傾国の魔女と亡国の竜③
著:フランジャス
その時、傾国の魔女は十八歳だった。
幼き頃は天使と言われ、乙女の頃は花の妖精と例えられた。
では今は? 成人した彼女は女神と呼ばれていた。「美しい」ということがなんたるかを体現している。美がこの世に形を成したのならば、こうなるのだろう。
「随分と身についたものだね」
デクミド伯爵がキャストラにそう言った。茶器を口に運ぶ彼女の流麗な様を褒めたのだ。
「お城の暮らしも今年で4年になりますもの、ここ最近でようやく身が覚えてくれたようですわ」
「それはまたご謙遜だね」
お茶の飲み方、頭の下げ方、口の利き方から踊り方まで、城には城の決まりがある。掲げられるほど公然なものがあれば暗黙と秘せられているくせに、破れば白い目でみられる物もある。海千山千の者どもが隙あらばの世界。よくぞ四年で人並み以上に仕上げたものだとデクミドは関心していた。
「花嫁修業も十分だ。そろそろ僕の愛を受けとめてはくれないだろうか?」
デクミドに招かれ城に登ってからというもの、求婚の申し出はひっきりなしだった。デクミドのような上級貴族に限らず子爵や男爵などの下級貴族、城に出入りする大商人、勇敢なる騎士も堅物の文官も、誰もかれもが彼女に惹かれ、そして求めた。
女神のお返事はいつもこうだった。
「貴方様に見合う女になるまでお待ちください」
「君のその台詞に舞い上がった者は大勢いるよ。……まあ、誰にでもそう言うものだから。関わっていれば気が付くがね」
「嫌ですわ、本心ですのに」
「こんなに心無い言葉があるものかね」
そこで会話が少し途切れ、キャストラは一口だけ茶を飲んだ。そしてデクミドから顔をそらし、窓から中庭を見下ろす。少し伏し目がちなその表情は神秘的だ。少女の頃にあった隙がことどとく消え去った。少なくともデクミドはそう捉えている。女としての魅力として隙をつくることが必要な時は、演じて隙を作った。キャストラをここまで理解しているのは自分だという自負がデクミドにはあった。
「心に決めた人がいるのかい?」
珍しい問いだった。キャストラを前にした男は他の男を探る余裕などない。城では一番の付き合いとなるデクミドこそが出せる話題と言える。話しかけた者を見もせず、彼女は言葉を返す。
「いないわ」
「……」
「消去法で言えばデクミド、貴方かしら」
「……珍しい。君が素で話すなんて」
気を使わず、笑顔も浮かべず、思ったことだけを口にする彼女を見るのは久々だった。
「まあ、ね。そういう時もあるの。誤解を生みやすいから、貴方にだけよ」
貴方にだけ、とは。これまた見るからに分かりやすい特別扱いだが、演じてはいないようだ。気だるげな表情には真実味があった。
「しかし、消去法か。それでも嬉しい僕は少し異常かな?」
「なに言っているのかしら、歓喜に打ち震えて欲しいくらいだわ」
「選んでくれた理由を教えてくれよ」
「そう、ねぇ」
キャストラが理由を挙げていく。
家柄、財産、権利、名声、デクミド自信の容姿、絵の才能。どれもこれも無機質な理由ばかりだった。
「おいおい、もう少し暖かな理由はないのかい? 優しいとか、気が利くとかさ」
「強いて言うなら、まともな話が出来るからかしら。他の男はあんまりにも熱っぽいから」
「なるほどね」
「でもね、やっぱり。体の芯からじゃないの。心の奥の、大事なところは乾いている」
キャストラは溜息をついてそのまま目を閉じてしまう。いつかは分かるかと思っていたが、成人してもついぞ味わうことがなかったその感情、恋とは、いったいなんなのか。城内で浮名を流す常連が、その実、恋をしたことがないとは皮肉な話だ。
「今日は本当に様子が違うね。なにかあったのかい」
