第10話。楠木紗奈
玄関の扉が開く音が聞こえ、裕秋は一階に行くことにした。母親と誰かの話し声が聞こえたが、すぐに裕秋は相手の正体に気づいた。
数年ぶりに再会した彼女は昔と変わっていた。
頭の後ろで結ばれた黒い髪。暗い表情と化粧をした顔。不思議と彼女が美人であることは、すぐに理解出来た。
「アキ。久しぶり」
昔よりも近寄り難い雰囲気があったが、その言葉に棘はない。まるで、お互いの関係はあの日から何も変わっていないかのように。
「紗奈……」
紗奈には聞きたいことがあった。しかし、母親の前で話せることではなく、裕秋はどうにかして紗奈を連れ出したかった。
「おばさん。私、アキの部屋で寝るから」
裕秋が母親と話すよりも先に紗奈が動いた。紗奈は床に置かれていた鞄を拾い上げると、裕秋の近くに寄ってくる。
「お前、なんで勝手に決めて……」
「あの子達と、寝た方がいい?」
紗奈の言うあの子達とは、
他に選択肢も思い浮かばず、裕秋は紗奈を自分の部屋に連れて行くことにした。
「あの子達いないの?」
「いる。はずだ」
ずっと、柚子や時雨の姿を見ないのは部屋に篭っているせいか。元々、人見知りな二人が、わざわざ紗奈の前に現れるとは思えないが。
自分の部屋に入ったところで、普段は使わない扉の鍵を掛けた。紗奈と二人きりになるよりも、いきなり紗奈を柚子や時雨に会わせる方が危険だと考えた結果だ。
裕秋が扉から紗奈に視線を移すと、既に紗奈はベッドに腰を下ろしていた。しばらく、紗奈は部屋を見回していたが、最後には裕秋の方を向いた。
「アキ。高校に入って彼女は出来た?」
「俺に彼女が出来るわけないだろ」
「ふーん。それは残念」
紗奈は心にもないことを言っている。
「なあ、紗奈。どうして、今さら現れたんだ?」
「特に理由なんてない。ただ、お父さんと喧嘩して行くところがなかったから。ここに来ただけ」
紗奈が父親と喧嘩したくらいで、来るような場所ではないとわかっている。紗奈が適当な嘘をついたことがわかり、裕秋は余計に苛立ちを覚えてしまう。
「これまで、一度も連絡もしてこなかったのにか」
「アキ。怒ってる?」
「当たり前だろ」
裕秋は動き出し、紗奈の肩を掴む。そのまま紗奈をベッドに押し倒したのは、決して彼女の体を求めてわけじゃない。
「お前のせいで、俺は……」
もし、自分の人生が狂ったとしたら。
紗奈にすべての原因があった。
「責任。とってあげようか?」
紗奈の腕が裕秋の首に掛かる。そのまま裕秋の体は紗奈に引き寄せられ、二人の距離が縮まろうとした。
しかし、そのタイミングで扉の鍵が引っかかる音が聞こえた。廊下にいる人物は、扉に鍵が掛かっているとは想定してなかったのだろう。
「紗奈。余計なこと言ったら、追い出すからな」
「はいはい。わかってる」
裕秋は紗奈の腕を引き離して、部屋の扉に歩いて行く。扉の鍵を外そうと手に掛けた時、紗奈が寝返りをしているのが目に入ったが、気にせずに扉を開けた。
「時雨、どうした?」
そこに立っていたのは、時雨だった。
「お兄。話があるんだけど」
別に後で話せばいい。そう裕秋は思ったが、時雨がわざわざ部屋に来たのは急ぎの用事だったのか。
部屋から廊下に出て、扉を閉める。廊下を少しだけ歩き、時雨の部屋に近い方で話すことになった。
「お兄。あの人、誰なの?」
母親が紗奈のことを話していると思ったが、どうやら時雨は何も聞かされていないようだった。
「いとこだよ」
「それって……」
「父さんの妹。その娘だ」
現在。父親の親戚関係は、母親のせいで最悪の状態になってしまっている。元々、母親が変わり者なせいもあるが、母親と結婚したことをよく思わない人間ばかりだった。
その中でも紗奈は、母親に懐いている数少ない父親側の親戚だと言える。昔、家に来た時は、もう少し明るい雰囲気があったが、今の紗奈はまるで、笑顔を塗り潰した、人形のようだった。
「お姉には、仲良くさせた方がいい?」
「いや。お前達は紗奈には関わるな」
紗奈は、柚子よりも時雨が一番関わってはいけない人間だった。本来なら、顔を合わせることも避けたいほどだが、あの様子だと紗奈の方が妹達に関わる気は無さそうだったが。
「あの人、何かあるの?」
「紗奈は……少し変わってるんだ」
