか。今の紗奈が嘘をついているように思えなかった。


「でも、お父さんに止められてたの」


「止められてた……?」


 それは初耳だった。


「おばさんとお父さんの仲が悪くなったから」


「母さんのせいか……」


 母親は昔から色々と問題を起こしている。


 もしも、あの母親に後ろ指をさすような人間がいれば。母親は振り返り、向けられた指を握って折るだろう。


 どれだけ立場が悪くなろうとも、母親は自分の意思を曲げたりしない。だから、紗奈の父親と問題を起こすのも必然だった。


「でも、私。わかったの。お父さんは私のことなんて考えてない。お父さんが考えているのは自分の立場だけ。周りの目ばっかり気にして、私のことは見てくれない」


 紗奈の事情を聞いても、何年も溜められてきた不満が解消されることはない。結局、紗奈が何を口にしても、裕秋には言い訳にしか聞こえなかった。


「アキ。今からでも、やり直そうよ」


「もう、手遅れだ……」


 裕秋は起き上がり、紗奈をベッド押さえつける。


「全部、お前のせいだ」


 紗奈の首に手を伸ばす。そのまま力を込めて、握ろうとすれば紗奈が腕を掴み返してくる。


「アキ。それじゃあ、人は殺せない」


 紗奈に動かされ、さらに深みに落ちるように指先が皮膚に沈む。紗奈の表情はひとつ変わらずに人形のような瞳が、裕秋を見続けていた。


 どうして、紗奈は受け入れられるのだろうか。


「……っ」


 裕秋は紗奈から離れて床に座り込んだ。


 紗奈を殺すなんて出来るわけがない。本気で復讐を望んでいたのなら、今ではなくもっと早く紗奈に会っていたはずだ。


 結局、自分の弱さを裕秋は誰かのせいにしたかっただけだった。紗奈を殺したところで過去は変えられず、意味はない。


「アキ。もしかして、昔のこと気にしてる?」


「あれは、何かの間違いだ」


 その記憶は確かに存在する。


 あの時、お互いにまだ子供だった。


 脳裏に焼き付いた光景、感触、何もかもが裕秋の中に残り続け。今でも忘れることが出来なかった。


「そう。あれから一度も経験してないのね」


 紗奈の白い脚が裕秋の肩に乗る。首に掛かるように紗奈の足が動き、その肌の冷たさが酷く伝わる。


「アキ。私を使えばいいのに」


「……違う、そうじゃないんだよ」


 きっと、頼まなくても紗奈なら肌を重ねることを許してくれる。それは紗奈の言葉からも感じ取れてしまい、理解してしまう。


 しかし、裕秋は紗奈を受け入れられない。どれだけ飢えたとしても、腐った肉を口にすることが出来ないのは、本物の肉の味を知っているせいだ。


「もしかして、私じゃ興奮出来ないの?」


「……好きでもない奴に興奮なんてしないだろ」


「興奮しなくても。欲望を吐き出すことは出来る」


「だから……」


 結果は理沙りさでわかっている。異性に触れても、自分の欲望が掻き立てられない。例え、紗奈が相手でも同じ結果しか得られない。


「服、脱いであげようか?」


「やめろ。余計なことしたら本当に追い出す」


 紗奈が裕秋から離れた。


「せっかく、来てあげたのに」


「俺は今すぐ帰ってくれても構わない」


「おばさんに、しばらく泊まるって言ってある。いきなり帰っても変に思われるでしょ」


 そんなこと母親が気にすると裕秋は思わなかった。ただ、自分自身も紗奈を本気で追い出すつもりはまったくなく。出来ることなら、もう少しだけ探りたかった。


「お前……昔のこと、誰かに話したか?」


「私が過去のことを話してたら、アキが平気でいられないと思うけど。少なくとも話した相手が私の父親なら、アキをバラバラにして山に埋めてる」


 紗奈の父親は厳しい人だと聞いたことがある。


 これまで紗奈が姿を見せなかった理由が、父親のせいだと言われても多少は納得出来る。


「そんな人間が、よくここに来ることを許したな」


「父親には黙って来たから。あの人……おばさんの家に行くなんて言ったら、絶対に許してくれないから」


「それ、大丈夫なのか」


「平気よ。どうせ……」


 紗奈が膝を抱えて顔を伏せた。それは顔を隠す為なのか。裕秋は紗奈がどんな顔をしているのか、気になりゆっくりと近づいた。


「アキ。眠いわ」


「眠いって……」


「少しだけ。一緒に寝ない?」


 断ることも出来た。ただ、短い間に色々あったせいか紗奈の提案を受け入れることにした。今は自分の疲労感を消し去りたかった。


 電気を消しても、部屋は完全には暗くならなかった。夕日の差し込む部屋。紗奈と同じベッドで横になり、裕秋は眠ろうとする。


「アキ。もう一つだけお願い」


「なんだよ」


「頭を撫でて」


 別に何かが減るわけじゃない。裕秋は紗奈の頭に手を伸ばして、髪を撫で下ろす。それを繰り返すうちに、次第に裕秋は眠気を感じ始める。


 もう紗奈は眠ったのだろうか。


 腕を動かすことに疲れ、紗奈の頭に触れたまま目を閉じた。すると、裕秋の体に紗奈の体が寄ってくる。


 それを確かめる為に目を開けるほど、裕秋に気力は残ってなかった。不思議と紗奈の隣で眠ることに不安はない。


 もし、自分に歳の近い妹がいたら。紗奈のような妹だったのかと、そんなことも考えた。


「アキ。おやすみなさい」


 どうして。あの時、間違えてしまったのか。

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