演技も遠慮もないキャストラの振る舞いにようやく原因が気になったらしく、デクミドが水を向けた。
「母が亡くなったの。ついさっき訃報が届いたわ」
聞くが早いか遺族に哀悼の意を示すデクミド。こういう形式ばったことは貴族なら大抵の者が得意だ。心から共感がない様子はすぐに次の言葉で分かった。デクミドはあまり優しい人間ではない。
「あまり悲しそうではないね」
慰めて欲しいならデクミドではなく、他の誰かのところに行っただろう。女神の落涙を前にすれば、なだめすかしご機嫌をとる男は掃いて捨てるほどにいる。
「そうなの。あまり悲しいとは思えなくて。父の時もそうだった、寂しいけれど、悲しむまではなれなくて。城に来てから変わってしまったのかしら、私って、こんなに酷い人だったかしら」
「さてね。僕は、街に住む君を見たことがないからな」
「最近ね、目新しいと思うことが減ったわ。心がゆっくりと、どんどん錆びている気がするの」
なにか楽しいことないかしら、ぽつりそう呟いてキャストラは部屋から出て行ってしまった。帰りますの一言もないのは流石のデクミドも唖然とする。平気そうに見えて母の死が堪えているのだろうか。だが、それにしては様子が変だった。退屈そうな顔の女神に、そんな配慮した感情は感じられなかった。
退屈だ。
両親は亡くなった。唯一の友、ビスティは結婚し街を出た。
城に登った頃は毎日が忙しかったものだ。在りし日を思い起こす。元々キャストラは自信家な人物だった。この美貌があればどこででも人の暮らしが出来ると思っていたし、事実、贅沢にも城で暮らせている。だが油断もしなかった。この容姿に負けぬほど芸事を仕込んだ。白痴美は好むところではない。可愛がられるために愛嬌を持つことはあっても、本質は常に研ぎ澄まし、己を高めた。
退屈だと思うのは、ここ最近になり、全てを終えてしまったからと、そう感じているからだろうか。
自分という最上の玉を磨ききった感覚がある。少し前に巷で噂の物書きが自分を訪ねてきていた。童話を作るそうだが、姫の役に私をもって範をさせてほしいという頼みだった。童話のお姫様とは、ついにその域まで来たかと思った。だが、不思議のない話だとも思っていた。
なんの気なしの気任せに歩いていたら修練場の近くにまできていた。
若い兵士が私を見つけ目を輝かせる。暇でも潰そうか。
「精が出ますね」
月並みなこの言葉が一陣の涼風となったのか、兵士たちは声を張り上げて稽古に励む。
わざわざ兵長が出張ってきて私に応接する。貴族位など持っていないのだからそうかしこまらなくとも良いのだが、デクミドとの仲を噂される次期伯爵夫人だ。尤も、そうでない頃からこんな様子だったが。
兵長はいつも舐め回すように私を見る。生憎、お前なぞに私を触らせる気はない。この先誰かとそうなる予定もないが……いつかのビスティの言葉をふと思い出す。えり好みして老いるのは嫌だが、とはいえ私ならあと十年は不要かな。
「見ていてもいいかしら?」
「ええ、お気が済むまでどうぞ」
特等の観客を前に兵長が気を利かせてくれた。若い兵士たちが刃引きした剣を持って試合を見せてくれたのだ。刃のぶつかる高い音、鍔迫り合う低い音、駆け込み飛び上がり忙しく目まぐるしい。紙一重をよけて返す刃、刃引きはしても剣は剣、鍛え上げた太い腕が、鋼の板を振るうのだ、刃の軌跡がすっと一筋、綺麗にひかれた。斬った、と思う。肩を押さえ蹲る兵士、薄くではあるが、肌が切れていた。赤い血が線を引いている。
あれ、なんだろう。この感覚は……。何だか、目が離せない。
「あの、血が……」
「お気になさらず、掠っただけですよ」
肩を押さえた兵士は兵長の檄を受けすぐさま立ち上がる。
違う、心配はしていない。
危ない。思わずこう口走りそうになった。
