30-八月二十八日(日)
「タイムマシンは作れますか──、か」
俺は、その本を手に取った。
可能な限り以前と同じ行動を取るようにしている。
だから、今日読んだのも、〈宇宙の大規模構造、そのパーコレーション解析〉の続きだった。
何度も手に取り、けれど一度も読むことのできていないこの本は、俺の知的好奇心をうずうずと刺激する。
まるで、お預けを食らった犬のようだ。
無意識に表紙を繰る。
「ミナトくん?」
手元が暗くなったかと思うと、野太い声が俺の名を呼んだ。
「はあ」
ぱたん、と本を閉じる。
「それじゃあ、帰るか」
「うん、もー限界。僕って図書館ダメみたい」
「ま、合う合わないは誰にでもある」
一日図書館利用証を取り出し、八尺に見せる。
「これ、ちゃんと持ってるか?」
「……あ」
「予想通り、と。さっさと探してしまおう。大吉が待っているんだろ」
「あ、うん! たぶん三階にあると思うんだけど──」
──チンッ
と音がして、エレベータが一階に着く。
扉が開いた瞬間、見覚えのある頭頂部が俺たちを出迎えた。
「お待ちしておりました、ミナト様。八尺様」
大吉が顔を上げる。
「ごめんごめん! 僕がコレなくしちゃってさ。ミナトくんと一緒に探してたんだ」
「それはそれは。見つかってようございましたね」
プァ──────……
クラクションの音がホールに響いた。
「ん? なに、ラッパ?」
「いえ、これは自動車のクラクションですね」
大吉が断定する。
「クラクションねー」
俺は確信した。
この時間軸でも、事故は起こる。
泥酔した運転手がスポーツカーを駆り、H大附属図書館の玄関に突っ込むのだ。
それを防ぐ手立てはない。
俺は、自動ドアに目を凝らした。
あの男の子が、再び、最悪のタイミングで入ってくるかもしれないと思ったからだ。
自動ドアが開く。
だが、入ってきたのは、白衣を着た壮年の男性だった。
背後から迫るものに気がついていないのは明白だ。
「──ッ!」
入館ゲートなど、通っていられない。
プァ────────ッ!
最後のクラクションが鳴る。
余裕はない。
リミッター解除。
主観時間が限りなく引き延ばされる。
一歩目。
左脚の筋力を最大値の約五十パーセントまで引き上げ、跳躍する。
入館ゲートを大きく跳び越え、着地する。
二歩目。
右脚の筋力を最大値の約六十パーセントまで引き上げ、跳躍する。
ガラス越しに藍色のスポーツカーが見える。
階段を上り始めている。
三歩目。
僅かな方向修正。
左脚の筋力を最大値の約七十パーセントまで引き上げ、跳躍する。
白衣の男性がこちらを見ている。
藍色のスポーツカーが自動ドアを突き破る。
同時に、白衣の男性を抱き、その場から二メートル移動する。
右腕を使い、着地する。
リミッター設定。
主観時間が元に戻る。
図書館が、揺れた。
「君、なに──を……」
白衣の男性から腕を離した。
男性は背後を振り返り、その惨状に絶句している。
数瞬の静寂。
やがて、誰かの悲鳴が上がり、玄関ホールはパニックとなる。
「──…………」
俺は手のひらを見つめていた。
震えている。
がたがたと。
歯の根が合わない。
がちがちと打ち鳴らされる。
なんだこれ。
なんだよ、これ。
「──ナトくんッ!」
気づけば俺は、八尺に抱きかかえられていた。
「ミナトくん、ちょっとは後先考えてよ! そんなんだか……ら……?」
「ミナト様、いかがなさいました」
大吉の冷たい手が、額に当てられた。
視界がぶれる。
頬がくすぐったかった。
「ミナトくん、泣いてるの?」
泣いている。
俺は泣いているのか。
九丹島ミナトも、ずいぶんと涙もろくなったじゃないか。
「──ミナト様」
大吉の優しげな声が、そっと鼓膜を震わせた。
「あなたは今、命を失うところでした。死ぬところだったのです。今感じているその気持ちを、大切になさってください。──それが、恐怖です」
「きょう、ふ……?」
制約4「自分を大切にしなければならない」
ああ、そうか。
みんなそうなんだ。
誰だって、命を失うことに、恐怖を感じるんだ。
俺は今──こんなにも、生きたいのだから。
そう認識した途端、震えが止まった。
目をこすり、立ち上がる。
俺は誰だ?
