第5話。裕秋の当惑

 風呂場。


 裕秋ひろあき時雨しぐれと風呂に入ったのは、何年も前のことだった。その時は柚子ゆずも一緒にいたが、今は時雨しかいない。


「……」


 床に座っている時雨を、裕秋は椅子に座りながら見下ろしている。ちょうど、裕秋からは時雨の頭上が見えている。


「相変わらず小さいな」


「ボクくらいが普通だよ」


「そうなのか」


 シャワーを手に取り、時雨の頭に浴びせる。なるべく顔にかけなようにしながら、全体的に髪が濡れるようにする。


「お兄、ボクのシャンプーそれでいいから」


「これ、俺達が使ってるシャンプーだぞ?」


「別に。ボクはどっちでもいい」


 複数ある染髪剤の中でも、時雨が指さしたのは家の男達が使ってる方だった。香りよりも、汗の臭いを予防する為のものであり、実際は普通の染髪剤よりも値が張る。


「どっちでもいいなら、時雨はこっちだな」


 柚子達の使っているシャンプーを時雨の頭に垂らした。指に髪を絡めながら、泡立て、時雨の髪を洗っていく。昔はよく時雨達の髪を洗っていたが、柚子とは違い時雨はおとなしくて楽だった。


「なぁ、時雨」


「なに?」


「萌絵と喧嘩してるのか」


 絶対に時雨が逃げられない状況で質問をするのはズルい気がした。ただ、今聞かなければ、今日はもう二人きりで話すことは出来ないだろう。


「喧嘩って程じゃない」


「そうなのか?」


「ちょっと、ボクが言い過ぎただけ」


 それは時雨が感情的になったということか。時雨が冷静でいられない状況は考えにくいが、一方的に時雨が萌絵を責めただけの可能性もある。


「何があったんだ?」


「萌絵が悪ふざけで……お姉の髪を引っ張った」


「それを柚子は怒ったのか?」


「ううん。お姉は笑ってたけど、ボクは萌絵を突き飛ばした」


 もし、同じ光景を見ていたら。時雨と同じように萌絵を攻撃していたかもしれない。柚子にしてみれば些細なことでも、周りの人間は本人よりも不快な思いをする。


「お前にとって、柚子は……」


「お姉がどうしたの?」


「どんな存在なんだ?」


「大切な家族だよ」


 時雨はハッキリと口にした。自分と同じ感覚を今の時雨は持ってはいない。だからこそ、裕秋の苦しみを時雨は理解出来ないのだろう。


「お兄。僕にとって、お姉はお姉だし。お兄はお兄だよ。何をされても、僕がお兄のこと嫌いになれないのは、そんなこと気にならないくらい。お兄が大好きだからだよ」


「時雨……」


 裕秋は時雨を後ろから抱きしめる。


 不純な動機なんてなかった。ただ、時雨の優しさが、余計に胸の苦しみを増幅させ。裕秋は助けを求めるように、時雨に甘えてしまった。


「きっと。お姉も受け入れてくれるよ……」


 不意に、時雨が顔を動かした。


「っ!お兄、離れ──」


 時雨が言葉を口にするよりも早く、風呂場の扉は勢いよく開かれる。扉の向こうには、柚子が立っていた。


「どうして、二人が一緒に入ってるの?」


 遅かれ早かれ、柚子には気づかれることはわかっていた。しかし、タイミング悪く、今の状況は誰にとっても望ましくないものだった。


「お前には関係ないだろ」


 柚子が怒れば時雨は強く出れない。黙り込む時雨の代わりに、裕秋が柚子と直接話すことになった。


「関係ないって、なに?」


 いくら柚子に威嚇されようとも裕秋は、一切怯まない。それは柚子が妹だからではなく、子犬がいくら吠えたところで、恐怖を感じることがないからだ。


「いいか、柚子。この際、ハッキリさせておく」


「何を?」


「俺は……お前が嫌いだ」


 一番伝えたい言葉ほど、何処かに消えてしまう。


 時雨に言われながらも、裕秋は柚子のことを信じることが出来なかった。柚子を突き放すことで、柚子を守れると勝手に思い込んでしまった。


「お兄ちゃん。嘘が下手くそだね」


 柚子はゆっくりと、風呂場から離れて行った。適当な言葉で柚子を騙そうとしても、見抜かれてしまう。柚子には曖昧な嘘が通用しない。


