廃墟の温もり

 廃墟とは人の作り出した破壊された建造物である。作り出した、という表現もおかしいものではあるが実際建造物はいつか壊れるという結末からすれば壊れるものを作るという表現はあながち間違いではない。


 人は廃墟に対して「怖い」という感想を抱くのが大半である。

 それは自分の生きている空間とはかけ離れているからだ。家とは雨風を凌ぎ、安全に寝る場所であるだけではなく電気、ガス、水道が通り内装は綺麗に飾らているものだ。もちろんそこには人が暮らし、人間的な生活空間が広がる。毎朝起きて仕事に向かい、帰ってきたら暖かい風呂に入る。そして疲れを取るためにまた寝る。その生活空間には人の営みが生み出した有機的な暖かさが存在している。


 これとは真逆、すなわち無機的な冷たさにあふれているものが廃墟と言っても良い。

 人の管理の及ばない建物には明かりが灯る事は無い。外壁は徐々に劣化し鉄骨は錆びていく。雨風から守るガラスは粉々に砕け内装は朽ちていく。私達の当たり前からかけ離れた空間なのだ。だから人は有りもしない空想にふけってやれ心霊スポットだの自殺の名所と囃し立てる。


 ある意味この空間がどれほど私達の暮らしから離れているかを示す尺度となるだろう。この「未知」という曖昧な現状が人間の思考力の限界を排除し、理解の及ばない恐怖へ落とし込むのだ。

 そして多くの人間の望むものとは真逆の冷たい建造物こそが廃墟である。


 しかしここで一つの大きな変化がある。それは次第に崩れていくものから新しい生命が生まれるという事だ。

 まず最初に建物に雨が吹き込んで水たまりとなりそこにコケやカビが生える。次に地面に埋没していた、あるいはどこからともなく舞い込んできた種から短い草が生える。特に成長の速いツタ系植物はあっという間(それでも年単位だが)に壁や柱を覆い尽くし最終的には大きな木が生え建物は倒壊する。


 順序が異なる事はあれど、全く形は違うが結果的に生命を育んでいるのだ。先程の表現を借りるならば有機的な冷たさ、と表現しても良いだろう。そして私達の多くが望む自然と調和しつつも、現実感の無い幻想的な建物が成立する。ではこの有機的な冷たさは無機的な冷たさと何が違うのだろうか。


 私が思うに無機的な冷たさ、今回では廃墟であるが、こういった表現は私達の暮らしでは常に流動的であるのではないか。

 ということで最後に、無機的な暖かさについて考えてみようと思う。


 人はそれぞれ異なる感性を持つが一般論として、高層ビル群と森林のどちらが好きかと聞かれれば大抵は森林を選ぶ人が多いだろう。この質問自体が曖昧ではあるが人間の本能には緑と共に過ごして来た事実が刷り込まれている。


 時には木材として自分達の生活空間を維持し、あるいは食料として摂取したり着衣を作るための繊維、生命の維持に必要な酸素の供給等と様々な利用法がある。それはもはや役割を無くした緑ですら人にとっては無くてはならないものになりつつある。


 例えばそれはインテリアでしか役割を持たないもの、造花やドライフラワーが当てはまる。当たり前だがこれらは生物ではない。プラスチックや枯死体を利用したインテリアであるため光合成もしなければ成長もしない。であるにも関わらず私達はこれを飾るのだ。


 この不要ではあるが無くてはならないという矛盾を孕んだ表現こそが無機的な暖かさの正体では無いだろうか。


 このように無機的な冷たさは有機的な冷たさへ遷移し、有機的な暖かさを経て無機的な暖かさに至る。これが現代建築、引いては私達の暮らしの変遷なのだ。


 いつかは崩れてしまう物体。そこに隠れた温もりは案外、私達自身で生み出しているのかもしれない。

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