ライリーの守護天使

十三不塔

ライリーの守護天使


 わたしの娘には姿の見えない友達がいる。


 それも二人だ。


 ひとりはヅゥイという男の子で、もうひとりはライリーという女の子だという。子供部屋はもちろん亡くなった母の寝室や玄関のポーチで何もない空間に向かって楽しそうに話す娘の姿にはじめはギョッとさせられたりもしたが、そのうちに馴れた。

 

 心配性の夫はカウンセラーに診せるべきだと譲らなかったが、ものの本によると成長のある時期にそんな行動を示す子供は少なくないらしい。いわゆる空想上の友達イマジナリーフレンドというやつである。


 ある日、裏庭でヅゥイに大きなトカゲをけしかけられて泣いて家に飛び込んできたこともある。別のある日には、夫の書斎でライリーに絵物語を読んでもらったなんてこともあった。都会の喧騒を嫌って田舎にあるわたしの生家に引っ込んだわたしたち夫婦は数年前から隠居じみた生活を送っていた。まともに陽の光を浴びない暮らしを続けていると世間が狭くなるのは免れない。過疎の村、近所に遊び相手のいない娘にとって、ヅゥイとライリーは貴重な遊び相手なのである。


 文筆を生業とする夫は幸いずっと家にいたから、何か特別なことが起きてもすぐに頼ることができて安心だ。わたしも似たような仕事柄、大抵は家に引きこもりがちだった。わたしたちはやがて見えない友人と話す娘のことを穏やかに見守るようになった。そればかりではなく、親馬鹿と笑われるかもしれないが、そんな娘を感受性豊かな特別な子供だと誇らしくさえ思っていた。


「今日はヅゥイはどうしてる?」

「叔父さんとバイクでマーケットに行くんだって。誕生日だから何か玩具を買ってもらえるって。もしかしたらわたしにもお土産をくれるかもしれない」

「そう。いいね」

「ライリーはお姉ちゃんが病気で心配してる」

「そう、早く治るといいわね」

「うん、きっと大丈夫だと思う」


 四歳にもなると女の子のお喋りはかなりしっかりしてくる。けっこう事細かに二人の友達を様子を教えてくれる。拙いながらも活き活きとした描写にわたしたちは子供の成長を喜んだものだ。


「見つけたぞ。あの子の友達の秘密を」


 小さな城下町の花火大会を見物した帰り、背中で眠りこける娘を起こさぬように小声で夫が告げた。


「ライリーというのは僕の書斎にある小説に出てくる女の子なんだ。たぶん、あそこから着想を得たんじゃないかな。挿絵もふんだんにあるから、文章が読めなくても、想像を膨らませられる。何から何までこの子の言う女の子の特徴とぴったり一致する」

「あらそうなの?」

「本人に指摘してはいけないよ。無意識にあの物語から汲み取ったんだろう。サンタクロースと同じさ。信じられるうちは信じておくのが幸福だろう」

「いつかは別れが来るのかしら」

「君はどうだったんだい? 昔、お義母さんが言ってたよ。君も子供の頃、しきりと独り言を言う時期があったって」

「ふふ、じゃあ血筋かしら。随分と昔のことで、あまりおぼえていないけど、わたしのは違うわ。両親が共働きでかまってもらえなかったから、たんに寂しさを紛らわせてたのよ」


 幼稚園に上がって新しい友達ができても、ヅゥイとライリーは健在だった。

 いじわるな年長組の男の子にヅゥイとライリーは幽霊なんだと脅かされても娘はひるまなかった。娘にとって二人は幻でも空想でもましてや死者なんかじゃない。血肉を持ったれっきとした友達だったのだ。

 

 そんな暮らし向きに異変が起きたのは、ぐるりと季節が巡って銅色の秋が過ぎ、白銀の雪景色が柔かな西日に解けた晩冬の午後のこと。一通のメッセージが夫のメールボックスに届いた。それは《プリズムの御者台》という謎めいた組織からのもので、驚くことに誰にも話したことのない娘の見えない友達についての問い合わせだった。


『私どもは貴殿のご息女の友人についてひとつの見解を持ち合わせております。貴殿のお望みとあらば彼と引き合わせることも可能です。近く詳細についてお電話を差し上げたいと存じます。どうぞご一考ください』


 わたしは妙なイタズラだと気味が悪がったが、夫は俄然興味を示した。品がいいと言えない好奇心は夫の欠点で、いつもわたしはそんな夫を危ぶんでいたのだった。意気込んだ夫はさっそく彼の組織について調べ上げた。なんでも海の向こうの、ある神秘主義者を発祥とする歴史あるグループの末流であるらしいということが判明した。


