第2話。裕秋の日常
「お兄。弱すぎ」
「お前達に勝てるわけないだろ……」
「次、私の番!」
負けた方が交代する。初めから決まっていたことだが、しばらく柚子と時雨にやらせて裕秋は休憩をするつもりだった。
「よいしょっと」
そこに座ることが当然のように、柚子は裕秋のあぐらをかいた片膝に座る。わざわざ柚子が片側に座ったのは、反対側に時雨を座らせる為だったのか。
「時雨、お前も座るか?」
裕秋は冗談のつもりで時雨を誘った。
「ボクはいい」
「時雨。お兄ちゃんが誘ってるんだよ」
柚子の声で時雨の体が小さく跳ねたように見えた。柚子の緊張感を纏わない無邪気な声。誰かもが恐れなんて感じない声を、時雨だけが過敏に反応を示していた。
「わかった」
時雨は返事をしながら、立ち上がる。
時雨は柚子の座っていない方の膝に腰を下ろした。兄の膝は座り心地が良いとは言えないだろうが、短時間なら問題にもならないだろう。
裕秋は二人の兄として、柚子と時雨を見分けることは簡単だった。けれども、母親の趣味で同じような髪型や服を与えられた二人は本当に間違えられやすい。
それは体重であっても似通っている。左右の脚に乗せている二人の重さを比べてみても、違いを判別することは出来ない。
「いー!」
「どうした。柚子」
「時雨が強すぎてつまんないっ!」
テレビの画面に目を向ければ、圧倒的なスコア差をつけて時雨が勝っていた。時雨は勝負に関しては手を抜かず、さっきから柚子は何度も負けていた。
「お姉。操作方法くらい覚えようよ」
「え、コントローラー振るだけじゃないの?」
操作方法も理解していない柚子に裕秋は何度か負けたことがある。
「お姉は何も知らない方がいいかもね」
「それ、どういう意味なの?」
「別に意味なんてない」
確かに柚子は頭で考えて実行するのは苦手だ。けれども、時雨の口にした言葉に別の意味が含まれているように思えた。
「時雨、もう一回やろ!」
もう一度、柚子と時雨がゲームを再開したところで。裕秋は柚子の手助けをすることにした。
このまま負け続ける柚子が可哀想だと同情する気持ちもありながら。時雨にイタズラをしたいという純粋な気持ちもあった。
ゲームに集中している時雨。裕秋は後ろから体に手を伸ばして、脇の辺り手を差し込む。異変に気づいたのか、時雨の顔が一瞬だけ動いたが、ゲームを止めることなかった。
しばらくは裕秋もテレビの画面を見ていた。けれども、時雨がゲーム内で勝利を確定させる瞬間。裕秋は時雨の脇に触れて物理的な妨害をした。
「ひゃっ!」
時雨の口から漏れる聞き慣れない声。
テレビ画面の時雨が操作しているキャラは、見たこともない挙動を起こし。その隙に柚子が逆転勝ちをしていた。
「いぇーい!私の勝ちー!」
裕秋は時雨に睨まれるが、柚子の喜ぶ顔が見られたのだから満足していた。
「ふーん。お兄は。お姉の味方するんだ」
時雨は負けたことに対する言い訳をするわけでもなく、ただ暴力的に裕秋の腕を爪で捻っていた。
「時雨さん、勘弁してください」
「いいよ。許す」
本気で掴まれていたわけでなくとも、腕には爪の痕が残っていた。時雨は邪魔されたことを多少は怒っているようだ。
裕秋は時雨を宥めようと、頭に触ってみたが余計に機嫌を損ねてしまう。柚子と同じように子供扱いするのは、時雨には逆効果だった。
「お兄ちゃん、私も!」
特に頭を撫でる理由はなかったが、柚子も時雨と同じように触る。時雨とは違い、犬のように反応をする柚子は、誰もが可愛いと感じる。
裕秋も柚子のことを愛らしいと感じていたはずだった。けれども、今は以前に比べて柚子に対する独占的な欲望は薄れていた。
「お兄ちゃん、好き」
柚子の顔が裕秋に迫る。
「柚子。どうした?」
「え?」
裕秋の言葉を聞いて、柚子は拍子抜けた顔をしていた。
「お姉?」
その状況が理解出来ないのは、裕秋だけではなかった。時雨も柚子の様子に疑問を抱き、声を掛けたが、次の瞬間には柚子が立ち上がっていた。
