第8話 霞敷く 行-1 決行
暑さもひと段落し、動きやすい季節になった。本日はついに決行の日。話がついてから今まで、幾度となく枝を主体として現れる練習を行い、じわりじわりと外へ出る準備を整えてきた。
初手は境内の周りをぐるりとまわるだけ。次に向かいの道を。そのあとは正蔵の家の軒先まで、といった風にゆっくり慎重に行動範囲を広げていき、何も異常がないことを確かめてきた。いまでは半径数百メートル程度なら安心して動ける。
いざ、決戦の日。鳥居のもとで葵や東岩に見送られながら正蔵と霞は境内を出た。正蔵は午後休を取り、昼間に自由に街を出歩けるように準備してくれた。この機会に何としても市井の様子を、人の営みを目に焼き付けるべく覚悟していざ、出発。
「…末娘、大丈夫か。」
「今のところ何も問題ありませんよ、大丈夫そうです。」
「ならば良し。ではまず学校横をぬけ、横町へ向かう。写真を撮ってほしいものがあったら遠慮なくその端末で言うと良い。」
正蔵がぼそりとつぶやく。無事にやり取りができるよう、スマートフォンを鞄に忍ばせているのだ。時折声を拾ってくれないこともあるが、それは致し方ない。何せ実体がないのだ、少しでも伝えてくれるのなら御の字だ。
「はいっ霞、了解です!ありがとうございます、不審者にする勢いで言いますね!」
「い、いや、それはそれで困るんだが…まあいいだろう、できるだけ応じてやる。」
すでに人とすれ違っているが、霞は鞄の中から袖を頭にかぶせ慎重に周囲を見渡し、正蔵はワイヤレスの通信機器を付けている。そのため周りからはちらりと見られるだけで済んでいた。また正蔵は名物宮司なことも幸いした。皆正蔵の方を見るので鞄の口が開いていることにも気が付かないのだ。心配事を極力最低限にできるよう様々な準備をしてきたことが功を成した。…たとえ、無断に高めの買い物をしたからと一時夫婦喧嘩に発展しそうになっていたとしても、それは今や些細なことなのだ。
まずは社の近くにある高等学校の横道を歩く。学校に植えられがちなけやきの木が朱や黄と鮮やかに色づき始めて、人々に季節を伝えている。正蔵は鞄からカメラを取り出し、シャッターを切る。スマートフォンは鞄の中、霞とつながっているため使わないでおく。できるだけ不審にならずに済む連絡手段を講じたのと、わざわざ鞄から取り出し仕舞うという動作の必要なカメラを使うことで鞄が空きっぱなしという無防備さをカバーする要素にしていた。
色づいた葉を眺めていると、体育館からはボールや靴の鳴るキュ、キュという音が、音楽室からは懐かしい童謡がピアノの音に乗って届けられ、穏やかな日常を感じさせる。ちらりと鞄の様子を伺うと、霞は体育館の様子を覗きながら、様々な音に心傾けている様子だった。
「どうだ、末娘。これは高等学校だ。生まれて十五年程経つとこういうところへ入学し、勉学と運動に励む者が多い。」
よく合格祈願で来ている黒服の子どもたちがいるだろう、覚えているかと聞いてみる。
「ああ、なるほど。あの子たちはこういった所に通う子なんですね。皆似たようなな装いなので珍しく思っていました。」
ねえ正蔵さん、この学校の様子を写真に収めてくださいな、木だけじゃなく、できれば人も映っているのがいいです、と霞は言う。
「ううむ、仕方ない…不審がられないと良いが…」
ぼそりとつぶやき、シャッターを切る。見事な木の葉と青春の一コマが収まる写真が撮れた。そろそろ移動しよう、と思ったその時、
「あれま、宮司さまじゃあないですか!」
「おや、山田さん。こんにちは。落ち葉掃きとは精が出ますなぁ」
いやなんのなんの、と手を振っているのは山田、この高校に勤める清掃員だ。今行っているような落ち葉掃きからモップ掛け、ワックスの付け替えに水道修理など様々な業務を行っている、学校運営に欠かせない存在だ。こうして正蔵がふらりと外へ出るとよく出くわし、簡単に世間話をするのがいつものことだった。
「それにしても、見事に色づいてますねぇ。思わず写真に納めさせていただきましたよ。ほら」
「おお、これはこれは。写真を撮るのもお上手でいらっしゃる。いやはや確かに見事ですなぁ」
「それもこれも山田さんがいつも手入れをしてくださっているからでしょう。良いものを見せていただきました。」
「はは、いやぁ照れますな、はは。ああ、せっかくのお休みにお時間頂いてすみません。お急ぎではなかったですか。」
「いえいえそんなことは。お久しぶりにお会いできてよかったですよ。まあでも冷えますし、そろそろ行くとしましょうか。それでは、ご自愛くださいね。」
「ありがとうございます、宮司さまも体調にお気をつけて」
手を振って見送りしてくれる山田さんを置いて、正蔵は歩きはじめる。
「正蔵さん」
「なんだ」
「外面良いですね、成長してますね」
「褒めてるのかけなしてるのかどっちなんだ」
「成長を喜んでいるんですよ、けなしてるわけないでしょう。」
「・・・」
「ねえ正蔵さん。」
「今度はなんだ?」
「・・・外ってすごく、心地いいんですね。」
ぽそりとつぶやく。
「そうか?まだ閑静な道だからそう思うのかもな。賑やかな道は喧噪がすごいぞ。」
「いえ、いえ。そういうわけじゃないんです。境内にいると迎えるだけですが、ここでは私の方が異質で、当たり前のように皆生活の気配がするのがとても新鮮なんです。かしこまっていない素の声が、音が、匂いがする。それは出てみなければわからなかったことです。」
本当に出てみることができて良かった。ありがとうございます、と礼を言う。正蔵はふん、と鼻を鳴らし、
「それはこれから行く観光地やら繁華街を潜り抜けてから言うんだな、後悔しても知らんぞ。」
とつぶやき、歩を進める。早歩きになって風が当たる。振り落とされないよう鞄に深めに潜る。しかし霞は知っているのだ、正蔵は照れると鼻を鳴らす癖があるのだ。早歩きになっているのもなんだかんだ感謝されて嬉しいのだろう。相変わらず感情表現が面白い子だ、と霞は思った。
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