俺は九丹島ミナトだ。
ならば、まだやることがあるはずだ。
「──君!」
白衣の男性が、腰を抜かしたまま、俺を呼んだ。
「本当にありがとう。君は命の恩人だ。私は天ヶ瀬という者だ。この大学で教鞭を取っている。是非、君の名を聞かせてほしい」
驚いた。
「星羅の──」
「星羅!? 娘を知っているのかい?」
「ええ。俺は、九丹島ミナト。明日、星羅の友人になる予定です」
俺は、天ヶ瀬氏にそう告げて、事故現場へと向き直った。
「大吉! 警察と救急車を! 八尺! 怪我人を迅速に搬送できるよう、自動車のドアを剥ぎ取るぞ! 責任は俺が取る! 返事は!」
「了解!」
「了解いたしました」
「あと、事が済み次第逃げる! いいな!」
「はい」
「……いいのかなー」
「──とまあ、そんなことがあった」
ドリアをつつきながら、あんこに事故の顛末を話した。
オヤジは、以前の時間軸と同様に、俺の言葉責めを受けてエイミーちゃんに会いにふらふらと出て行ってしまった。つまり、ふたりきりの食卓である。
「あんまり危ないことしないでほしいな……」
とっくに空になった皿の、一粒だけ残ったごはんつぶをスプーンで潰しながら、あんこがそう呟いた。
「もうしないよ」
「え?」
「もう、しない。いやたぶんする。するけど──決めたんだ」
「なにをー?」
俺は、その質問に、別の質問で返した。
「なあ、あんこ。もし俺が、なんでも言うことを聞いてやるって言ったら、どうする?」
「えっ! きいてくれるの!?」
「た、と、え、ば──だ。ちなみに、俺のママになるってのと、俺の姉ちゃんになるってのは却下だぞ」
「ぶー! そんなのつまんない!」
「真面目に考えないのなら、この話は無しだ」
「はい! かんがえます!」
あんこが腕を組み、ときにこめかみを押さえながら、うんうんと唸る。
その姿が微笑ましくて、目を細めた。
「? ミナト、笑ってた?」
「気のせいだろ。それより、時間切れだ」
「えーっ!」
「じゃあ、答えだ」
スプーンを深皿に立てかけた。
「あんこはきっと、こう言う。もっと自分のことを大切にして──ってな」
「あーッ! それ、いい!」
「な、正解だろ?」
「うんっ!」
あんこが、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「だから俺は、そうすることにした。これからずっと。だから、俺もあんこにひとつ、頼みがあるんだ」
「頼みって?」
これを言えば、あんこは、あのときのように泣き叫ぶかもしれない。
だけど、言わなければ伝わらない。
「俺のママには、ならなくていい」
「──…………」
あんこから笑みが消える。
「俺を庇護するな、あんこ。俺はもう、ひとりで立てるから」
「なんで……なんでそんなこというの、みなと……」
すう、と。
緊張を抑えるように息を吸い、あんこの手を取った。
「お前が好きだからだよ、あんこ」
「え──」
「これが、どんな好きなのか、俺にはまだわからない。だって俺は、まだ七年しか生きていない。知識はあっても、感情が追いつかない。恋愛ってなんなんだか、正直なところ、さっぱりわからん。でも──たぶん、これだけは嘘じゃない」
あんこの瞳の奥に、俺が映っている。
「俺は、お前がママじゃ、嫌なんだ。手を引いてほしくないんだ。隣を歩きたいんだ。一方的に与えられる関係じゃ、満足できないんだ」
「──…………」
「俺はすこし前まで、人間として欠落していた。自分の命より、無関係な第三者の命を、なんの疑いもなく優先していた。でも──、あんこ。その欠落部分を、お前が埋めてくれていたんだって、ようやく気づいたんだ。お前の欠片をもらって、俺はすこしだけ人間らしくなれたから」
言葉がどんどん感情的になっていくのを自覚していた。
それでも止まらない。
止められない。
「だから──俺も、お前に欠片をあげたい。もらってほしい」
「ミナト……」
「ミナトちゃん……」
無駄に渋い声がした。
恐る恐る、背後を振り向いた。
「オヤジ……」
「ミナトちゃんがあんこちゃんを口説いてる……」
両手でわざとらしく口元を隠すな。
「エイミーちゃんに会いに行ったんじゃ……」
「あ、いやね。今日ちょっとシフト入ってないらしくて」
「バタフライ効果ァァァアアアアッ!」
俺は頭を抱え、悶えた。
「お前が好きだからだよ、あんこ!」
「ぐぼァ!」
「だから──俺も、お前に欠片をあげたい!」
「へぶゥ!」
「お、おもしろい……こんなミナトちゃん初めてだ!」
たのむからやめてください。
しんでしまいます。
「これからしばらく脅迫ネタには困らないぞー。やったね大和ちゃん!」
気づくと俺は床に突っ伏していた。
ふらふらと立ち上がる。
これは、あれだ。
もうだめだ。
あの手しかない。
「あれーミナトちゃん、どしたの? 疲れてるみたいだけどー。ぷふ」
「……──ろ」
オヤジの元へ、一歩一歩近づいていく。
「録音してなかったのが悔やまれるね! 俺は、お前がママじゃ──」
「忘れろオオオオオオオ────────ッ!」
この日、俺は、生まれて初めてオヤジを殴った。
「ミナト、だいじょーぶ?」
オヤジと仲良くダブルノックアウトした俺に、あんこが声をかけた。
「……大丈夫だ。ちょっと心が悲鳴を上げているだけだから」
自分の言葉を繰り返されるのが、こんなに恥ずかしいものとは思わなかった。
「んとね。あたしも、言いたいことがあります!」
俺に手を差し出しながら、そう言った。
あんこに手を引かれ、立ち上がる。
「あたしもね、ミナトが好きだよ」
「──…………」
あまりに無邪気に言われたので、反応できなかった。
あんこの指が、俺の胸に触れる。
「あたしの欠片がここにあるのかー」
あんこが俺の手を取り、自分の胸へと導いた。
以前のように、怒りは湧いてこなかった。
「ここ、ミナトの欠片がちゃんとあるよ。繋がってるよ」
「……ああ」
目を閉じる。
あんこにそう言われただけで、不思議とあたたかな繋がりを感じた。
気のせいなのだろう。
けれど、気のせいでもいい。
「でも、ミナトのママににはなりたいなー」
「はあ?」
なにを言っているんだ、お前は。
「おねーちゃんでもいいよ!」
「なにを言っているんだ、お前は」
つい声に出てしまった。
「あ! じゃあこうすればいいんだよ! あたしがミナトのママになってー、ミナトがあたしのパパになるの!」
「おじさん泣くぞ……」
「あ、そっか」
案の定、だんだん頭痛がしてきた。
わかったことがひとつ。
すこし人間に近づいたくらいでは、やっぱりあんこは理解できない。
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