血が、綺麗。
そう、そうだ。美しかった。今まで戦う者をまじまじと見ることはなかったが、これはいい。芋と見分けがつかないような顔をした兵士たちが輝いて見える。剣の一振り、流れる血、それでも戦う。気付けばキャストラは用意された椅子から前のめりになるほど見入ってしまっていた。握った手に汗を掴んでいるのが分かる。あぁ、どきどきしてきた。
よし、決めた。
もうしばらく見ていたかったが、もっと質の高いものを見るため。決めたからには行動に移そう。
兵長と兵士たちに礼をして修練場を後にする。
キャストラが思うならば叶えてくれる人は大勢いる。たとえそれが城の主、ダフネス公爵閣下だとしてもだ。
玉座に座るダフネス公はちょうど引っ切り無しの訪問を打ち切って一休みしようとしているところだった。
「珍しい顔が来たな」
この国でもっとも偉い人間は、低く、太い声でキャストラを迎えた。
ダフネス公爵は豊かな公国の偉大な主だが、キャストラにとっては他の者と大差なかった。お願い事をするのに手順が多く必要で面倒だと思うくらいだ。大岩のような顔をした峻厳なダフネスも、キャストラを前にすると好々爺のようになった。
「ダフネス様に……お願いがあるのですが」
科をつくってにっこり笑うキャストラ。ダフネスは内容も聞かずに安請け合いだった。彼女の願いは、国営の闘技大会を開くことだった。兵士の躍動する体に、流れる血と汗に、この久々の感動をもっと大きくして味わえたなら、それはいったいどんなに満たされることだろうか。
流石の王もその日に二つ返事で、とまではいかなかった。そしてキャストラと言えども魔法使いではない。人は弄せど一晩で闘技場は建てられない。だが、承認されてからはとんとん拍子に彼女の望みが形となっていった。開けた場所を押さえ、石を積むための人を揃え、腕のいい職人を揃えた。キャストラの突発的なこれらは思いのほか軌道に乗っていたと言える。人々に仕事が与えられ、終わった後は新たな名所が金を回す。元々が豊かであった公国だ、国の貯金と相談しても悪くない経済行為だったのだ。
そして、女神の望みは見事に形となった。
今日、完成した闘技場は記念すべき第一回大会を開く。
満員御礼、割れんばかりの歓声の中、一人の美しい女が舞台に立っていた。
「この日を迎えられたこと、大変嬉しく思います」
闘技場建立の発案者、キャストラが闘技場の中心に立って演説をするのだ。彼女がこの日をどれだけ待ったか、嘘偽りのない感謝の言葉と、この闘技場で戦う全ての者に祝福あれと高らかに演説を続ける。会場中の人間が見惚れていたことだろう。男は言うまでもなく、女も子供も、空気でさえも、不思議と声が響きよく聞こえるのは気のせいではない。魔術師にあつらえさせた拡声の魔動機のおかげだ。
キャストラは今日までよく準備をしてきた。
全てはこのため、
この日、
この時、
この場所で、
今、解き放つ。
「一番強い者と結婚します」
人々の歓声と拍手が、勢いを殺し始めた。
「今日ここで誕生する強き者へ、私は求婚致します」
今、これだけの人が集まりながら異様にも静けさが訪れる。
キャストラは背筋が震えるのを抑えきれない。怖いのではない。はやくぶちまけてしまいたい。
「強い者は美しい。流れ出る血はもっと美しい。極上の戦いを私に見せて。誰も彼も切り伏せて私を抱きしめて。ただ強くあればいい。生まれも育ちも老いも若きも関係ない。必ず私が愛しましょう、だから」
言葉を切る。目一杯、溜めて。
「はやく私を抱きしめて、花芯が疼いて仕方ないの」
