第8話。裕秋の日曜

 日曜日。青空の見える駐車場。


「お兄ちゃん、早く行こうよー」


「わかったから、待ってくれ……」


 それは今朝の出来事だった。ぐうたら眠っていた裕秋ひろあきを夢の世界から現実に呼び起こしたのは、ベッドに飛び込んできた柚子ゆずだった。


 柚子の笑顔は、いつもよりも一段と明るく見えた。その顔を見て裕秋は嫌な予感がしていたが、すぐに母親が部屋に入って来た。


 母親から告げられたのは、突然の家族サービスだった。


 行き先は水族館。おそらく子供達が喜ぶと考えて母親が選んだのだろう。遊園地では柚子が楽しめず、動物園は時雨しぐれがいい顔をしない。


 裕秋はあまり乗り気ではなかったが、母親だけではなく父親からも誘われた。父親の言い方からして、頼み事。という方が近い。


 その時から裕秋は薄々感ずいていたが。目的地に着くなり、両親は子供達を残し、二人で何処かに行ってしまった。


 そして、現在。裕秋は柚子と時雨を引き連れて水族館に向かっていた。


「おい、柚子。勝手に行くな」


「まったく……お姉は……」


「時雨。ほら」


 裕秋が手を差し出せば、時雨が握る。


「あー!」


 結構離れたように見えた柚子だったが。何やら声を上げながら、走って戻ってくる。


「お兄ちゃん、私も繋ぐー!」


「わかったよ」


 裕秋は柚子と時雨の手を握って歩き出す。


 日曜日と言うこともあってか、家族連れの姿もちらほらと見かける。それほど水族館が家族揃って楽しめるような場所だとは思えないが、子供にとっては好奇心を刺激する場所なのかもしれない。


 建物に入ってからも相変わらず、行く先々で子供の姿も見かけた。一度はぐれてしまうと大変なことになりそうだと裕秋は考えた。


「時雨。柚子が迷子にならないように頼む」


「私、迷わないよ!」


 過去に遊園地や動物園に行った時。ものの数分で柚子が迷子になったことを裕秋は忘れない。逆に時雨は基本的に裕秋の傍から離れず、迷子になったことはなかった。


「だったら、手は離すなよ」


「はーい!あ、お兄ちゃんアレ!」


 走り出そうとした柚子が繋いでいた手に引っ張られる。体勢を崩した柚子が倒れないように裕秋は柚子を引っ張りあげた。


「お前なぁ……」


 呆れるよりも先に柚子の行動力に感心する。


「手は離してないよ!」


「そういう問題じゃない」


 また柚子が走り出す前に、お目当ての水槽に向かうことにした。先を急ごうとする柚子と、傍をピッタリと歩いている時雨。もし、二人揃って駆け回っていたら、裕秋の苦労も倍になっていた。


 水槽の前まで来れば、柚子の手を離した。勝手に次に行かないようには言っているが、少し離れたところで見張っていた方がよさそうだ。


「時雨。お前は見ないのか?」


「魚なんて見ても楽しくない」


 時雨は柚子に比べて、冷めている。


 目立った趣味はなく、物事に関心も抱かない。それは以前から変わらず、例え何があっても時雨の考え方は変化を見せない。


 兄として、後何年二人を見守れるのだろうか。


 なんだかんだ柚子は自分の決めた道を信じて進むことが出来る。持ち前の明るさと行動力があれば、苦労することがあっても立ち止まらずにいられる。


 時雨の方は、まだ個性が現れていないだけだと思いたい。まだ自分が見つけられていない物を、子供の時雨に求めるのは酷というものだった。


「時雨。お前、好きな物はないのか?」


「お兄」


「答えが柚子と同じだぞ」


「知ってる」


 言葉を返しながら、時雨は柚子に近づいていく。時雨が隣に来たところで、柚子が時雨の手を引っ張り少し離れた場所に歩いて行った。


「まぁ、確かに。泳ぐ魚を見て何が楽しいんだろうな……」


 裕秋の考えは、時雨と近い。けれども、時雨とは明確に違っている部分も存在している。


 無邪気にはしゃいでいる柚子を見た時、裕秋は少しだけ笑えた気がした。少なくとも裕秋は、家族に対して関心がないわけじゃなかった。


 その感情の正体が、どれだけ歪だとしても。


「お兄ちゃん!」


 戻って来た柚子はチラシのような物を持っていた。


「もうすぐイルカショーがあるんだって」


「見たいのか?」


「うん、見たい!」


 イルカショーなら時雨も楽しめるかもしれない。そう思い、裕秋は二人をイルカショーの見られる場所に連れて行くとにした。


「おい、柚子。何処に座るつもりだ」


 柚子に引っ張られ最前列に座ってしまったが、時雨は呆れていた。このイルカショーを裕秋が初めて見たのは、ずっと昔のこと。しかし、昔と変わらなければ、確実に水を被ることになる。


