-30 罠
カイトとサモティが湖に辿り着いてから、既に一か月が経過しようとしていた。その日々は平穏そのもので、喉が渇いたら湖で水を採取し、お腹が空いたら山の中で生き物を探し、夜になったら焚火を囲って横になるだけの生活。
そんな生活も、ようやく終わりを終える。それは太陽が真上に辿り着いた時の出来事。湖の方からカイトとサモティへ向かって声が掛けられる。
「自慢好きの仲間がそろそろここへ来る。仲間から聞いたから間違いない」
「そうか。それなら、作戦通りに頼む。先に言っておくが、失敗したら――」
「あぁ、分かっている。失敗した場合は、どんな手を使ってでも鏡を手に入れる。逆に、作戦通りに進めば俺の頼みごとを聞いてもらえる。そうだろ?」
カイトは首を縦に振って肯定した。
男はその反応に満足したのか、ポチャンと音を立てて湖の中へと消えていった。
「カイト、あの人のこと信じていいの?」
「大丈夫だと思う。絶対とは言わないけど」
「どうしてそう思うの?」
「自分なりの正義を果たそうとしているからかな。恐怖で強制するよりもずっと信頼できる」
「……正義って何なんだろうね? 私には良く分からないや。カイトがあの人の頼み事に手を貸したとして、その後どうなると思う?」
「もう一度繰り返すだけだろうな。サモティはどう思う?」
「私もカイトと同意見。どうせもう一度繰り返す。どうしてこんなに意味の無いことをするんだろうね?」
「自分たちは大丈夫だと思っているからだろうな。多分その考えは正しい。でも、次の世代にそれが引き継がれるとは限らない」
「そっか。繰り返すとしたら今いる人たちが皆死んじゃった後だもんね」
一瞬だけ水面に出てきた手を視認してから、二人は湖の縁へと近づいて中を覗き込む。サモティは両手を組んでぐっと体を伸ばす。
「んーっ、疲れたー!」
「ずっと歩きっぱなしだったからな。ここで少し休憩するか」
「うんっ!」
そう言って湖へと伸ばした二人の手を、四本の腕が襲った。サモティの方は掴まれただけでそのまま動かず、カイトの方は腕を掴んだ者が水面へと浮かんでくる。
「な、何が……」
浮かんできたのは人間の女のような容姿をした生き物だった。ただし、隣にいる共謀者と同じように全身が鱗で覆われていて腰から下には立派な尾びれが付いている。
カイトが浮かんできた女に声を掛けようとする前に、男が水面から嬉しそうな顔を出す。サモティは服に水を掛けられて嫌そうな顔をしたが、男は気が付かなかった。
「鏡、頭がまだ持ってるらしいぜ!」
「こいつから聞いたのか?」
「あぁ、そうだ!」
「そうか、ならこいつはもう用済みだな。今日の夕食にしよう」
そう言うと、カイトは逆に腕を握り返して陸地へと放り投げた。もう体を動かす体力も無いのか、女は体をピクリとも動かさない。
「で、仲間は?」
「少しだけ待ってくれ」
そう言うと男は湖の中へと戻っていた。それから五分ほどすると、目に見える範囲にぷかぷかと何かが沢山浮いてくる。それは男の仲間たちだった。全員が目から上だけを水面に出して、カイトとサモティに色々な感情の入り混じった視線を向けている。
更に十分ほどが経過した頃、男が戻って来た。
「これで全てだ」
「なら早速作戦に移ろうか。かなり範囲が広いが、魔法は大丈夫なのか?」
「魔法を扱えるのは俺だけじゃない。これだけ仲間がいれば大丈夫だ」
そう言うと、男は再び湖の中へと戻っていった。それから少しして、湖の表面に氷が張られ始める。それは幅二メートルほどで、まるで道のように湖の向こう側へと真っすぐ続いている。その上を進もうとして、カイトは付いてこようとするサモティを手で制止する。
「この状況で裏切られたら、僕はともかくサモティは危険だ。陸地の方で待っててくれ。お腹が空いたのならあれを食べててもいい」
「うん、分かった」
サモティはそう答えると、カイトが指し示した食料の横でぺたんと座った。
それを確認してから、カイトは魔法で作ってもらった氷の道を真っすぐ進んだ。左右から視線を感じるが、それを気に留めることなく歩き続ける。三十分ほど歩いたところで、ようやくその終着点へと辿り着く。カイトの真正面には、湖の端まで続く氷の壁が左右へと広がっていた。その壁は高さ1メートルほどで、さらに湖の底まで続いている予定だった。
しかし――。
「すまない、人間。もう少しだけ時間をくれ、まだ底まで氷を作れてない」
そう言われて、カイトは大人しく待つことにした。そこから更に十数分後、男が水面から顔を出す。
「待たせてすまなかった。もう大丈夫だ」
「そうか」
カイトはそれだけ答えると、壁の向こう側に右腕を伸ばす。その腕はすぐに黒く染まり、どろりとした質感へと変わる。やがて腕へとまとわりつく液体状の黒い何かは水面へと落下し、広がっていく。カイトの腕から零れ落ちるそれは徐々にペースを上げ、湖を物凄い速さで真黒に染めていく。氷の壁の向こう側の水面は、やがて水面が見えないほどに死体で埋まっていく。当然その中には、カイトに協力を頼んだ者たちと同じ種族の姿も多く見える。
バシャバシャと音がしだしたのでカイトが左右を見ると、この湖に住まう者たちが跳ねて氷の壁の向こう側を除いていた。やがて彼ら彼女らは歓喜の声を挙げ、仲間内で喜びを共有し始めた。
カイトの視線に気が付いた男が、申し訳なさそうにカイトへ近づいた。
「すまない、迷惑だったか? 集中できないと言うのであればすぐに止めさせるが……」
「いや、気にしていない。ただ羨ましいと思って見ていただけだ」
「羨ましい……?」
「何でもない。忘れてくれ」
カイトはそう言うと、死体で埋め尽くされている湖へと視線を戻した。
この世界に住む者の大半は、気に入らない相手が命を落とすと狂ったように喜びを爆発させる。それをカイトは、つい先日サモティを守ろうとしたときに少しだけ実感した。しかし、とてもではないが今周りにいる者たち程の喜びを感じることは無かった。
カイトは予想する。サモティが人間に殺されそうになった時点で全ての人間を殺したいと思う程に恨み、サモティがこの湖に住む者に殺されそうになった時点でこの湖に住む者の事を殺したいと思う程に恨むことが普通なのだろうと。しかし、目の前の景色を見ても特に何かの感情が揺さぶられることはない。
カイトは、改めて自分がこの世界では欠陥品なのだと悟った。
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