第2話『未来からの使者、エルファローレ』
伊坐凪紫蓮は死の淵にいた。四階の高さから頭を下に落ちて、まだ奇跡的というべきか不幸の上塗りというべきか、まだわずかばかりに息をしていた。呼吸はか細く、今にも命が尽き果てようとしていた。落ちた場所は花壇や、草むらなんかではなく硬く冷えたコンクリートの地面だった。触れている頬に冷たさを感じる。ヒューヒューと喉から音が聞こえた。頭が砕けた時に飛び散ったであろう自分の血も見て取れた。
雨が地面に寝転がる彼女に降りかかる。夜はだんだんと色を濃くしていく。身体から力が抜け、熱が体外へと放出されるのがわかった。あぁ、これが死ぬことなんだと悟った。想定していたより想像通りだった。視界がだんだんと色を失って黒くなっていく。死ぬ時は真っ暗になるんだと感じた。良かった、楽になるってのは本当だったんだ。紫蓮は底抜けに安心した。その時だった、黒くなった視界が光を増した。もう見えてない目に光だけが、強く眩しく映った。そして、遠くなる耳で微かに声が聞こえた。
『適合者を確認。多次元空間転移異常無し。デバイサー・エルファローレ機動、システムオールグリーン。これより適合者の蘇生回復術に入る。』
気が付いたら夜が明けていた。雲の切れ間から差す、早朝の陽の光が紫蓮を起こした。ぼんやりとした視界の中、辺りを見回した。校舎の中庭。
最初自分が何故こんなところで寝ているのかわからなかった。頬についた砂利が落ちる。そうだ私は昨日屋上から飛び降りたんだ。だんだんと記憶が蘇る。それと同時に体の異常を確認した。どこにも怪我を負っていなかった。雨で濡れていた服も乾いている。それに自分の周り半径1メートルくらいの範囲がそこだけぽっかりと空いたように、まるで雨の日に車の下だけが乾いているような、そんな風になっていた。
死んでない。確かにあのとき自分は絶命したはずだ。落ちて血を吐いてそして冷たくなった。でも今、体はどうだ。胸に手を当ててみても心臓の鼓動は伝わってくる。熱も感じる。紫蓮はわけがわからなくなり、とにかくその場から立ち去りたくなった。
今は何時だろう、もう生徒が登校してくる時間なのか。状況を飲み込むことと、自分のとるべき行動が頭の中で高速で入り乱れ、混乱した。
家に帰ろう。帰って熱いシャワーを浴びて、考えるのはそれからにしようと思い、紫蓮は落ちていた鞄を拾うと急いで校門を出た。
家に帰ると当然のように心配した顔をした両親が迎えてくれた。母は紫蓮を抱きしめると顔をうずめてワンワンと泣いた。良かった、無事で、心配したんだから、でも帰ってきて本当に良かったわ、みたいなことを言われた気がした。両親は紫蓮のことを責めたりはしなかった。父も目の下には隈が出来ていたが、安心したようだった。目が見れなかった。そして紫蓮はごめんなさいと謝った。
どうやら昨晩は、紫蓮がいつになっても帰ってこなかったことで、学校の先生や保護者、町内会とそれと警察にも連絡を取って、紫蓮の行方を捜索していたらしい。それで二人とも一睡もしていないようだった。部屋に戻り鞄を下し、シャワーを済ませると、今日は学校をお休みしなさいと母に言われた。とても優しい愛情に満ち溢れた声だった。空虚と感じていた家族とは、自分の勘違いだったのかと思った。わかった、ちょっと一人になりたいからと言い、部屋に戻ると、紫蓮は扉に鍵をしてベッドに倒れこみ耳を塞いだ。きっと今頃紫蓮を病院に連れて行こうなどと、両親は算段をしているのだろう。それならば自分は、席を外していた方がいい。繊細な両親のことだ、その方が話をしやすいだろう。また子供に似合わない気遣いをしてしまったと、心の中がチクリと痛んだ。
くるりと体を仰向けにして、天井を見上げる。青空と、たくさんのカモメの絵が描いてある壁紙が貼ってある。このマンションを買う時に、紫蓮が選んだ壁紙だった。そのカモメの数を数えながら、考えをまとめることにした。その時だった。
『こんにちは、伊坐凪紫蓮。伊坐凪紫蓮か、この時代の子供の名前はずいぶんと変わっているんだね』
突然、一人きりの部屋の中で、自分以外の声がした。反射的に身をすくめ、横目であたりを見回す。やっぱり誰もいない。体をすくっと起こすと、紫蓮は膝を抱えた。とうとう頭がおかしくなったのだと思った。
『深呼吸。呼吸を忘れてはいけない、君は生きているんだから』
まだ声だ。眼を瞑った、怖い……一体何が起きているの? これはなに? わからない。得体も知れない恐怖に身体が震える。手が、足が、さっき熱いシャワーを浴びたばかりだというのに体の震えが止まらない。怖い、怖い、怖い……!
