第10話。楠木紗奈

 裕秋ひろあきが風邪を引いた日から、二週間が過ぎようとしていた頃。崩していた体調も元に戻ったが、今日は母親から聞いた親戚が家に来る日だった。


 玄関の扉が開く音が聞こえ、裕秋は一階に行くことにした。母親と誰かの話し声が聞こえたが、すぐに裕秋は相手の正体に気づいた。


 数年ぶりに再会した彼女は昔と変わっていた。


 頭の後ろで結ばれた黒い髪。暗い表情と化粧をした顔。不思議と彼女が美人であることは、すぐに理解出来た。


「アキ。久しぶり」


 昔よりも近寄り難い雰囲気があったが、その言葉に棘はない。まるで、お互いの関係はあの日から何も変わっていないかのように。


「紗奈……」


 楠木くすき 紗奈さな


 紗奈には聞きたいことがあった。しかし、母親の前で話せることではなく、裕秋はどうにかして紗奈を連れ出したかった。


「おばさん。私、アキの部屋で寝るから」


 裕秋が母親と話すよりも先に紗奈が動いた。紗奈は床に置かれていた鞄を拾い上げると、裕秋の近くに寄ってくる。


「お前、なんで勝手に決めて……」


「あの子達と、寝た方がいい?」


 紗奈の言うあの子達とは、柚子ゆず時雨しぐれのことだろう。当然、自分が断れば紗奈が二人のどちらかと一緒に眠ることを裕秋はわかっていた。


 他に選択肢も思い浮かばず、裕秋は紗奈を自分の部屋に連れて行くことにした。


「あの子達いないの?」


「いる。はずだ」


 ずっと、柚子や時雨の姿を見ないのは部屋に篭っているせいか。元々、人見知りな二人が、わざわざ紗奈の前に現れるとは思えないが。


 自分の部屋に入ったところで、普段は使わない扉の鍵を掛けた。紗奈と二人きりになるよりも、いきなり紗奈を柚子や時雨に会わせる方が危険だと考えた結果だ。


 裕秋が扉から紗奈に視線を移すと、既に紗奈はベッドに腰を下ろしていた。しばらく、紗奈は部屋を見回していたが、最後には裕秋の方を向いた。


「アキ。高校に入って彼女は出来た?」


「俺に彼女が出来るわけないだろ」


「ふーん。それは残念」


 紗奈は心にもないことを言っている。


「なあ、紗奈。どうして、今さら現れたんだ?」


「特に理由なんてない。ただ、お父さんと喧嘩して行くところがなかったから。ここに来ただけ」


 紗奈が父親と喧嘩したくらいで、来るような場所ではないとわかっている。紗奈が適当な嘘をついたことがわかり、裕秋は余計に苛立ちを覚えてしまう。


「これまで、一度も連絡もしてこなかったのにか」


「アキ。怒ってる?」


「当たり前だろ」


 裕秋は動き出し、紗奈の肩を掴む。そのまま紗奈をベッドに押し倒したのは、決して彼女の体を求めてわけじゃない。


「お前のせいで、俺は……」


 もし、自分の人生が狂ったとしたら。


 紗奈にすべての原因があった。


「責任。とってあげようか?」


 紗奈の腕が裕秋の首に掛かる。そのまま裕秋の体は紗奈に引き寄せられ、二人の距離が縮まろうとした。


 しかし、そのタイミングで扉の鍵が引っかかる音が聞こえた。廊下にいる人物は、扉に鍵が掛かっているとは想定してなかったのだろう。


「紗奈。余計なこと言ったら、追い出すからな」


「はいはい。わかってる」


 裕秋は紗奈の腕を引き離して、部屋の扉に歩いて行く。扉の鍵を外そうと手に掛けた時、紗奈が寝返りをしているのが目に入ったが、気にせずに扉を開けた。


「時雨、どうした?」


 そこに立っていたのは、時雨だった。


「お兄。話があるんだけど」


 別に後で話せばいい。そう裕秋は思ったが、時雨がわざわざ部屋に来たのは急ぎの用事だったのか。


 部屋から廊下に出て、扉を閉める。廊下を少しだけ歩き、時雨の部屋に近い方で話すことになった。


「お兄。あの人、誰なの?」


 母親が紗奈のことを話していると思ったが、どうやら時雨は何も聞かされていないようだった。


「いとこだよ」


「それって……」


「父さんの妹。その娘だ」


 現在。父親の親戚関係は、母親のせいで最悪の状態になってしまっている。元々、母親が変わり者なせいもあるが、母親と結婚したことをよく思わない人間ばかりだった。


 その中でも紗奈は、母親に懐いている数少ない父親側の親戚だと言える。昔、家に来た時は、もう少し明るい雰囲気があったが、今の紗奈はまるで、笑顔を塗り潰した、人形のようだった。