バサリ、と。魔女はドレスを脱ぎ捨てた。何か細工があったのか、胸元の網紐を引くだけでいとも容易く一糸纏わぬ姿になった。この時のために用意された特注品のドレスだというのに、だが、もはや、誰の目もドレスなどは見ていない。女神の素肌はどこまでも滑らかで美しい。惜しまず隠さず両手を広げ迎え入れるように女神は中心に立っている。
響く、咆哮。
ここはもう、人の形をした獣がいるだけだった。誰しもがキャストラを求めた。彼女の演技が声が仕草が全てが人を魅了する。知らず幻惑の大魔術の域に達したのだ。戦士も観客も中心に集う、だが女は一人、となると当然、こうなる。
喧噪のあちこちで悲鳴が混じる。もうすでに断末魔に違いのない叫びまで上がってきた。魔女は笑う。心から。嘲り笑うのではない、戦う人を心から尊敬し、命までも奪った者を褒め、愉快で笑うのだ。居ても立っても居られない。気がづけばキャストラの体が汗ばんでいた。心臓は早鐘のようにうるさい。
「おかしくなっちゃいそう! わたし、こんなにドキドキしてる! いいのかしら、こんな、こんなのって、最高! 頑張って! みんな死ぬまで頑張って! ずっと応援してるから!」
血の匂いが充満してくる。むせ返るような鉄の匂い。せき込みながら彼女は笑い続ける。血飛沫の温かさに感動した。紅玉をばら撒くように綺麗だと思った。鳴り止まぬ諍いの声と響き続ける金属の音、怒号、汗が飛び散る。誰かが誰かを押し倒した。倒れたまま短剣で誰かを刺した。ああ、あぁ……また、血が……。
何十人かの血を浴びたキャストラは体を赤く斑に染め上げていた。不思議なことに流れ弾は一つもない。怪我も承知で臨んでいたことだが、ただ何となく自分は傷を負わないとも思っていた。
どれだけの時間が過ぎただろうか。戦いは少しずつ洗練されていった。暴動の津波は、まず弱いものを飲み込んでいく。戦うという泳ぎ方を知っているものが残っていく。あとどれくらいかかるだろうか、数は確実に減っていく。残れば残るだけ強い者だ。いったいどんな猛者が最後に立ち、私を抱くだろうか。キャストラは胸の高鳴りを抑えきれない。
予感がある。
とんでもないことが起きる気がする。すでに尋常ではないこの場をさらにひっくり返すような何かが起きるのではないか。望みすぎではないだろうか。ここまで混乱を極めたのだ、これ以上に乱れることなどあるのだろうか。だが、予感がするのだ。大きなモノが迫ってきている。取返しのつかないような何か、何かが……。
予感は、空から降って降りた。まず始めは風が吹きつけた。空から下へ叩きつけるように吹き下ろされる。肩をぐっと抑えられるような重圧は風のせいだけではない。自然、見上げる。
竜が、居た。
『強い者と結ばれる。そう言ったな』
これが竜の声なのか。頭に直接響くようだった。
キャストラが竜を目にした時、雷に打たれたような気がした。釘付けだった。城に来てからは熊も獅子も見る機会があった、獣というのはどうしてここまで大きいのかと感心したが、これは、比べるのもおこがましい。灰褐色の鱗に包まれ、瞳は燃ゆるように赤い。空を我が物とするように堂々とそこに在る。生物全ての覇者、真なる強き者。そうしてキャストラは、竜と、恋に落ちた。
傾国の魔女は竜の背に乗って公国を焼いた。亡国の竜ヴァルジアは空を滑り、火を吹き、在るもの全て燃やし尽くした。ダフネス公国は一夜にして滅んだのだ。皮肉にも、魔女の作り上げた闘技場は大した損壊もなく残っている。黒い瓦礫と焼け焦げ崩れた国の建物の中で、闘技場だけが綺麗なまま残るのは異様な景色だった。
これが傾国の魔女と亡国の竜の物語だ。
その後、魔女キャストラと竜ヴァルジアは新居を構えるため銀鉱山へ飛来したのだが、それはまた別の機会に書くことにする。
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