第2話 -Another-
周りが次々ゲームを抜けていく中、僕はそっと正面に座る彼を見る。
戸惑いを隠せていない彼は、僕よりよっぽど感情豊かだと思う。
*
ババ抜きをやらないか、とクラスメイトに誘われたのは、昼休みが始まってすぐのことだった。人数が少ないから頼むよ、と半ば押し切られる形で、僕は教室の隅で机を四つ寄せただけの即席会場に移動した。そこで頭をよぎったのは、さっき誘ってきたアイツの冷笑だった。目に見えて馬鹿にした顔。誘っておいて僕なんか眼中にない、そんな顔。
けど、その鼻を明かしたい気持ちは無かった。
周りがつけた「素直」のレッテルは、今も尚、僕の背中に張り付いて離れない。
僕は、クラスメイトから「すなお」と呼ばれている。本名ではない。本名は須田川直で、すなおはあだ名だ。
最初は、確か苗字の一番初めの「す」と、名前の「なお」を合わせたってだけの、単純なあだ名だった。だけどいつからか、みんな僕自身に素直さを求めて、僕がそれに応えてを繰り返す内に、ただのあだ名は僕の性格を位置づけるものになっていた。成長するにつれて自然と消えるだろう素直さを、ずっと持っているようなふりをして、僕は今日もクラスに溶け込んでいる。
さっき教室を出て行ったアイツは、次に数人の男子を引き連れて戻ってきた。みんなクラスもタイプも違っていて、誰彼構わず声を掛けたって感じの人選だった。その中に、彼はいた。どこかとまどいを含んだ表情で、一番後ろに立っていた。これだけいれば十分だろ、と周りが各々近くの椅子に座っていく。既に座っていた僕の視界の中央で、彼が椅子を引いてこっちに会釈した。
ほんの少しだけ、心拍数が上がる。
僕は、彼――
*
彼とは、一度だけ同じクラスになったことがある。僕は「須田川」で彼は「芹」だったから、新学期の初めにグループが一緒だったのだ。
彼の第一印象は、「人がよさそう」だった。クラスで一番チビの僕とそう目線の変わらない小柄な体格。黒よりは茶髪に近い明るい髪色。若干たれた眉。全体的に大きく印象の良さそうな目。
どこか頼りなさげだったけど、悪い人ではないように見えた。
新学期、委員会や係を決めるまでの最初の何週間を、僕と彼は掃除当番で顔を合わせていた。当番は、僕と彼を含めて四人はいたはずなのに、思い返すとずっと二人で掃除していたような気がする。僕は聞いていないけど、彼宛てに他の当番の人達は行けないことを伝言していたらしい。部活の集まりが、どうしても抜けられない用事が、だとか見え透いた言い訳を並べて、彼らは掃除をサボっていたのだと彼の話を聞いて思った。もちろん芹くんが言ったわけではない。彼の話を聞いて僕が推測しただけだ。適当な言い訳でサボった彼らにも思うところはあったけど、問題なのはそれを信じている彼の方だった。
悪い人ではない。でもおそらく、生きていく中で損をするタイプだった。
さすがにイラッとする場面も何度かあった。
「嘘つかれたんだよ、芹くんは」と言ったことも一度だけあった。あれは何度目の二人きりでの掃除の時間だっただろう。「もう少し人を疑わないと駄目だよ」とも諭した。けれど、「すなおくんには言われたくないなあ」と、芹くんはあいまいな顔で笑っただけだった。
そんなんだから舐められるんじゃないのかな。
あだ名が「すなお」の僕が言えた義理ではないけど。
それからは特に印象に残る会話もなく、委員会が決まり係も決まり席替えもして、僕と芹くんが話すことはなくなった。ちょっとした会話くらいならどこかでしたかもしれないけど、覚えていない。ただ、僕はなんとなく芹くんのことを避けていた気がする。
それがなぜかって理由は、未だに分からないままだ。
*
