最終話:体育のお話
体育なんて嫌いだ。
こんなことを言いながら、今朝方、御主人様は家を出て行きました。
何てことはありません。今日は、年に一度のマラソン大会なのです。
長い距離を、ひたすら走る。
喉が枯れようが、痰が溜まろうが、腎臓が痛かろうが、走る。
……運動音痴の御主人様には、拷問の一日に違いありません。
小3で逆上がりから距離を置き、小4でフラフープと決別し、小5で先生から専用のビート板を与えられ、小6で縄跳びと絶交した御主人様にとって、マラソンは宿世の敵と呼ぶに相応しい、諸悪の権化に他なりませんでした。
それなら休めば良いのでは? とも思うのですが、何でも、御主人様は同じく運動音痴の親友と、揃って完走することを誓い合ったのだそうで。
日頃ぐぅたらな御主人様は、時折、不思議な底力を発揮することがあります。
この傾向は昔からのもので、実は8年前にも、似たようなことがありました。
*****
──8年前。
「──おかあさん! ラビちゃんどこ?!」
「ラビちゃんなら温泉旅行に行ってるわよ」
……“温泉旅行”とは、“洗濯”の隠語です。
「うそだ!」
「嘘じゃないわよ。今日の夜には帰ってくるから、大人しく待ってなさい」
「むぅー」
御主人様は待ちきれず、家じゅうを探して歩き回りました。
私のラビちゃんを、取り戻さなければならない。当時の御主人様は、そのことで頭がいっぱいでした。
和室に差し掛かったとき、御主人様の“勘”が反応しました。
和室には室内用の物干し台があり、そこには、ベランダから取り込まれた洗濯物が、たくさんぶら下がっていました。
「……は!」
御主人様は物干し台を見上げ、驚愕しました。
わたくしが、物干し台の上に寝っ転がっていたからです。
何てことはありません。御主人様の涎やら鼻水やらで揉みくちゃにされた体を、洗剤と日光でリフレッシュしていたのです。
(……)
わたくしは、高さおよそ1,5メートルの物干し台の上から、御主人様を見守っていました。
「ふぅっ……!」
御主人様は、精一杯つま先を立て、目一杯の背伸びをしましたが、その指先は、わたくしのところまで届くはずがありませんでした。身長は、如何ともし難い子供の限界なのです。
「てぃ! ゃ!」
御主人様は、一生懸命ジャンプしました。それでも、わたくしのところまで届くはずがありませんでした。
「くぅぅ、……」
御主人様は涙目になると、トボトボとした足取りで、和室を後にしました。
(……まぁ、そうですよね)
わたくしは、物干し台の上で瞑想していました。
──御主人様は背が低いから、どんなに背伸びをしても、わたくしのところまでは届かないでしょう
──そのうち背が伸びれば、ここまで指が届くようになります
──実際、御主人様は2年前に比べて、随分と背が伸びました
──最近は、わたくしを押し潰して寝返りをすることも増えました
(……でも)
──ここまで手が届く頃には、彼女はすっかり成長していて、わたくしへの愛着を失っていて、そもそも、わたくしに手を伸ばすことも、なくなるのでは……?
そう思うと、わたくしは少しだけ、孤独な気分になりました。
タ、タ、タ、タ、タ……
(……──?)
そんな黄昏を断ち切るように、軽い足音が近づいてきました。
「──ラビちゃん!」
(御主人様……?)