「お姉には、仲良くさせた方がいい?」


「いや。お前達は紗奈には関わるな」


 紗奈は、柚子よりも時雨が一番関わってはいけない人間だった。本来なら、顔を合わせることも避けたいほどだが、あの様子だと紗奈の方が妹達に関わる気は無さそうだったが。


「あの人、何かあるの?」


「紗奈は……少し変わってるんだ」


 母親の方が何倍も変人ではあるが、紗奈は人間として何かが欠けている。それは再会後に、改めて確認をしたことでもあった。


「ふーん。まあ、いいか」


 時雨は部屋に戻ろうと、扉に手を掛けた。


「それだけか?」


「それだけだよ」


 その程度のことなら母親から聞けばよかったはずだ。なのに何故、時雨はわざわざ部屋に来て質問をしたのか。


「時雨。お前、なんか怒ってないか?」


「ボクが怒ってると思う?」


 怒りの感情。時雨に無いとは思わないが、滅多に見られるものではない。喜びの感情すら、時雨は隠すのが上手く、裕秋は確信を得られない。


「文句があるなら言ってくれ」


「文句?ああ。お兄、最近またお姉のことほったらかしてるよね」


「ほったらかしてるわけじゃない。ただ、柚子の方が俺の事を避けてるんだ」


 風邪が治った頃からか、柚子が近寄って来なくなった。最初は風邪をうつされたくないからかと裕秋も思っていたが、時雨が自分の部屋に居る間も柚子は姿を見せなかった。


「お姉が……?」


 時雨も予想外だったのか、難しい顔をする。


「柚子、何かあったのか?」


「うーん。最近機嫌が悪いような気はするけど……」


 柚子の気に触るようなことをした覚えはない。時雨が言うように柚子の機嫌が悪いのは紗奈が来る前からで、原因を突き止めるのは難しい。


「ちょっと柚子と二人で話をさせてくれないか?」


「わかった。ボクは待ってる」


 時雨が一階に向かったことを確認すると、裕秋は柚子の部屋に続く扉を開けた。


 部屋は夕暮れに染まっている。まだ明かりをつけなくても、部屋の全体は把握は出来る。その中で布団が膨らんでいるベッドまで裕秋は歩みを進めた。


「柚子」


 名前を呼ぶと、それは動いていた。ただ、眠っているのか確かめる為に、布団の上から軽く触ってみることにした。


「お兄ちゃん」


「どうした?」


 柚子の声は確かに聞こえている。なのに、どこか弱々しく聞こえ、慎重になってしまう。


「私と時雨。どっちが好き?」


 絶対に柚子の口から聞くことのないと思っていた言葉。


 それを聞かされ、裕秋は動揺した。柚子が時雨と何かを比べることはあっても、どちらかを兄に選ばせるようなことはしないはずだった。


 明らかな柚子の考え方の変化。まだ成長途中である柚子にとっては、当たり前の出来事であるが。裕秋にはまるで、別人の言葉を聞いているようだった。


「二人とも好きだ」


「じゃあ。どっちの方がもっと好き?」


 この返答を間違ってはいけない。


 例え、ここで柚子と答え、柚子だけを満足させたところで。時雨に合わせる顔が無くなってしまう。


「俺は、柚子と時雨。同じくらい好きだ」


「でも、お兄ちゃん時雨とばっかり仲良くしてる」


「それは……」


 柚子が好きだから、遠ざけたいなんて馬鹿げた話だった。もし、柚子に本当の気持ちを伝えてしまったら、柚子が受け入れてしまう可能性があった。


「私、お兄ちゃんに嫌われるようなことした?」


「お前は何も悪くない」


 その言葉を裕秋が口にした瞬間、布団が大きく動いた。中から姿を見せた柚子は裕秋の胸に向かって頭突きをする。


「じゃあ、誰が悪いの!」


「悪いのは俺なんだよ」


 そっと、裕秋は柚子の肩を掴んだ。


「わかんない。私には、お兄ちゃんがわかんないよ……」


 兄の行動が理解出来ず、柚子の感情はぐちゃぐちゃになっている。兄が優しくするほど柚子は苦しむ。柚子が涙を流し、感情を発散させても、自らの頭の中だけでは答えが出せない。


「お兄ちゃん……苦しいよ……助けて……」


 重ねられた拒絶が、柚子の心をボロボロに壊していた。そんな柚子がやがて抱く感情は、時雨に対する憎しみや怒り。果ては、最悪の結末か。


 裕秋は柚子を泣き止ませたかった。


 本当にそれだけなら、裕秋は自らを恨みはしない。


 夕暮れの世界で確かに見えた、柚子の泣き顔。それを見た瞬間から裕秋の頭は一つの考えに支配されていた。


 この匂いをもっと、取り込みたい。


「お兄ちゃん……んっ」


 裕秋は、柚子の唇を奪った。


 欲望に塗りたくられた、最悪な口付けで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る