VOL.2

 それから彼は、何度もグラスを干し、少しづつ語り始めた。


『おれがまだ”あの世界かぎょう”で暮らしていた頃、一人の女と知り合った。

 彼女は当時赤坂のクラブ”ラ・メール”で、雇われマダムをしていた・・・・』


 当時年齢が29歳か30歳くらいだったが、背がすらりと高く、男勝りでキップが良かったという


 一番最初その店に行った時、叶はたまたま敵対している組織の連中と鉢合わせしてしまい、険悪な空気になりかけたのだが、それを一瞬にして収めたのが、他ならぬ”彼女”だったという。


『その時から、おれは”ラ・メール”に通い詰めた。大抵の場合、仲間や子分、誰とも行かなかった。一人で行き、一人で酒を呑んで、彼女と話をして帰って来た。それだけだった。』


 こちらから口説こうとも思わなかったが、自然に彼女も身体が空いている時は隣に座り、相手をしてくれたという。


 何を語るでもなく、何をするでもない。


 とりとめのない話をし、酒を呑み、そして帰ってくる・・・・そんな日が何年も続いた。


 店の外でデートは・・・・したという。それもたった二回だけ、一回目は上野公園を散策して食事。


 二回目は神田にあった小さな映画館で、”懐かしの名画”ってやつを見て、お茶を飲み、ケーキを食べたという。


手も握らず、


 無論キスもせず、


 ましてや”それ以上のこと”など、何もなかった。


 普段の俺なら、疑ってみせるところだが、この男、叶大作がそう言うんだ。


 信じるしかないだろう。


 その内、警察おまわりにパクられ、塀の中に落ち、懲役十五年と相成った。


 勿論彼女には知らせていなかった。


 だから手紙も来ない。


 こっちからも出した事も無論ない。


 だが、彼女の事を忘れなかった。


 十五年経って、ようやく塀の外に出てきて、叶がまず真っ先に向かったのが、

”ラ・メール”だった。


 だが、店はもうとっくに閉店した後で、堅く閉ざされ、大きく張られた管理会社の張り紙には『入居者募集』とあり、それが半分剥がれて、風に揺れていた。


 あちこち訊ねて回ったが、店はつい一年前、つまりは彼が出所する直前になって閉店したのだという。


 勿論”彼女”の行方も分からない。


『彼女の故郷は愛知県の名古屋市だ。一度話してくれたし、言葉の端々に名古屋弁があったのを覚えている』


『名前は?』


『店での名前は“とも子”本名は”日比野益美ひびの・ますみだ。おれだけに教えてくれたよ』


 そう言って彼は古びたジャケットの内ポケットから、一枚の写真を出して俺に渡してくれた。


 不忍の池をバックに撮ったんだろう。


 二度のデートの内の一回、つまり上野公園での時に写したという。


 彼の言う通り、背が高く、日本人離れしている。きりっとした顔の女だった。


 ベージュのワンピースが良く似合う、確かにいい女だ。


『今度馴染みの伝手つてで東南アジアの某国に行くことにした。まあ、体のいい用心棒みたいなもんさ。もう戻ってくるつもりはない。だからそれまでの間に、彼女・・・・つまり益美を見つけてくれないか。一度だけ、たった一度だけ顔が見たい。それだけなんだよ。』


 それから、叶はちらっと後ろを振り返ってから、小声でこう付け加えた。


『・・・・ここにも来てやがる・・・・俺はもうムショを出てからこの方、ずっと付け回されてるんだ。』


 俺は彼の言葉を無視して、後ろを見た。


 窓際のテーブルに男が二人、どちらも黒のダスターコートに地味なスーツ姿の目つきの悪い男だ。


『覚えがあるのか?』


前職まえ前職まえだからな。覚えなんざ、数え出したらキリがねぇ。実際に命を狙われた事もある。日本を離れたいのはそのせいもあるんだ。お前さんに迷惑がかかるのは分かってるが、他に頼む当てがねぇんだ。』


『分かった』


 俺があっさりと答えたので、奴はいささか怪訝けげんな表情になった。


『分かった。と言ったんだよ。その代わりギャラはいつもの倍、危険手当も倍だ。それでいいなら』


『よし、お前さんになら、その位払っても惜しかない』


 奴はまたグラスを干した。

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