第37話 口コミのメカニズム 1

2020年6月X日 岡山駅前の居酒屋「くしやわ」にて

 

 「やあ、米河君、大野商店でビールを飲んできたようだな、今日は、独歩か?」

 「はい、エーベストホテルのサウナに入って、それからそこの発泡酒を飲んで、そのあと大野商店でラガービール1本と、そのあと、独歩1本です。日高さん、今日は黒霧島のボトルですか?」

 「まあ、いつも同じものでも難じゃから、たまには違うものでも飲んでみたくて、な」


 元中学校長の日高淳氏は、新型コロナウイルスによるこのところの騒動であまり出歩いていなかったが、自粛明けを機に、約2か月ぶりに岡山駅前のこの店にやってきた。

 一方の作家・米河清治氏はというと、そんなことはさしてお構いなしで、たびたびこの近辺に夕方ともなれば飲みに出向いてきていた。コロナウイルス騒動もさることながら、新歓の出版が迫っていたというのもあって、それまであまり遠出はしていなかったのだが、先週の木曜日にようやく、兵庫県庁の選挙管理委員会に明石在住時に設立している政治団体の収支報告提出に遅ればせながら行ってきたという次第。

 作家氏は、先日入れていた青い焼酎のボトルを持ってきてもらい、水割りのセットを頼んだ。つまみは後で、とのことにして。さっそく、ロックグラスに氷と酒の液体を入れ、もう一つのグラスには水を入れて、飲み始めた。

 

 「最近は飲み放題をやめたのか?」

 「ええ、人と飲むようなときは別として、基本的には、やめました。飲み放題なんかにしたあかつきには、それこそ横浜銀蝿の「走り出したら止まらないぜ」、じゃないですが、ビールを飲みだすと止まりませんから、ちょっとやばいかな、と思い至りまして。あと、つまみも、夜はできるだけ少なめにするようにしております」

 「そうか。君も少しは体に気を遣いだしたかね」

 「はい。昔のようにはいきませんよ。今日は昼に学生街で大盛のカツカレーなんて食べてきましたから、もう、そんなに食べなくても十分ですわ」

 「そりゃあ結構な話じゃ」

 「まだ死にたくないですからね」


 そう言いつつ彼は、小鉢を1品とレタスを豚肉で巻いた串焼きを1本頼んだ。


 「そうじゃ、あんたに言うとった今回の本、持ってきたか?」

 「はい、これですわ。今日発売ですけど、先行販売的に、私の買取り分を人に売ったり配ったりしておりましてね」

 「よしよし、買うぞ。それから、わし以外にも読む人がおる。電話でお伝えしたとおり、すまんが、合計5冊頼むわ。領収書? 別に要らんよ。わしは特に事業はしておらんし、運用しとる財産もさしてないからな」

 「はい、どうぞ」

 老教師は本を手にしつつ、焼酎のロックを一口飲み、さらに水をそのあと一口飲んだ。

 

 「それはそうと米河君、よつ葉園の大槻さんはもう園長を退任されているね」

 「一昨年前の3月で退任されて、今は理事長専任です」

 「あの人、わし、若い頃、それこそくすのき学園にいた頃には何度か会ったことがあるが、元気な方だったなぁ。教員になって、今のよつ葉園のある海吉中でも勤めたことがあるけど、あの丘の上の子ら、実にのびのびしておった。わしがくすのき学園にいた頃の中学生らとは、まったく違っておった。ご存知の通り、花見にも招待されたし、なんせあそこの子らの担任も何人か持ったからな、何度も行ったよ。ついでに言えば、最後の赴任が校長で海吉中だったってこともあって、大槻さんには本当にお世話になったよ」

 「そうですか・・・。私は小6でよつ葉園を出ましたから、その後のことはそれほど知っているわけでもないですけど、大槻さんは、時々津島町の叔父宅にも来られて、私のことやら何やら、いろいろ話されていましたね」

 「わしは、あの大槻さんの息子さんも担任したけど、実際、あの人の家庭は、しっかりしていた。奥さんも立派な方で、のちに議員にもなられたけど、あの方なら、確かに議員も務まるだろうな、と思っておったが・・・」


