27-八月三日(水)

 再起動リブート




 唇に、そっと、やわらかいものが触れたような気がした。

 蝉の声が聞こえる。

 カーテンがはためく音も。

 今年、二度目の夏。

 俺は、ゆっくりと目蓋を開いた。

「──み、ミナト! 起きてたんですの⁉」

 声のしたほうへ首を向けると、お嬢がいた。

「あ、いや……、今ちょうど起きたところだが……」

 お嬢は何故か頬を真っ赤に染めている。

「──…………」

 いや、気づかないふりはもうできない。

 お嬢は恐らく、俺にキスをした。

 唇に残ったかすかな感触と、お嬢の反応とを照らし合わせれば、あまりに瞭然だ。

「その、なんだ。おはよう」

「……おはようございますわ」

 気づいたからと言って、それを口に出すのも違うよな……。

 一度キューブに戻り、わかったことがある。

 とかく恋愛は難しい。

「お嬢、今日も来てくれたんだな」

 七月二十三日、俺は、救急車で総合病院へと運ばれ、緊急手術を受けた。

 翌日、かかりつけである田淵医院への転院を希望し、左上腕骨亀裂骨折、および左上腕部刺傷により、全治四週間、そして二週間の入院を言い渡された。

 そして、運よく個室に当たり、今に至る。

 術後もギプスなどはせず、三角巾で左腕を吊るだけに留まった。

 退院後しばらくは、通院しながらのリハビリが必要らしいけれど。

「え、ええ! あと三日で退院ですもの。せっかくだから読みきってしまいたいですわ!」

 左腕が使えない俺は、ろくに読書もできない。

 八尺が差し入れてくれたライトノベルをどうしようかと持て余していたところ、お嬢が読み聞かせてくれると言い出したのだ。

 お嬢はこれでいて朗読がうまく、キャラクターの演じ分けも巧みだ。

 子供が好きだと聞いたことがあるので、保育士か、そうでなければ声優なんて向いているのかもしれない。

 問題は、病室に看護士が入ってくるたび慌てて本を閉じ、やたら不自然な態度で誤魔化すところである。

 なにをしているか露見した今でこそ微笑ましい視線を向けてくれるが、最初の数日は、さんざん不審げな目で見つめられた挙句、「病室内でいかがわしいことは……」と注意まで受けてしまった。

 お嬢とあんこは毎日来てくれるし、他の面々もひっきりなしに訪れる。

 クソオヤジとエロジジイも、見舞いと言うより、看護士目当てにやってくる。

 まさに血筋である。

 誰から聞いたのか、クラスメイトたちまで見舞いの品を持ってきた。

 果物はしばらく見たくない。

 静かな入院生活とは言いがたい。

 でも、楽しかった。

「けれど、まさか一冊読むのにここまで時間がかかるとは思いませんでしたわ……」

「ふたりきりなんて、あまりないからな。大吉は、今日は?」

「ええ、アルバイトです。本当はシフトが空いていたのですけど、店長さんに折り入って頼まれたから、と言っておりましたわ」

 今日は八月三日。

 本来であれば、皆で海へ行くはずだった日である。

「ごめんな。俺が怪我なんてしなければ、今日は──」

「もう! 何度も謝らないでくださいまし。海なんて、来年も行けますわ。待ち遠しければプールへ行けばいい。ガトキンあたりなら年中やってますわよ。大吉が免許を持っているんですから、どこへだって行けますもの」