柚子は慌てて部屋を出て行った。すぐに部屋の外から扉の閉める音が聞こえ、柚子が自分の部屋に戻ったことがわかった。
「柚子のやつ、急にどうしたんだ?」
「さぁね。お姉の考えていることは、ボクには分からないよ」
時雨は誰もやらなくなったゲーム機を片付け始める。棚に押し込むだけの簡単なもので、作業が終われば、時雨は裕秋の膝に座り直していた。
「お兄ってさ。前はもう少し、お姉にベタベタしてたよね」
「そうだったか?」
「うん。兄妹じゃなかったら、気持ち悪いくらいには。お姉に触ったり、抱きついたりしてたと思うよ」
いくら誤魔化そうとしても、一番近くで見ている時雨には見抜かれていた。確かに柚子に対しては過剰なスキンシップを繰り返していたと、裕秋自身が理解していた。
しかし、裕秋の過剰な接触を柚子は嫌がらず。むしろ、柚子の方が裕秋にベタベタしているような状況であった。
「やっぱり、もう少し。柚子との距離感を考えた方がいいのか」
「そうかもね。ボクはともかく、お姉は女の子なんだから。あんまりベタベタしてると、後から一気に嫌われるよ」
「まあ、嫌われた方が楽そうだけどな……」
裕秋は落ち込む気分を紛らわせるように、時雨の体を抱きしめた。時雨は逃げたりしないが、不満そうな声を出していた。
「ボクは。お姉じゃないよ」
「そんなことは、わかってる」
柚子と時雨の違いを、裕秋は理解している。
今でさえ、裕秋の鼻を刺激する匂いが、二人の違いを証明していた。これは生まれた時から自分にある感覚。それは他人から特別な匂いを感じるというものだった。
その感覚で二人の匂いを表すなら。
柚子は甘い香りのネメシア。
時雨は匂いの弱い椿。
もっとよく匂いを確かめる為に、裕秋は顔を時雨の体に寄せた。けれども、それは余計なことだったのかもしれない。
「お兄は、お姉のことが好きなんじゃないの?」
時雨の言葉で、裕秋は自分の立場を思い出す。
数日前。裕秋は夜這いを行い、翌日には時雨と唇を触れ合わせた。事実として存在していたはずなのに、時雨の態度が以前と変わらない。
しかし、今の時雨は疑問を抱いている。
裕秋は、柚子と同じくらい時雨のことを愛していた。だが、それは長い間、家族として同じ時間を過ごし、得るべくして得た感情だった。
決して、人としての道を踏み外すだけの感情には成りえない。裕秋が抱えている問題は、言葉では言い表せないほど複雑であり、簡単に口することは出来なかった。
「確かに柚子のことは好きだ。でも、それは家族として好きなだけで、俺は今の以上の関係を望んでいるわけじゃない」
「ボクには、そうは見えないけど」
時雨は裕秋から離れ立ち上がった。
「ねぇ、お兄。もう一度、ボクにキスして」
「な、何を言ってるんだ?」
裕秋は動揺が顔に出ないようにしたつもりが、言葉には戸惑いがあった。時雨の発言が悪い冗談なら笑って済ませていただろう。
「お兄は、ボクとキスしても何も思わないでしょ?」
「それは……」
もし、欲望に左右されることなく時雨と唇を重ねた時。自分が何を考え、何を思うのか、裕秋は興味があった。
頭の中では危険だと理解しながらも、時雨の言葉に乗っかることを決めた。正しい認識をする為に必要なことだと考えて。
「わかった」
裕秋が返事をすると、時雨が目を閉じた。
以前とは状況が異なり、今の裕秋は平常心を保っていた。裕秋は時雨の肩を掴み、顔を近づける。
その瞬間に緊張感はなかった。
ただ、時雨の唇に自分の唇を触れさせるだけ。唇が重なり伝わる感触。時雨の唇は柔らかいが、それが特別だとは感じなかった。
「お兄。もう、いいよ」
「満足したか?」
「うん。ありがとう」
裕秋は自分が愚か者であることに気づいた。
時雨にキスをしたくらいで、ずっと何を悩んでいたのか。時雨が気にしないというのなら、裕秋が悩んだところで解決する問題は初めから存在しないのだから。
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