第9話。裕秋の風邪

「頭痛い……」


 月曜日の朝。目覚まし時計の鳴る音で裕秋ひろあきは目を覚ましたが、酷い頭痛と満たされた気だるさが体の異常を知らせていた。


 気分が悪い。その感覚が、意識を奪う。再び裕秋が深い眠りについたのは、自分の意思に反したものだった。


「裕秋」


 次に裕秋の意識が戻った時、顔を覗き込む母親の顔が目の前にあった。母親の顔は、不気味な笑顔で満たされている。


「どーして、朝ごはんを食べに来ないの?」


「気分が悪いんだよ……」


 母親の手が裕秋のひたいに触れる。


「あら、熱があるわ」


「わかってる……」


「病院に連れて行ってあげようか?」


「いや、薬でいい……」


 柚子ゆず時雨しぐれが風邪を引いた時は母親が病院に連れて行っている。しかし、裕秋は薬を飲んで済ませることが多かった。


「それじゃあ、持ってくる」


「母さん」


「なーに?」


「柚子は、大丈夫なのか……」


 この風邪の原因が昨日、水を被ったせいだと分かっていた。柚子も同じように水を浴びており、風邪を引いた可能性を疑った。


「あの子は相変わらず元気よ」


「そうか……」


 母親が部屋から出て行ったところで、裕秋は天井を眺めていた。何もしていないと、よくない考えばかり浮かぶのは悪い癖だった。


 今だけは元通りの生活に戻れると思っていた。なのに、昨日。柚子の体を目にした時から、溢れる欲望が裕秋の心を蝕んでいた。


「裕秋」


 名前を呼ばれるまで随分と時間がかかった。体を起こして、薬を飲もうと思ったが、母親が何か持っていた。


「お粥。作ってあげたわよ」


「……」


 母親は、二人きりの時はよく喋る。柚子や時雨には言っていないが、母親は自分の子供を怯えさせたくないから、あまり口を開かないと言っていた。


 怯える。なんて、冗談だと思った時もある。しかし、柚子も時雨も、母親のことが好きでも。読み取れない、母親の表情が苦手らしい。


「なあ、母さん……」


 きっと、弱っていたせいだ。


「俺は、どうしたら……」


 母親に悩みを相談しようとするなんて馬鹿だった。それを自覚して、自分が何も言えなくなっていると、母親がわざとらしく、手を叩いて閃いたような顔をする。


「あーお粥。食べさせてほしいの?」


「普通に違うだろ……」


 否定したのに、母親はお粥をスプーンで差し出してくる。それが嫌で腕を動かそうとすれば、関節の痛みに止められる。


「ねー裕秋」


 一口食べたところで、母親と目が合う。


「柚子のこと愛してないの?」


「どういう意味だ……」


 家族として、柚子のことは愛している。きっと、その気持ちだけは間違いないと思っていたのに。母親に改めて聞かれると、わからなくなってしまう。


「愛してる?」


「……」


 母親の二つ瞳が、瞬きもせずに裕秋を見ている。


「俺は、柚子のことを愛してない」


 もし、本当に柚子のこと愛しているなら。相手のことを何も考えず、自分の欲望に従って襲ったりはしない。


「ふーん」


 母親は、瞬きを数回繰り返し。再び、お粥を乗せたスプーンを差し出してくる。


 今度はハッキリと味が分かる。母親が自分の為に作ってくれた料理。この味だけはハッキリと愛を感じる熱量を持っていた。


 なのに。


「裕秋」


 お粥を半分くらい、食べたところで母親がもう一度口を開いた。


 ああ。これはよくない顔だと。


 裕秋はすぐに気づいた。


「今度、家に──ちゃんが泊まりに来るから」


「……っ」


 母親の言葉を聞いて、体に異変を感じた。


 喉を込み上げるモノ。咄嗟に口元を押さえたが、間に合わない。先程まで食べ物だったものが、無惨に吐き出されていく。


 鼻を刺激する酸味のある臭い。ベタベタに汚れた手。すぐに母親が片付けてくれるが、母親の顔から笑顔は失われていなかった。


「やっぱり。そういう反応なのね」


「わかってて、言ったのか……」


「だって。面白そうだったから」


 裕秋は知っている。


 母親の頭は大事なネジが数本足りていない。


 それが本性なのか演技なのかはわからないが。少なくとも、母親の愛だけは本物だ。ただ、悪い冗談に関しては、家族の誰もが顔をしかめる程に酷い。


