第38話 口コミのメカニズム 2
「いい話はそうそう伝わらないが、悪い話は早く伝わるというねぇ」
日高氏の弁に、米河氏は若干異議があるかのようなことを述べる。
「ですがね、悪い話と言っても、何でもかんでも早く伝わるってわけでもないですよ」
「ほう、それはまたなに?」
「簡単な話です。人の話に乗せやすいか乗せにくいか。その条件をくぐって前者になったものが、早く伝わるのです。いい悪いは確かにある程度影響はあります。特に、スキャンダラスな話はものすごく速い。それは確かです。そりゃあ、話に乗せやすいじゃないですか。しかも、それだけでしばらく話も持ちますしね。これは尾沢さんに申し上げた例ですけど、例えば、尾沢康男という社会福祉士の事務作業は遅いとか早いとか、丁寧とか雑とか、そういう話って、伝わりますか、ってことです。結論は、伝わりにくい。なぜか。そもそもそれを人が見聞きする機会がほとんどないからです。伝わったとしても、かなり限定的な範囲にとどまるでしょうね。他にも、私が塾講師として授業がうまいとか下手といったレベルのことでも、そうです。ある人はうまいし判りやすいというけど、またある人は、わけわからんと言っているとしましょう。じゃあどっちが正しいと、そこで立証できますか、ってことと、それを塾のことなど知らない第三者が聞いて理解できますかというところまで追えば、このことは明白です。先日亡くなられた志村けんさんが、ある放送作家か誰かの考えてきたギャグに、その設定はわからない人への説明が前段階としているから駄目だとおっしゃったことがあるようですが、まさに、そういうネタですから」
「なるほど。その考えで行けば、塾の講師の授業がうまいからあの塾に行こうなんて口コミというか噂は、それほど伝わるモノじゃない、ってことだね。あるいは、尾沢さんの社会福祉士としての事務処理能力とか。確かに、そんなのは立証のしようがないし、事務処理と言ったって、状況によって早くできるものもそうでないものもあるし、本人の努力だけで早い遅いが決まるわけでもない。状況によって変わるのは仕方ないからな」
「そうですね。あと、意外性のある話というのも、わりに伝わるとは思いますね。それこそ私が若い頃、セーラームーンを毎週観ておりましたけど、あの頃はまだ、いい歳の大人がそういうアニメや漫画を観るのは今ほどでもなかったですから、そりゃあ、あちこちで、私がセーラームーンを観ていることは知れ渡りましたよ。大体、いい歳の、それも国立O大学の法学部まで卒業して、身なりはそれなりにきちんとしておりましたから、そんな男性が、よりにも選りすぐって小さい女の子が見るようなアニメを、子どもと一緒とかそういうわけじゃなく、それこそ、自分の趣味で見るわけですからね。それで、うんちくの一つも述べてごらんなさい、私の親ほどの人たちは、相当呆れかえっていたはずです。現に私の母親も、大いに呆れていましたけどね。もっとも今は、プリキュアを観ていると言っても、さしてびっくりはしないですが、これはまあ、よく言えば社会全体の通念としてそういうアニメを観る大人もいるというのが広まったこともあるでしょうし、まあ、いまさらどうこう言って「治る」ものでもないですし(苦笑)、母にしてみれば、もうどうにもならん酒飲みのおっさんに成り上がったというか、成り下がったというほうが適切でしょうけど(爆笑)、そんなのにどうこう言うよりも、まだ小学生の孫のほうが可愛いし言うことも聞いてくれるというのもあるでしょうからね。その男の子、今年で小5です。それこそ、私がO大の鉄研に「スカウト」された学年になりました」
「今の米河君の話を総合すると、意外性というのは本人だけじゃなく、社会通念が大いに影響しているというのもあるわな。これは語弊があるかもしれんが、確かに、30年前はまだ、少女向けアニメを大学も出たいい年の男性の中には自分の趣味で観る人もいることは皆さん頭ではわかっていても、実際目の前にすると、まして自分の息子がそうなったりしたら、呆れていたろうね。それどころか、あの頃、連続幼女誘拐殺人事件があったでしょ、Mなる人物の。そんなのもあったから、アニメ自体が危ないものという、ちょっとそれは「坊主憎けりゃ袈裟まで」な感じはあるけど、そういう話もあったよな。私は立場上、そういうことはもちろん生徒や同僚にも言わなかったが、そういうアニメの好きな教え子なんかが、おもしろがって自分から自虐的に言っていたことがあったな。周りもある程度は笑って聞き流していたからよかったようなものの・・・」
「一歩間違うと、いじめ以外の何物にもならなくなりますからね」
「まあな」
やがて、鰻のかば焼きが運ばれてきた。
「おお、これは国産の鰻だな。歯ごたえもあって、実にうまい」
日高氏は鰻を一口軽く口にして、その歯ごたえと香りを楽しんでいる。
「なんか最近、鰻がうまくて、たびたびこういう形で食べておりましてね」
鰻の値段が高騰して「うな重」を食べなくなって久しい米河氏だが、このところ、串焼き1本とか、すし屋で鰻の握りなどを軽く食べる機会が増えたという。
「鉄道ジャーナルという鉄道雑誌の元編集長の竹島紀元さんという方が、新幹線博多開業で廃止される特急列車のルポを書かれていて、その中に「スピードを武器に生まれ出たものは、いつかはスピードの前に敗れ去らなければならない」って一節がありましてね」
