世界を語る
日々ひなた
虚無の正体
感情であって感情ではないこの感覚はやはり文字でしか表現できないのだと思う。なんともむずがゆく面白みのない綴りとなってしまうことを許してほしい。
さて、感情とはどこからやってくるのだろう。感情とは原因となる記憶や体験を想起したり経験することで生まれるものである。火のない所に煙は立たぬというように、原因の無い所に感情は沸かぬのである。
では、虚無感、空虚感とはどこから生まれるのだろうか。そもそも何もないということを考えてしまうことに矛盾が生じるのだ。何もないものは何もない。その事実に何か考えを及ばせたところで何もないのだ。つまり虚無感を感じるということはあり得ない。何も感じることが出来ないから虚無なのだ。
しかし、人々はよく「虚無感」という言葉を用い、「虚無」を感じるのだ。彼らが感じているものはなんだろうか。
虚無という名詞を検索すると「何物もなく、むなしいこと」と出てくる。これを感じる、つまり形容詞として認識している訳だから、虚無という概念は存在し、虚無感という感情もまた事実なのである。何もないという概念に考えを馳せるのであればそれは哲学や思想といった更に深い学問へと思考せねばならぬので、ここではもっと簡便に実際に体験した虚無を思い出して考えてみよう。
最も手軽な方法は自分の体験を書くことなので、私が感じた虚無を文字に起こしてみる。その時の日記の一文がこちらである。
「何もしたくない。」
この一文しか記されていない。確かにこれは辞書の通り虚無なのだろう。しかし感情というにはやけに味気ない。つまらないのだ。もっと、その時に考えていたことや記憶があるはずなのに思い出せない。きっと虚無にたどり着くまでの思考回路もあるはずなのに何もわからない。だからこそ感情であって感情ではないという奇妙な感覚に襲われるのだ。
文字通りにこの発言を捉えるのであれば目を開くことも閉じることもしたくない。考えることもしたくないし、生きたいとも思わない。そして死にたいとも思わない。つまり「どうでもいいこと」が私にとっての虚無感の正体だったのだ。そして「どうでもいい」という言葉は悲しいかな、辞書にすら乗っていない、この世に存在しない言葉だった。
なんともつまらない事実が私の虚無感だったのだ。感じないのではなく、感じていてそれでもなお感情に興味を持たない事実。そう考えるとこの論説文ともいえぬ稚拙な文を書くこともどうでもいい。私が生きていても死んでいても私には関係ない。私の存在もこの世に存在しないどうでもいい存在である。つまりそんなことを考える私が虚無だっただけの話である。
ただそれだけである。
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