 だからか、今さら母親のやることに一々感情を荒立てたりしない。母親が、自分の母親である事実は何があっても変わらないのだから、慣れるしかない。


「もういい、出て行ってくれ」


「はーい」


 部屋から出て行こうとする母親は、最後に裕秋に顔を向ける。


「裕秋。嫌なら、断ってあげる」


 母親は選べない選択肢を与えたりはしない。きっと本気で拒絶をすれば、母親が断ってくれる。


「……」


「答えなさい」


「別に。勝手にしてくれ……」


 しかし、大鳳裕秋は絶対に断らない。


「はーい。勝手にしまーす」


 例え、その名前を聞いて吐くほど拒絶をしたとしても。母親に心配されようとも。裕秋にとっては逃れられない運命だったのだから。




 風邪が長引き、翌日も体の熱が下がらなかった。


 柚子と時雨。絶対に二人を部屋に入れないように母親に頼んでいる。風邪をうつしてしまえば、自分よりも悪化すると裕秋は理解していた。


 次に裕秋が眠りから目を覚ましたのは、扉をノックされた時だった。何も言わずに黙っていれば、扉が勝手に開かれた。


「裕秋くん。大丈夫?」


「なんで、お前が……」


 部屋に入ってきたのは理沙だった。


「柚子ちゃんから風邪だって聞いたから」


「お前……どういうつもりだ?」


「柚子ちゃんにお見舞いを頼まれたの」


 柚子には理沙と喧嘩をしたことは一切話していない。兄を心配しての行動だとしても、最悪な状況だった。


「そうだ。体とか拭いてあげようか?」


 理沙は笑顔を見せている。冗談で言っているようには見えないが、まともなことを言っているようにも聞こえない。


「いい加減に……」


 裕秋が体を起こすと、理沙がベットに座り込んでくる。学校からそのまま家に来たのか、理沙はまだ制服を着ており、汗をかいていることもわかった。


 心の中に芽生えた一つ感覚。裕秋にとって、理沙に対する感情はハッキリとしていた。理沙は受け入れられない他人。突き放して、目の前から消えて欲しいと願う程の相手。


 ならば、自分の罪を証明する為に嫌われたって構わないと思えた。鉛のように重たい腕を上げ、その無防備な理沙の背中に手を伸ばした。


「裕秋くん……?」


 裕秋は理沙を後ろから抱きしめる。


「ちょっ、なに。どうしたの?」


 鼻を通り抜ける理沙の匂い。服の上からでもわかる理沙のか細い体。そして、理沙に触れているという状況が、人間として求める感覚を呼び起こす。


 叫び声でも上げられるかと思ったが、理沙は黙ったまま何も言わない。裕秋の行動はエスカレートするように、服の上から理沙の体に手を触れ、感触を確かめた。


 それが、柚子の持っているモノと違うことは見た目でもわかっていた。しかし、裕秋が感じ取っている感情はあまりにも酷であり、同時に耐え難い虚しさに満たされてしまう。


「……」


 それ以上、先には行かなかった。強烈な熱のせいなのか、気だるさに満たされた裕秋の体は、理沙に寄りかかったまま、重みに負けていく。


 理沙に対して、裕秋が性的欲求を感じることはなかった。


 例え、理沙のことが好きでなくとも、この状況なら、少しは感情の抑制が効かなくなると裕秋は思い込んでいた。


 しかし、実際に味わったのは虚無感だった。理沙に対して何も感じず。自らの行為が愚かであると後悔をするばかりだった。


「裕秋くん、何かあったの?」


 理沙は特に変わった様子もなく、言葉を口にする。


「……何も、無い」


「悩みなら、聞いてあげるよ?」


 底なしの馬鹿なのか、それとも理沙の優しなのか分からないが。今は平気な顔をされる方が裕秋にとっては辛かった。


「もう、帰ってくれ」


 裕秋は理沙の背中から離れ、顔を伏せた。


 自分を責めることすらバカバカしい。理沙にやったことは変わらない。もう二度と理沙と話せなくなったとしても、今さら関係の修復をするつもりはなかった。


「やっぱり。私じゃ、ダメみたいだね」


 そんな言葉を残して、理沙は部屋を出て行った。

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