 時雨は気づいていたのだろう。けれども、一人だけ後ろの席に行かないのは、空気を読んでのことだった。


 左に柚子、右に時雨。そして、真ん中には裕秋が座る。


「お兄ちゃん」


 柚子が裕秋の手に触れる。


「どうした?」


「手を握って」


「……わかった」


 裕秋は柚子の手を握り返す。しかし、柚子の表情や体は恐怖を示してはいない。おそらく、ほとんど意味なんてなかったのだ。


 それでも、これから起きることに柚子は期待をしながらも不安もあったのだろう。目の前で起きることは、全部現実なのだから。


「時雨」


 裕秋は時雨の手を掴もうとしたが、時雨は手を差し出さない。子供扱いをしてほしくないのか、時雨は何も言わずに黙っていた。


 イルカショーが始まった時には、柚子がはしゃいでいた。周りの観客の声もあり、わざわざ柚子を静かにさせる必要もない。


 裕秋は視線を、時雨に向ける。時雨は動くイルカを見てはいるようだが、表情は変わらない。つまらなそうな顔。どうして、そんな顔をしているのだろうか。


「……っ」


 しばらく経った後、イルカが大きく飛んだ時に大きな水しぶきが起きた。それが予定されていたことなのか、偶然なのか分からないが、裕秋の体は動いていた。


「お兄ちゃん……」


「あ……」


 裕秋の腕の中には時雨がいた。元々、時雨を見ていたこともあり、咄嗟に裕秋が庇ったのが時雨だった。


 つまりは、反対側にいた柚子がモロに水を浴びてしまったということ。裕秋も濡れていたが、少なくとも時雨だけは、ほとんど浴びてはいなかった。


「大丈夫か、柚子」


 柚子の顔についた水を拭う。


「口の中に入った……」


 明らかに柚子のテンションが下がっていた。


「時雨」


 カバンに入れていた財布を時雨に渡した。


「これでタオル買ってきてくれないか?」


「うん。わかった」


 裕秋は濡れている柚子を抱き上げた。


「柚子は近くのトイレに連れて行く」


 濡れている服くらいは絞った方がいいかもしれない。しかし、こんなところで柚子の服を脱がせる訳にもいかず、トイレに連れていくことにした。


「誰も居ないか……」


 トイレまで柚子を連れて行くと、念の為に人が居ないことを確かめた。誰かに注意される可能性もあったが、柚子を洗面台に座らせた。


「服、脱げるだろ」


 裕秋は自分の服を脱ごうとしたが、柚子が両手を伸ばしてくる。


「お兄ちゃん。脱ぎにくいから脱がせて」


「お前なぁ……」


 いつもなら柚子を説得するが。今はゆっくりしている余裕はない。柚子の服を掴み、そのまま脱がせた。


「……っ」


 最後に柚子の裸を見たのはいつだったか。


 思いがけない光景。服を脱いだ柚子の体は、幼さを残しながらも、確かな成長をしている。触って感触を確かめたくなるのは、裕秋が本当に柚子を求めていたせいだったのか。


「お兄ちゃん?」


 裕秋は理性の枷が外れそうになっていた。柚子の体に触れることを望み、恐れ、そして、酷く拒絶する。


 外から聞こえてくる雑音が、裕秋の理性を正常に作用させる。こんなところで狂うわけにはいかないと、裕秋は何度も自分の心の中で言い聞かせる。


「柚子……胸くらい隠してくれ」


「どうして?」


「いいから、隠せ」


 柚子は腕で胸を隠す。その間に、柚子の服を絞り、なんとか着れるようにはする。ただ体の方をを拭かなければ同じことだ。


「お兄」


 声をかけられ、裕秋が振り返ると時雨が立っていた。時雨からタオルの入った袋を渡された。


「時雨、母さんに電話してくれないか」


「わかった」


 いくら水を絞ったと言っても、このままでは柚子が風邪をひく。今日のところは家に連れて帰った方がいいだろう。


「ねぇ、お兄ちゃん」


「何かあったのか?」


「どうして、時雨のこと助けたの?」


 その言葉に裕秋よりも、時雨が反応をしていた。


 さっき、柚子の機嫌が悪くなった理由が今になってわかった。イルカショーで濡れたこと自体に柚子は怒ったりしていない。


 問題なのは、兄が時雨を庇ったということ。


「お前と違って、時雨は体が弱いからな」


 それは本当の話だ。ただ、風邪をひきやすいのは柚子も同じ。時雨だけを庇う理由として、弱い気がした。


「そうなんだ」


 柚子の返答を聞いて、時雨は安心したのか。ケータイを持ってトイレから出て行った。何も問題がなければ、時雨の電話で両親が迎えに来てくれるだろう。


「お兄ちゃん」


 いつもと変わらない柚子。


「私、お兄ちゃんのこと好きだよ」


 いや、今日の柚子は少しだけ。


 怒っていたのかもしれない。

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