「ボク。お姉のアレが苦手」


 柚子の姿が見えなくなったところで時雨が口にした言葉。時雨が柚子を恐れる理由であり、裕秋が知らない妹の在り方だった。


 しかし、柚子は嘘を見抜くことは出来ても、感情の理解はまだ出来ていない。おそらく、柚子がこれから抱える疑問は、多くの感情を知らなければ到達出来はしないだろう。


「時雨も、俺の嘘が見抜けるのか?」


「お姉ほどハッキリはわからないよ。ボクは少なくとも、さっきお兄が、半分くらいは本当のことを言ったように見えた」


「本当のこと、か……」


 柚子と時雨は大切な家族だ。


 二人を鬱陶しいと思ったことはあっても、嫌ったことは一度もない。むしろ、裕秋は二人に対して家族愛以上のモノを抱いた瞬間すらあった。


 それが今は裕秋の苦しみとして心に残り続けた。




「熱くないか?」


「うん。平気」


 風呂を出たあと、リビングでドライヤーを使って時雨の髪を乾かす。タオルを頭に被せて、直接当てずに手間をかけるのは、時雨の綺麗な髪を維持する為でもあった。


 普段は、柚子の髪は時雨が乾かしている。時雨の髪は母親が乾かしているそうだが、現在、母親はキッチン側の椅子に膝を抱えて座り、ケータイでゲームをしている。


「柚子は、今は風呂に入ってるのか……」


「ボク。お姉なら無理やりにでも一緒に入ってくると思ってた」


「あーそういえばそうだな……」


 柚子も多少は怒っていたのだろうか。


 自分だけ除け者にされた理由が、柚子にはわからないだろう。


「お兄ちゃん」


 その声と共に、背中に軽い重みを感じた。


「柚子……」


 柚子が入れ替わりで風呂に入ったことは知っているが。普段と比べて、風呂から出てくるまでかなり早いことは確かだった。


「私の髪もやってほしいな」


「なんで、俺が……」


 裕秋が言葉を告げ終わる前に、時雨に睨まれる。


「お兄。髪くらい拭いてあげなよ」


 どうして、時雨がそんなことを言うのか。


「あんまり、お姉を蔑ろにするのは嫌」


 そうだ。時雨は柚子を信用しろと言った。そんなことを言う時雨が、兄が姉を拒絶するような光景を見て何も思わないわけがない。


「時雨が終わったら、次は柚子の番だ」


「やった。お兄ちゃんありがとう」


 柚子の体がますます裕秋の背中に密着する。けれども、裕秋は柚子を気にせずに時雨の髪を乾かし続けた。


「ねぇ、時雨」


 背後から聞こえてくる柚子の声はいつもと変わらない。そもそも、柚子が時雨に対して攻撃的になるのは、一時的なことの方が多い。


「なに?」


「お兄ちゃんに、話。あるんじゃないの?」


 時雨の話。もし、大事な話なら風呂に入っている時に済ませているはずだろうし。柚子の言い方からして、少なからず柚子にも関係した話なのだろう。


「別に、お姉から話せばいいのに」


「私からだと、お兄ちゃんが信じてくれないでしょ?」


「今言ってるから同じことだよ」


「あ、そうだった」


 時雨は呆れているのか、溜息を吐いた。


「お兄。次の日曜日、暇?」


 まだ日曜日の予定は決まっていないが、よっぽど緊急でもないかぎり、柚子や時雨を優先するのは当然のことだった。


「暇だと、思う」


「そっか。なら、予定空けといて」


「何処か行きたいのか?」


「まあ、そんな感じ」


 わざわざ柚子が代わりに時雨に言わせるだけの内容だとは思えないが。時雨は行き先を口にはしなかった。


「お兄。もういいよ」


 髪の乾いた時雨は膝の上から離れ、裕秋の隣に座った。すかさず柚子が入れ替わり、膝の上に座ってきた。


「お兄ちゃん、お願い」


 普段の生活の中で、裕秋が柚子を異性として認識することはない。それは柚子が妹である前に、心身共に幼すぎる子供だからだ。


 だったら。


 あの日。何故、柚子の部屋に足を踏み入れたのか。


 その理由に裕秋は目を背け続けていた。

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