「この男の子がヅゥイ君なのか?」


 メッセージに添付されていた画像には、南国の海辺を背にした浅黒い少年の姿があった。


「あ、そうだよ! ヅゥイ君だ」


 なんとそれは娘の空想上の友達であるはずの少年であった。

 わたしたちの夫婦の驚きがいかほどのものか誰にも想像できないでしょう。娘のイマジネーションの産物だと思っていた人物が遠い海の彼方に実在したのだから。なんでも《プリズムの御者台》によれば、イマジナリーフレンドと総称される現象の多くのケースが人智を超えた遠隔交流というものであるらしいとのことだった。


「テレパシーってやつが本当にあるんだよ」


 夫の興奮たるや、思い出すだけでこっちまで赤面してしまう。とはいえ、わたしとて平静ではいられなかった。意を決したわたしたち夫婦は入念な準備と心構えを経て、娘とヅァイ君をビデオチャットさせてみることにした。娘の情操に悪い影響を与えなければいいけれど。


「誕生日、何を貰ったの?」

「ドラムセット。子供用だってさ」

「いいなぁ」

「でも、スティックを片方失くしちゃって」

「ソファの裏にあるんじゃないかな。ムースが宝物を隠す場所じゃない」


 二人はまるで旧知の仲であるように話した。片言ながら互いの母国語をかわるがわる口にする様子を見て、またしてもわたしたちは驚愕の思いにとらわれた。それは相手の両親も同様であるらしく、カメラの端に見切れながら佇む人の好さそうな壮年の夫婦の肩は見て取れるほどに震えていた。それにしても子供たちの交遊には言語の壁なんてあってなきが如しだ。何かと引っ込み思案で人付き合いの苦手なわたしたち夫婦は娘を見習わなければならないだろう。そうそう、画面の外でムースがけたたましく吠えた。


「あった!」

「でしょ?」

「ムースのやつ。今夜はご飯抜きだね。‥‥ライリーはいっしょに話せないのかな?」

「わかんないよ。お姉ちゃんと居るんじゃないかな」

「さいきんは会えなくてちょっと寂しいよね」

「うん」


 わたしは二人に頼んでライリーの姿を絵に描いてもらうことにした。

 二人が出来上がった絵を同時にカメラに差し出した時、いまさらながら夫はのけぞって眼を丸くしたものだ。二人が描いたライリーは、タッチは違うものの、間違いなく同じ人物を描いたものであろうことが知れた。


 少し猫背でちょっと鼻が上向いた、黒髪の小柄な少女がそこに居た。部屋着のようにもゆるやかなドレスのようにも見える装いは見慣れないスタイルのものだったが、じっくり見てみれば、小さい頃祖母に仕立ててもらったこの土地の古い伝統衣装に似ていないこともない。どこか懐かしい感じがする。


「見ろよ、この小説の挿絵の女の子にそっくりだ」


 会見を終えて、衝撃の冷めやらぬ中、夫が例の本を見せてくれた。

 そこにあるのは二人の描いた少女に瓜二つの人物だった。


「どういうことなんだろう。不思議なことがあるものね」

「ヅゥイは実在した。だったらライリーも世界のどこかに?」

「さぁ、お手上げよ。本当に何もわからない」


 数週間後、《御者台》から、初老の男が派遣されてやってきた。

 わざわざ海を越えてやってきた男にわたしはこの土地で採れるハーブでお茶を淹れてあげた。


「遠いところをどうも」

「いいえ、ここはとても魅力的な場所です。一度は訪れてみたいと思っておりました。今回の派遣はまさに渡りに船という感じで」

「何もないところですよ」

「この土地には興味深い伝承がいくつもあります。我々のような者には、まるで宝の山です」


 なるほど変わり者らしい。浅葱色のニットがよく似合う五十がらみの男は、じっくりと娘を眺めやると筋張った手を差し出した。


「こんにちは。後でお話を聞かせてくれるかな。先にパパとママとお話をさせてもらうよ。君はヅゥイ君と遊んでおいで。ライリーちゃんはご無沙汰かな?」

「今日は会えるみたい。そんな気がする」


 そう言って娘は、耳の千切れかけたぬいぐるみを抱えて子供部屋に駆けていった。


「どういうことなんですか遠隔交流というのはその――」

「不思議なことではありません。本来的に距離と空間を超えて子供たちは遊べるのです。そんなものに隔てられているという観念がそもそも彼らにはないのです。遠く離れた友達とは会えないというのは親や社会よって後天的に植えつけられた悲しい制約に過ぎません」


 娘の事例がなければ、そんな夢想めいた話など信じられなかったろう。


「じゃあ、もうひとりの女の子。ライリーもどこかに?」


 わたしはそれがずっと気にかかっていた。ハーブティーに口をつけた初老の男はゆっくりと何度も頷いた。組織のメンバーであることの証なのだろう、大ぶりの指輪が中指に光っていた。