 人差し指で空気を叩くようにしながら、お嬢が諭すように言った。

「そうだな。冬になったら、スキーへ行くのもいい。キロロなんかよさそうだ」

「あ、いいですわね! ……わたくしもアルバイトをしようかしら」

 現時点でお嬢は宝石を売却していない。

 狸小路家の財政状況は、相変わらず逼迫しているのだ。

「俺は応援するよ」

「ありがとうございます。でも、まずはとうさまと大吉を説得しないといけないのですよね……」

「あのふたり、過保護だからなあ」

 大吉は、本当に、お嬢のことを大切に思っているから。

 ずきん。

「……──?」

 何故か、胸が痛んだ。

「過保護すぎますわ! わたくしだって、いずれは社会に出て働くことになるのです。その予行演習くらい──」

 大吉はお嬢と一緒に暮らしている。

 あの、狭いアパートで。

 ずきん。

 ずきん。

 ああ、わかった。

 初めてのことで、戸惑ってしまった。

「──なあ、お嬢。大吉のことを、どう思ってる?」

 これは独占欲だ。

「どうって……どうしてですの?」

「いいから」

「大吉は執事ですけど──そうですわね。ずっと一緒に暮らしてきましたから、家族みたいなものでしょうか」

「家族、か」

 大吉はそれでいいのだろうか。

 満足なのだろうか。

「なあ、お嬢」

 自然に言葉が溢れ出す。

「俺が起きる前、お嬢がなにをしたのか、気づいてるって言ったらどうする?」

「ンなっ!」

 引きかけていたお嬢の頬の赤みが、一瞬にして元に戻る。

「推測はしたけど、ちゃんと覚えてはいない」

 お嬢に顔を近づけていく。

「あ──みなと……」

「だから──」

 お嬢がそっと目蓋を閉じる。


 ──ガラッ!


「うおッ!」

「ほわ!」

 病室の扉が開かれる音に、慌てて身を離す。

「くたじまぁー、露草様がきてやったわよー……って、あら」

 入ってきたのは露草だった。

 お嬢が慌てて立ち上がり、その勢いで丸椅子が倒れる。

「わ、わたくし花瓶の水を取り替えてきますわ!」

 そして、花瓶も持たず、早足で病室を出て行ってしまった。

「──…………」

 なんとまあ、わかりやすい。

「ははあーん」

 露草がにやりと口角を上げる。

「ま、アタシはかんけーないから、ぐだぐだ言わないわよ。ただし──」

 露草は、両手の人差し指を立てて、ゆっくりとバツを作ってみせた。

「ふたりとも平等に、なんて考えてるんなら、蹴り殺すからね」

「……ああ、前向きに善処する」

 人の恋愛に口を出すより、自分のほうをなんとかしろ──なんて言ったら、本気で蹴り殺されるなこれは。

 とかく恋愛は難しい。マジで。

 露草が、倒れた丸椅子を起こし、腰を下ろす。

 そして、手に持っていた小さな袋をこちらへ寄越した。

「ほれ、永久寺からおみやげよ。ありがたく受け取りなさい」

「ああ、あそこからの帰りか」

 袋を受け取り、ベッドテーブルに積み上がった荷物の上に置く。

「今日も永久寺の執事姿を、さんざん笑ってきてやったわ!」

 完全に常連である。

 俺が執事喫茶のアルバイトに入れなくなり、シフトに穴が空いた。

 そのことに責任を感じ、駄目で元々と八尺に代役を頼んだら、あっさりと了承してくれたのだ。

 問題は衣装のサイズだったが、数店舗あるチェーン店に連絡をしたところ、なんとか一着だけ見つかったと聞いた。

 きついが着れないことはない、らしい。

 本人もわりとノリノリで、見た目のインパクトもあり、そこそこ人気だという。

 見てえ。

「あのえびす顔でキリッとしても、ぜんぜんカッコよくないわよね! 小林のマネなんてしたって、所詮永久寺は永久寺だわ」

「一緒に写真は撮ったか?」

「聞いてよくたじま! あれ指名すると一枚千円もするのよ! ボッタクリよ!」

 撮ったんだな。

「あと常連だけのお姫様抱っこサービスってのがあって──」

 ものすごく楽しそうだった。

 そういえば、短時間とは言え、露草とふたりきりというのは久しぶりだ。

 すこし聞いておきたいことがあったので、ちょうどいい。

「なあ露草。八尺の話もいいが、ひとつ聞きたいことがあってな」

「む? なによ」

「うずらはどうしている?」

「なッ! なんでアンタがうずらのこと知ってるのよ!」

 露草が立ち上がり、激昂する。

「落ち着け。夏休み前に、ちょっと助けたんだよ。その縁でな」

「あ……そ、そう。アンタ、ちゃんとうずらのこと認識してたのね。またいつもの助け逃げだと思ってたわ」

「……助け逃げって。否定はしないけど」

 事実、忘れていたのだから。

「助けられるほうの気持ちも、ちゃんと知りなさいってことよ。ま、そういうことなら納得してあげてもいいわ」

「ありがとう」

「最近は──そうね、なんか物静かになったわね。夏休みに入る前は、よくアンタの話を聞かせてってねだってきたけど、最近はそれもないし。振られたわね、くたじま。まー、うずらとアンタなんて、月とスプーンくらい釣り合わないけどね!」

「俺はお前にさじを投げたいよ」

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