息を切らした御主人様が、和室に駆け込んできました。
御主人様は手に、細長い積み木を握り締めていました。
(細長い物を持って走るのは危ないですよ……)
「……ラビちゃん! いま助けるよ!」
御主人様は物干し台の下に潜り込むと、積み木を高く持ち上げ、飛び跳ねました。
(細長い物を持って飛ぶのは危ないですよ……)
「せぃっ、……とゃっ! ……ほっ!」
積み木の先端が、ほんの少しだけ、わたくしの体に触れました。
(……)
「たやぁ! ……いけっ、……ふっ!」
30秒ほど飛び跳ねた後、御主人様はすっかり疲れ果て、畳の上に寝転がりました。
「はぅ……」
(おとなしく、夜まで待つことをお勧めしますよ)
御主人様は起き上がると、シュンとした後ろ姿で、和室を後にしました。
その時、細長い積み木を忘れていきました。
(……)
すっかり日も暮れて、茜色の光りが和室を照らす頃。
タ、タ、タ、タ、タ……と足音が聞こえてきました。
(……忘れた積み木、やっと取りに来たのでしょうか)
駆け込んできた御主人様は、おままごとで使うミニ・テーブルを担いでいました。
「よし……」
御主人様はミニ・テーブルを物干し台の下に置くと、細長い積み木を拾い、テーブルの上に乗り、また飛び始めました。
(落っこちたら危ないですよ……)
「ふぃやっ!」
わたくしの心配を余所に、御主人様はテーブルの上で跳ね続けました。
程なくして、御主人様はわたくしを小突き落とすことに成功しました。
わたくしは、畳の上に落下しました。
(いたた、……)
「ラビちゃん!」
御主人様はわたくしを拾い上げると、汗まみれの両腕でギュッと抱き締めました。
(ぅあ……。せっかく綺麗に洗ってもらったのに……)
「良かった……!」
御主人様はわたくしを抱きかかえたまま、畳の上に寝転がりました。
「…………zzz」
御主人様はさぞや疲れていたのか、そのまま寝息を立て始めました。
この時、わたくしは小さな感動を覚えていました。
──御主人様は、天才かもしれない
今思えば、親バカです。とてつもない、親バカです。これくらいのこと、どこの家の子だって、できるはずです。
それでも。
この時、わたくしは小さな感動を覚えていました。
御主人様は自分で課題を見つけ、解決策を考え、それを自ら実行に移し、一つの喜ぶべき成果を収めたのです。
これこそまさに、御主人様が成長した瞬間でした。
「……御主人様」
「zzz、……」
この時、わたくしは強く思ったのです。
御主人様の成長を、これからもずっと、御主人様の近くで見守っていたい。
願わくば、どんなに微力でも良いから、御主人様が成長する役に立ちたい。
「御主人様……」
「……だぃすき。……zzz」
御主人様は目が覚めた後、こっぴどく、お母様に叱られました。
汗と涎に塗れたわたくしは、そのまま洗濯機に連行されました。
……とまぁ、回想はこのくらいにして。
現在。
あの日にも似た夕陽が、御主人様の部屋を照らしています。
じきに、御主人様がマラソン大会から帰ってくる時間です。
今のうちに、何か、励ましの言葉でも考えておきますかね。
*****
「──ラビちゃん!」
突然、体操着姿の御主人様が、部屋に飛び込んできました。
「お帰りなさいませ。御主人様」
「ラビちゃん! 私ね、今日ビリじゃなかったんだよっ!!」
「おめでとうございます」
「ひゃっほーぃ!」
御主人様は汗っぽい匂いがする体操着姿のまま、ベッドにダイブしました。
「早く着替えないとお母様に叱られますよ。あと、風邪の原因にもなります」
「ぇー。……大丈夫だよぅ。帰ってくる間に汗乾いちゃったし」
御機嫌な御主人様は、ベッドの上をゴロゴロと転がりました。
「前にも汗をかいたまま寝て、次の日に案の定発熱したことありましたよね」
「知ってるよー。……確か、8年前だよね」
「覚えているのなら……」
「忘れるわけないよ。だって、ラビちゃんが初めて喋った日のことだからね」
御主人様は、ニヤリと笑って見せました。
「『──風邪を引くってことは、バカじゃないっていうことの証拠なんですよ』だったっけ。……ラビちゃんって、昔から励ますのヘタだったよね」
「……そうですか?」
それは、独り言を除けば、わたくしが初めて御主人様に語りかけた言葉でした。
「そうだよ。…………ん? でもちょっと待って。その理屈だとさ、私、このまま寝たら風邪引いちゃうんじゃない?」
「だから言ったじゃないですか」
ぃや、今の鈍い御主人様であれば……などという不届きなことも、思わないわけではありません。
でも、人間誰しもそんなものです。三歩進んで、二歩下がって、回り道をして、遠回りをして、寄り道をしているの間に、新しい小道を見つけて、気が付いたら、けっこう遠くに進んでいるものです。
勉強も、マラソンも、そして思い出も。だいたい、そんなようなものなのです。
「御主人様」
「なぁに?」
御主人様は着替えを終えて、振り返りました。
「これからも、ずっと一緒にいてくれますか?」
「ふむ……」
御主人様は、わたくしを高く持ち上げました。
「……望むところだよ!」
御主人様は力一杯に、わたくしを抱き締めてくれました。
~完~
ラビ先生の微熱教室 七海けい @kk-rabi
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