「我々の調査では該当する子供は見つかりませんでした。その子に関しては、たぶんこの世界には存在していない」

「それってどういう?」私は呆気に取られた。夫も同じ表情をしていただろう。似た者夫婦なのだ。


「お二人のお子さんは、通常よりももっと制約から自由なのでしょう。空間ばかりではなく時間までも跨ぎ超えて友情を結ぶことができるのです」


「え?」わたしたちは同じ声を上げた。


「ヅゥイ君に聞き取りをしたところ、我々の出した結論はこうです。ライリーちゃんはおよそ四百年前に生きた人物です。小国の険しい山間の村に育った女の子。長じたのち文才豊かだった彼女は筆を執ることになります。いまはそれほど知られていませんが、当時はそれなりに有名な文学者でした」

「ブライリッサ・ソフヴィエ」夫が言った。

「ご存知とは」男にはじめて感情の揺らぎ見た瞬間だった。その名は娘が着想の種にしていたという物語の作者のことだろう。しかし、いましがたライリーという少女は空想の産物ではないと証明されたのではないか。

「もちろん知っていますとも。とても大好きな作家です。女性としてもキュートですし」


 口にしてしまってから夫は伺うようにこちらを見た。わたしはといえば小首を傾げるだけで何も答えないでやった。夫はちょっとだけひるんだ素振りを見せた。


「彼女は幼い頃に失った姉の面影をもとに美しい幼年期を優しい筆致で描き出しました。ライリーとは姉が彼女につけた愛称でした」


 わたしの胸に奥にどうしようもなくこみ上げるものがあったが、それをうまく言葉にすることはできない。わたしにも仲の良い姉がいたから、姉妹の特別な絆については少しはわかるつもりだ。


「ブライリッサの姉の病はいまでは根治された病です。単純な栄養素の欠乏から来るものでしたが、彼女らの家系は珍しい宗派に属していて、教義によって、それを含んだ食物のいくつかを摂取することを禁じていました。険しい山間の村ということもあり、同じ栄養素を含んだ他の食べ物の流入もわずかだったのです。おそらく、彼女の姉は隣の家の戸を叩いて、それを分けてもらいさえすれば助かったかもしれないのです」


 わたしは壊血病や脚気のような病を思い描いた。


「姉の死にショックを受けた彼女は、有限の儚い人間の生に疑問を抱きます、いや憎んだと言ったほうがいいでしょうか。小説の執筆は自己の存在を死後も拡張しようという虚しい試みだったのかもしれません。書かれた言葉は書き手よりも長く後世まで残りますから」


 確かに身近な人間の死は有限を憎むきっかけになる。決して終わらないためにはどうすればいいのか。


「なんとかして助けられないのかしら?」

「奥様、何分、過ぎ去った時代のことですので」

「だってうちの娘は――その子と話しているのでしょう。盗んだっていい。その食べ物をどこかで手に入れさえすれば、それを存分に摂取すれば!」


 やおら興奮したわたしに夫はあたふたし、場を取りなそうと何やら意味にならぬことを口走った。夫の狼狽ぶりにわたしはかえって冷静になれた。


「もしかしたら可能かもしれませんね。時間を超えて過去へアプローチできる子供であれば、そこに干渉できるかもしれません」


 とうとう男は観念したようにわたしの意見を受け入れた。


「ブライリッサの自伝小説には、彼女が幼い頃に出会った姿のない守護天使なるものが登場します。彼女はいつもその天使たちに守られているのを感じていたと語っています。天使たちの助言を聞いていればいつも正しい方角へ導かれたとも。それらは彼女の宗教観からくる象徴的な指針と解釈されてきましたが、もしかしたら違うのかもしれません」


 娘との長い面談を終えて男が帰っていくとわたしは夫に肩を抱かれて少しだけ泣いた。そして山あいに滲む夕映えを親子三人でカーテン越しに眺めながら、わたしは言った。


「友達を助けるの。あなたにはできるから、やってみるの。いい?」

「うん」娘は素直に頷いた。ライリーに彼女の姉を救う方法をきっと伝えると約束してくれた。使命感に燃える性格はわたしたち夫婦のどちらに似たのだろうか。


 夜になると娘の枕元でわたしは本を開いた。

 それは夫の本ではあるが、わたしの本でもあった。


 娘にはまだまだ難しすぎる物語だったが、わたしはそれを丹念に噛み砕いて読み聞かせた。娘がうとうとと眠りに落ちてしまってもわたしは滑るように頁をめくり続けた。


 物語の中で姉妹は成長すると、妹は言葉を綴ることをおぼえ、姉は妹の作品に挿画を添えるようになった。こうしていると作者と読者を隔てる長い時間が宵闇のもたらす幻影のような気がしてくるから不思議だ。


 愛おしさのあまりかぶりつきたくなる衝動を抑えて、娘の小さな額にそっとキスをする。安らかな寝息を耳に心地よく感じながら、大人になり愛する男性との間に子を授かったライリーの独白を追いかけていく。そこにはこんなふうに書かれていた。


  ――わたしの娘には姿の見えない友達がいる。それも二人だ。


 

 


 

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