「ほう、それはしかし、名言じゃ。なんせ、人間というのは、苦手なことでやられる場合もないわけではないが、存外、自分の得意としているところで引っかかってしまうものでねぇ。米河君の話を聞くのと、わしがあの人を見てきたこととを併せ持ってみれば、確かに、大槻さんは「社会性」という武器をもって生涯を送ってきた人じゃないか。彼のその武器は、確かに、よつ葉園という養護施設をよくしていく上で、大きな武器となったことは間違いない。しかし、その「社会性」という武器は、あの人にとっては「諸刃の刃」でもあった。類は友を呼ぶというだろう。こんなことわざを使うのは、まさに、くすのき学園でお世話になった稲田園長のようだけど。実際、わしは大槻さんを断続的ながらずっと拝見していて、確かに、彼の周りには人間性云々と眠たいことを言うよりも、人とのつながりとか、効果的な方法論とか、そういうことに長ける要素の強い人が集まっているようにも思えた。社会性を武器に世を渡ってきた大槻さんが、その社会性という武器にやられてしまったような感じがするのよね、あの「事件」は」
「それ、わかりますよ。それから、日高さんもご存知の津島中高の牧野英二先生から、確か高校時代、私の言動や思考回路に、夏目漱石のような要素が見受けられると言われたことがありましてね、それはなぜなのだろうか、何故夏目漱石なのかと思って、時折考えておりましたところ、最近、ようやく気付くところがありましたわ」
「夏目漱石ねぇ、そりゃあまた、偉大なる文豪に例えられるとは、たいしたものだな。そりゃあ、小説ぐらい書けるようにもなるわなぁ(苦笑)」
「なんでかいなと思いまして、そのあと、坊ちゃんを読んでみました。なるほど、こりゃあ、江戸っ子の坊ちゃんが学校の先生になるのはいいとして、その周りの人らへの見立てが、どう見ても、江戸っ子というより、何ですか、登場人物がそれぞれ殻を持ったまま登場していて、それが割られることもなく、ひたすらぶつかり合っているような、なんだか、よくわかったような、それでいてわからんような例えですけど、格好をつけて言うなら、これこそが、来る「個人主義」の世の中なのじゃないのかな、という。そんな予言めいた感じがしましてね。吾輩は猫であるなんかまさに、そのことを登場人物らに言わせていますけど、こちら坊ちゃんだって、同じです。「個人」である一人一人がいて、それらが他の「個人」とぶつかり合っている。いうなら、箱の中でドングリだか、パチンコ玉だか、それが一つの箱の中でゴロゴロと音を立ててぶつかっては離れ、それを繰り返しているような感じと言えば、いいでしょうか」
「なるほど。そこから考えれば、彼は、大槻家という、まあ「小箱」があって、そこに前の奥さん、それと、息子さんらと4人で住んでおったが、彼はその箱の中で納まるような人間じゃない。息子さんらも、また、前の奥さんも。結局、箱の中でのぶつかり合いなどよりも、外に出て大いにあちこちに出向いていくことを、みんな選んだ」
「ええ、そんな感じですな」
「もっとも、そういうことを言う君も、よつ葉園という箱から拾い出されて、もっともその前からその箱の中から出ようとしていたのだけどな、外へ出されて、ますますあちこちに転がっていった。どこかの箱の中に入ることを、米河清治という「球」もまた決して選ぶことなく、今に至っているわけじゃ。まさに、それが夏目漱石の言う「個人主義の世の中」を生きていくための効果的な方法の一つであることは確かだな」
「でも、箱の中に納まるという生き方も、なくはないでしょう」
「確かにそうだ。だが、そんな幸せが選べ、与えられる、そんな人ばかりではないし、それを明白に拒否することもできる世の中ではある。否応なく、そういう「箱」の中に入らずに生きていくことを求められる世の中なのではないかな、今の時代」
それほどの量を食べたわけでもないが、適度に飲んで何やらつまんでいると、それなりに満腹感は得られるもの。若い頃のようにやれ食べ放題、飲み放題で、さぁ、元を取ろうなんてさもしいことを、いやいや、勇ましいことをやるほどのこともない。
焼酎のロックを、いい歳のおじさんたちがそれぞれすすりつつ、機嫌よく何やら話している。そんな楽しみも、悪くないと感じる今日この頃の米河氏。
彼は、言う。
「球を入れる箱のない、球が無秩序に転がりまくっている時代。それが、個人化の時代ってことでしょうか。玉同士がぶつかり合う確率さえ、昔よりは激減していますよ」
老紳士は、それには一定の理解をしつつも、少し違った角度から自分より二回り近く若い彼の弁に補足を加えた。
「確かに、米河君のその弁は当たってはいる。だが、少し違うな。どんなに小さな箱がなくなろうと、それより大きな箱はちゃんと、あるのよ。わしらが気付かんだけのことでな。その箱を飛び出してしまえば、そりゃあ、もう、どうにもなるまいが、その箱がある限り大丈夫、ってところもなくはない。その大きな箱というのは何なのかは、御想像にお任せしよう。要は、西遊記に出てくる孫悟空と、わしら、まったく一緒なのよ。お釈迦様の掌の上を飛び回っているようなものだな。まあ、何もお釈迦様の指に落書きして立小便なんてすることはないにしても、結局は、同じこと」
人間社会の本質は、そうそう変わるものではないのか・・・。
作家氏は、そんなことを思いながら、焼酎のロックを口にした後、つまみ代わりの氷水を口に含み、ゆっくりと飲みほした。
老紳士もまた、彼に続いてグラスを口にした。
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