 「確かに。でも、そのあと離婚されましたよね」

 「うん。あれはわしも、意外ではあった。丘の下の中学からあの人を見ていて思ったのは、だなぁ、彼は、それこそ君の言うように、社会性に長けた人だということよ。社会性に長けるということは、いやでもその行動範囲は広がっていく。あの人の前の奥さんも、今の奥さんも、タイプはかなり違うようにも思えるが、その点についてはまったく同一の基盤のある人たちだ。閉鎖的と言われる養護施設業界においては、あの人、若い頃から飛びぬけていた。確かに大槻夫妻は、前の、な、子どもさんらを立派に育て上げて、大学までやって、それで社会に出した。お二人とも、立派にされている。わしは下の子の担任を中2の時にしたのと、あとは保健体育を授業で3年間教えたが、彼は実に、しっかりした少年だったな。今でも連絡をくれるが、しっかり頑張っておるようで何よりだ」

 「でしょうね。津島町の頃しかわかりませんけど、あの方の息子さんは二人とも、しっかりしておられましたから」


 やがて、米河氏のもとに小鉢と串焼きがやってきた。

 「このレタス巻きが、なかなか乙な味でしてね」

 「そうか、わしも頼んでみよう」

 日高氏が、近くにいた若い女性店員に同じ串焼きを注文した。


 「ところで君はどこで、大槻さんが離婚されたことを知ったのかな?」

 「元職員の山崎さんからお聞きしましてね、それで知りました」

 「山崎さんは、確か、梶川君の幼馴染で、くすのき学園にも5年ほどおられた人じゃないか。君とはよつ葉園の接点はないはずじゃが、なんでまた、御存じなの?」

 「18歳までよつ葉園にいたZ君という、私と同じ日生れの子がいましてね、彼の紹介で、知合いになったってわけです。まあ、大学生になって以降は、今のよつ葉園にもしばしばうかがっておりましたからね、私も」

 「それで、その山崎さんから、あんたは、大槻さんの話をお聞きしたわけかな。わしはと言えば、梶川君からお聞きした。あの人が離婚された頃は、わしは海吉中におったわけじゃないからな、わかるはずもないのだが、なぜか、わりに早い段階で、梶川君が連絡くれて、それで、知ったのよ」

 「ありゃりゃ、それはまた、すごいことになっていましたね。私はそれほど早い段階でもなかったですが、山崎さんとお会いする機会が仕事上たびたびありまして、それで、知りましたわ。そのことを、いつか津山からの帰りにお会いした尾沢さんにお話しすると、意外な顔をされていましたが、今思いますと、それほど意外でもなかったかなと」

 「それは、何故?」

 「山崎さんの今のお仕事の客というか取引先に、養護施設時代の関係者が何人かおられて、その筋から、かなり早い段階で入っていたようです。山崎さんはよつ葉園を退職されたのち、一度も大槻さんとお会いしたことはないそうですけれど、そういう情報だけはずいぶん早く回っていたようでしてね。確かに、すでに退職していた山崎さんがそんな情報を持っていることを、尾沢さんが意外に思われたのは無理もないでしょうけど、私は、それほど意外にも思いませんでしたよ。梶川さんについては存じ上げていませんけど、当時すでにくすのき学園の園長は退任されて、老人福祉のほうに進まれていたはずですが、それでも、かなり早い段階で情報が回ってきていたようです。梶川さん自体は創明党の支持者ではありませんが、政治がらみの知合い経由で、その情報が流れてきたって、山崎さんがおっしゃっていましてね。もっとも、尾沢さんが驚かれたのも、無理はないです。あの方は大槻夫妻の離婚当時、まだよつ葉園にお勤めでしたからね」

 

 話しているうちに、日高氏のほうにも、豚肉とレタスの串焼きがきた。

 串から箸で具を取り、その箸で一切れつまみ、老紳士は味わうようにレタスと豚肉を口にしている。

 「ほう、なかなかうまいな、これ」

 「これで160円ですから、お得ですよ。少しでも野菜が摂れますしね」

 「そうじゃのう」

 米河氏はすでにその串は平らげているが、小鉢のつまみはまだ残っている。彼もまた。焼酎と水を交互に飲みつつ、つまみをつついている。

 「せっかくなので、鰻のかば焼きも頼みますわ」

 「じゃあ、わしも」

 米河氏は厨房の男性を呼び止め、鰻の串焼きを1本ずつ注文した。

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