母親の方が何倍も変人ではあるが、紗奈は人間として何かが欠けている。それは再会後に、改めて確認をしたことでもあった。
「ふーん。まあ、いいか」
時雨は部屋に戻ろうと、扉に手を掛けた。
「それだけか?」
「それだけだよ」
その程度のことなら母親から聞けばよかったはずだ。なのに何故、時雨はわざわざ部屋に来て質問をしたのか。
「時雨。お前、なんか怒ってないか?」
「ボクが怒ってると思う?」
怒りの感情。時雨に無いとは思わないが、滅多に見られるものではない。喜びの感情すら、時雨は隠すのが上手く、裕秋は確信を得られない。
「文句があるなら言ってくれ」
「文句?ああ。お兄、最近またお姉のことほったらかしてるよね」
「ほったらかしてるわけじゃない。ただ、柚子の方が俺の事を避けてるんだ」
風邪が治った頃からか、柚子が近寄って来なくなった。最初は風邪をうつされたくないからかと裕秋も思っていたが、時雨が自分の部屋に居る間も柚子は姿を見せなかった。
「お姉が……?」
時雨も予想外だったのか、難しい顔をする。
「柚子、何かあったのか?」
「うーん。最近機嫌が悪いような気はするけど……」
柚子の気に触るようなことをした覚えはない。時雨が言うように柚子の機嫌が悪いのは紗奈が来る前からで、原因を突き止めるのは難しい。
「ちょっと柚子と二人で話をさせてくれないか?」
「わかった。ボクは待ってる」
時雨が一階に向かったことを確認すると、裕秋は柚子の部屋に続く扉を開けた。
部屋は夕暮れに染まっている。まだ明かりをつけなくても、部屋の全体は把握は出来る。その中で布団が膨らんでいるベッドまで裕秋は歩みを進めた。
「柚子」
名前を呼ぶと、それは動いていた。ただ、眠っているのか確かめる為に、布団の上から軽く触ってみることにした。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
柚子の声は確かに聞こえている。なのに、どこか弱々しく聞こえ、慎重になってしまう。
「私と時雨。どっちが好き?」
絶対に柚子の口から聞くことのないと思っていた言葉。
それを聞かされ、裕秋は動揺した。柚子が時雨と何かを比べることはあっても、どちらかを兄に選ばせるようなことはしないはずだった。
明らかな柚子の考え方の変化。まだ成長途中である柚子にとっては、当たり前の出来事であるが。裕秋にはまるで、別人の言葉を聞いているようだった。
「二人とも好きだ」
「じゃあ。どっちの方がもっと好き?」
この返答を間違ってはいけない。
例え、ここで柚子と答え、柚子だけを満足させたところで。時雨に合わせる顔が無くなってしまう。
「俺は、柚子と時雨。同じくらい好きだ」
「でも、お兄ちゃん時雨とばっかり仲良くしてる」
「それは……」
柚子が好きだから、遠ざけたいなんて馬鹿げた話だった。もし、柚子に本当の気持ちを伝えてしまったら、柚子が受け入れてしまう可能性があった。
「私、お兄ちゃんに嫌われるようなことした?」
「お前は何も悪くない」
その言葉を裕秋が口にした瞬間、布団が大きく動いた。中から姿を見せた柚子は裕秋の胸に向かって頭突きをする。
「じゃあ、誰が悪いの!」
「悪いのは俺なんだよ」
そっと、裕秋は柚子の肩を掴んだ。
「わかんない。私には、お兄ちゃんがわかんないよ……」
兄の行動が理解出来ず、柚子の感情はぐちゃぐちゃになっている。兄が優しくするほど柚子は苦しむ。柚子が涙を流し、感情を発散させても、自らの頭の中だけでは答えが出せない。
「お兄ちゃん……苦しいよ……助けて……」
重ねられた拒絶が、柚子の心をボロボロに壊していた。そんな柚子がやがて抱く感情は、時雨に対する憎しみや怒り。果ては、最悪の結末か。
裕秋は柚子を泣き止ませたかった。
本当にそれだけなら、裕秋は自らを恨みはしない。
夕暮れの世界で確かに見えた、柚子の泣き顔。それを見た瞬間から裕秋の頭は一つの考えに支配されていた。
この匂いをもっと、取り込みたい。
「お兄ちゃん……んっ」
裕秋は、柚子の唇を奪った。
欲望に塗りたくられた、最悪な口付けで。
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