第4話。裕秋の喧嘩
「ただいま」
学校から帰宅。
「お兄ちゃん、おかえりー!」
飛び込んでくる
裕秋が部屋の扉を開ければ、そこには柚子と一緒に帰って来ていたのか。
「お兄。おかえり」
手元の漫画から目を離さずに言葉を口にする時雨。そんな時雨を見た裕秋は、担いでいた柚子を掴みなおして、時雨の上に落下させた。
「どーん!」
時雨の背中に飛び込んだ柚子は、時雨の体をまさぐるように不思議な手の動きをしていた。時雨は顔をしかめながらも、柚子を追い払うような動作は見せなかった。
昔から、柚子のやることに時雨が文句を言うことは少ない。
柚子と時雨の間には僅かな上下関係が存在しているが、それは決して踏み越えられないほど高い壁ではなく。もし、時雨が本当に嫌がっているなら兄として止めている。
それに柚子も反応の薄い時雨に飽きたのか、時雨の読んでいる漫画を一緒に読み始め。大人しくなっていた。
「さてと」
今のうちに着替えてしまおうと、裕秋は制服を脱ぎ始める。柚子や時雨が部屋にいても裸になることに抵抗はなく、二人の存在は言うなれば置物のシーサーのようなものだった。
しかし、兄として、制服を脱ぎ捨てる姿を見せるのはよくはない。そう思い、制服を椅子に掛けようとしたが、裕秋は視線を感じた。
当然、この部屋には柚子と時雨しかいない。裕秋が、二人の方に目を向ければ。こちらに顔を向けている人物が一人だけいた。
「どうした?柚子」
名前を呼べば、すぐに顔を逸らす柚子。
入れ替わるように時雨が顔を向けたと思えば。
「お兄。セクハラ」
「それは、理不尽だろ……」
柚子の視線が裕秋は妙に気になってしまい、二人に背を向けて着替えることにした。
「あ、そうだ」
ふと、裕秋は思い出したことがあった。
「柚子、最近。
今朝、
萌絵と喧嘩をしているのは時雨の方だったが、事情を探る為には柚子にも話を聞くべきだろう。時雨の反応が気になるが、下手に隠しても仕方がない。
「毎日、遊んでるよ!」
わざわざ理沙が時雨の名前を出した辺り、柚子と萌絵は喧嘩をしているわけじゃないようだ。
しかし、本当に時雨が萌絵と喧嘩をしているのなら、柚子がまったく気づかないことがあるのだろうか。
「時雨は?」
裕秋は服を着替え終わり、時雨の顔を見た。
「ボクは遊んでない」
基本的に時雨と柚子が別々に行動することはありえない。柚子が萌絵と遊んでいるなら、時雨も一緒にいるのが当然だと裕秋は考えていた。
「柚子。萌絵とは何をして遊んでいるんだ?」
「追いかけっこ!」
それを聞いて時雨が一緒に遊ばない理由が分かった。外で走り回るようなことなら、体力の無い時雨が柚子に付き合うのは難しい話だった。
ただ、それだけなら萌絵が時雨と不仲になったとは思わないだろう。喧嘩の原因はもっと別にあると考えるべきか。
直接本人から聞くにしても、柚子がいる時に聞き出せることは少ない。念の為に柚子にも確認をしたが、萌絵と喧嘩をしているのは時雨だけのようだ。
「あ、萌絵ちゃん。お兄ちゃんと遊びたいって言ってたよ」
「俺と何をして遊ぶって言うんだよ」
「知らなーい」
裕秋はベッドに腰を下ろした。すると、先程まで時雨にべったりしていた柚子が動き出し、裕秋の背中に飛びついた。
「おにいちゃん」
裕秋の耳元で囁かれる柚子の甘い声。気を抜けば脳が溶けてしまいそうな、甘えた声を柚子が出すのは大抵何か頼みごとをする時か、風邪などで精神的に弱っている時だけだった。
「今日は、私達と一緒にお風呂入ろうよ」
「なんで、お前達と入らないといけないんだ」
「だって、お兄ちゃん。昔は私達と一緒に入ってくれてたのに。最近は全然入ってくれないし」