学年が上がってクラスが別れてからは、多分初めて顔を合わせたと思う。そんなことを思い出してぼうっとしていたら、いつの間にか配り終わっていたカードの束が一組だけ目の前にあって、周りは中々手に取らない僕のことを不思議そうに見ていた。僕も慌てて目の前のカードの束を取り、手の中でカードを広げて既に出来ているペアを机の上へ捨てていった。素直だと思われている手前、全力で勝とうだなんて思っていないけど、芹くんには負けたくないと思った。
ゲームが始まってすぐ、気付いたことがある。芹くんは、壊滅的にババ抜きが下手だ。見ているこっちが、可哀そうに思えるくらいに。表情に出ているし、引いた後にカードを混ぜないから、何回か見ていればある程度予測ができてしまう。彼がその前に引いたものがババで無ければ、それを引いた方がいい。引いたかどうかは、表情に気を配っていれば一目瞭然だ。僕が引く人じゃなくてよかったね、と思う。周りが気付いているかどうかは知らない。気付いているうえで笑っているのかもしれない。
ただ、それでも彼自身は一生懸命に見えた。
終盤戦に入ったゲームは、いつの間にか勝負は僕と芹くんの一騎打ちになっていた。抜けていった人たちは、その後の試合を観戦ことも無く、別の机でいつの間にかジェンガをしていた。芹くんが、うらやましそうにそちらを見ている。
……何その顔。
どうしてだかその顔を見ていると、心が落ち着かなくなる。
二人になってしまえば、ババを引かない限りはカードを減らすことが出来る。ついに僕の手にはババとクイーンの二枚、対して芹くんの手にはクイーンが握られているはずだ。そして次は、芹くんが引く番。彼がクイーンを引けば勝負は終わる。彼が緊張した面持ちでこちらを見ていた。右と左、どちらにしようか真剣に考えているようだ。
――その時、彼の口がわずかに動いた。考えることに集中しすぎて、声に出ていることすら気が付いていないのだろうか? 無意識に開いたその口は、確かに「ポーカーフェイス」と発音していた。
途端に頭の中が冷えていく。
芹くん、君はまだ自分がポーカーフェイスを出来ていると思い込んでいるの? 僕と一騎打ちになった時点で気付いてよ。君に、ポーカーフェイスは向いていない。
ねえ、だからさ。
こんな勝負、馬鹿みたいじゃん。
一瞬よぎったその感情で、僕は彼を避けていた理由に気付いた。
結果的に、僕は負けた。
しかし、勝ったはずの彼は、目を大きく見開いてこちらを見つめていた。当然だろう。僕は彼を騙したのだから。
原理は簡単だ。芹くんが僕の持つ二枚のカードの内、ハズレのババに手をかけた時に悲しそうな仕草をして、アタリのクイーンのカードに手をかけた時に喜ぶ仕草をしてみせただけだ。芹くんはただ、僕が喜んだ方をババだと思って引いただけ。それがアタリのクイーンなんて知らずに。
何となく、読めていた。芹くんが僕のババを引こうとしていたこと。始まる前に冷笑したアイツと同じように、僕に勝つことを確信したうえでわざと躍らせようとしていたこと。普段なら、騙されてやろうと思っていた。けど、今日はそんな気分じゃなかった。
――どうして?
表情から、彼が聞きたいことが分かった。
「だって、向こうに入りたそうだったから」
そうでしょう? なんて言ったら彼はよりいっそう怯えた表情をした。……ごめんね、芹くん。けどね、そこまでするまでにはちゃんと理由があったんだよ。
あの時、ようやく僕は彼を避けていた理由が分かったんだ。あの時感じた恐ろしさは、僕のアイデンティティに関わっていたのだから。
きっと目の前に座る彼は、そんなこと考えてもいないのだろう。
君が正真正銘の素直だ、なんて。
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