柚子と一緒に風呂に入らなくなったのは、最近の不純な動悸とは関係ない。
早いうちから兄離れをさせる為に、二人が小学校高学年になる頃には、既に入る時間を分け始めていた。風呂もそうだが、同じ布団で寝ることが無くなったのも同じ理由だった。
「一緒に入っても、意味がないだろ」
「意味あるよ」
「どんな意味があるんだ?」
「お兄ちゃんに髪を洗ってもらえる」
満面の笑みを浮かべる柚子。柚子の感情は真っ直ぐで、曇りも見せない。けれども、動機が不十分だと感じる人間は裕秋以外にもいた。
「お姉。それだとお兄が大変なだけだよ」
「でも、たまにはいいじゃんか」
「ダメだよ。お兄と入ったら」
時雨が柚子を止めようとしている訳。それは兄に迷惑をかける。なんて、単純な理由ではなく、時雨は警戒をしているからなのか。
時雨は柚子よりも、多くの事情を知っている。兄の行動の意味も、それが柚子にどのように影響するかも。理解しているからこそ、時雨が中立として存在していられる。
しかし、何も知らない柚子は納得しないだろう。
「時雨だって、お兄ちゃんと入りたいくせに!」
「ボクは一人でも入れるけど?あーお姉はまだ子供だから、まだ一人で入れないんだ。それなら仕方ないか」
珍しく時雨が柚子を煽っていた。しかし、それも柚子のことを思ってのことだと考えれば、裕秋は納得出来た。
「じゃあ、これからは一人で入ればいいじゃんか!時雨のばーかッ!」
柚子は大声を上げながら、部屋を飛び出して行った。すぐに扉が強引に閉じられる音が聞こえ、自分の部屋に戻って行ったことがわかった。
どれだけ煽りに対する耐性がないのかと、兄として柚子のことが心配になる。けれど、煽った時雨にも問題があるように感じた。
「時雨。あれでよかったのか?」
「ボクだって、お姉とは別々に入らないといけないと思ってたし。今、お姉の髪を洗わされてるのはボクだからね」
周りからすれば微笑ましい光景に見えても、本人してみれば鬱陶しく感じることもある。時雨が柚子に逆らうことは少ないが、決して反論しないわけじゃない。
おそらく、今回のことは時雨の私情も含まれていたのだろう。兄を利用して、自らの不満を口にする。そうすることで、余分に言葉に意味を持たせることが出来る。
しかし、そうなると三人がバラバラで風呂に入ることになってしまう。何人も出入りをすれば、湯も冷め始める可能性があった。
「なぁ、時雨」
裕秋の頭に浮かんだ、一つの提案。
「たまには一緒に入るか?」
何故か、そんな言葉を裕秋は思いついた。
「そんなことしたら、お姉が余計にいじけるよ」
「まあ、それもそうか」
裕秋は本気で言ったつもりはなかった。
柚子の機嫌を確かめる為にも、裕秋は立ち上がろうとした。しかし、裕秋は服の袖を引っ張られ、中途半端に止まった。
「でも、ボクは一緒に入ってもいい」
時雨は柚子のことを思いながらも、自分の考えを優先した。一々柚子のことを気にしていたら、時雨は何も出来なくなる。だからこそ、明確な意思は持っている。
「本当にいいのか?」
「お兄は何かするつもり?」
「いや……今はそんな気分じゃない」
「じゃあ、問題ないよね」
時雨が部屋を出て行こうとした時、振り返った。
「本当はボクじゃなくて、お姉とがよかった?」
それは的外れな質問だった。
「お前だから誘ったんだ」
「ボクなら、大丈夫だと思ったから?」
「兄として、時雨を誘っただけだ」
「そっか。なら、信じるよ」
会話を終えると、時雨は出て行った。
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