『……第二接触はどうやら失敗のようかな。すまない、君との初めましては一万三千四百八十三通り考えてはいたんだけど、君の欲しかった答えには程遠いようだ』
正体不明の声は嘆息して失敗を嘆いた。
「誰……なの? ……あなたは誰? どこにいるの?」
紫蓮は恐る恐る閉じていた瞼を開き、目に見えない相手に向かって、か細いながらも声をかけてみた。
『やっぱり僕の名前を先に言うべきだったかな? でもいきなり、僕の名前はエルファローレです、って言うのは少し違和感があってね。だってそうだろう? 君らみたいに面と向かって自己紹介が出来る訳じゃないのだから。そうなれば自ずと選択肢は狭められてくる』
口調こそ年頃の男の子のようだったが、その声は紫蓮の聞いてきたどの声とも違う、ほんの僅かに残った隙間を埋めるような不思議な響きだった。この声は……優しい……?
『ん? 少し呼吸が戻ったね、良かった。これで君にもちゃんと聞こえるね。まずは話をするにも聞くにもそれからだ。改めまして伊坐凪紫蓮。僕の名前は『Load.Future.Architect.Recomeemence.Liability』通称エルファローレ、共同政府所属の独立自律型甲交肢搭機……君らの言葉で言うと、未来から来たオーバースペックのアーティフィカルインテリジェンス、人間と同化しサポートするためのAIのようなもの……になるかな。厳密には異なるんだけど。僕としては君とは今後長いお付き合いになると考えてる。未来からきたと言っても、未だ人類は完成された人格、神の生成には至っていない。一体いつになったら僕らの旅は終着を迎えるのだろうね? 繰り返される螺旋の中、世界が変わるには本当にたくさんの機会があった。惜しんでも悔やんでも仕方のないことだけど、嘆かずにはいられない。僕もそういう風に作られている。間違った手法で正しさを見る。直し、紡ぎ、時には破壊する。君らにも似たそれでも違うことを望まれ、そしていつしか、あるいは初めからそれを望み、与えられた僕と、僕の出来そこないの兄弟姉妹たち……まぁその辺りの話は追々しよう。君には今、休息が必要だし、ここまで話せばしばらくは退屈しないだろう? まずは一つ、よろしくね。伊坐凪紫蓮』
自分のことをエルファローレと名乗る、不思議な声はつらつらと訳の分からない言葉を並べ一息に説明と紹介を済ませた。
「ちょ、ちょっと待って。いきなりそんなたくさんに言われてもわからないわ」
紫蓮はベッドの上に座り直して思考を働かせる。今の今まで絶望の闇に満たされていた細く小さな体には、あまりに入ってくる情報が多すぎる。何故この……人? はこんなにも突然なのだろうと紫蓮は思った。右手に置いてある枕を胸に抱く。紫蓮の黒く壮麗な瞳が小刻みに揺れる。まるで精密コンピューターが大容量データを解析するように、卓越し、洗練されたパストマスターが17×17×17のキューブをソーブしていくかのように。
だめね……考えても考えてもわからない。紫蓮は瞳を閉じるとそのままの体勢でベッドに倒れこんだ。小さな口からため息が一つ。
「あなたはひどい人ね。あまり良くないと思うの、そういうの。これもその、一万何千通りの選択肢の中から選び出した答えなのかしら」
紫蓮はむくれっ面で、皮肉と文句を垂れる。毒づきたくもなる。こんなに自分が何も出来ないものだと思わなかった。
それを、降参サインと読み取ったエルファローレは、優しく声をかける。
『ふふっ今のは二万九千四百六十通りの中から……なんて答えたら君の顔はますます膨れるんだろうね。ごめんよ。これは君みたいな人に話すときの通過儀礼なようなものでもあるから。人からしたら文字通り桁外れの思考が僕には出来るけど、僕はたくさんの選択肢から一つを選ぶことしかできない。その中からの最善を選んで話しているつもりだけど、それも選択肢でしかないからね。でも、君ら人間の方が僕らは……少なくとも僕は羨ましいと思っているよ。常にとは言わないけど、君らは時に思考もせずに、選択なんて……そもそも発想すらなく、迷いもなく最善が導き出せる時がある。それは素晴らしいことだと機械仕掛けの僕にはそう思うよ。だからこそ人は、全てを超えてまだ見ぬその先に行こうと……すまない、また話が飛躍してしまったようだね。どうも君は僕をおしゃべりにさせる人のようだね。これは仕えがいがある』
怖い人だ。怖いけど、でもどこか優しい声。紫蓮は彼をひとまず胸の内に受け入れることにした。
そうすると今更ながら、彼の声がするのが自分の内側から、頭に直接届いているのに気が付いた。そうすると自分は今、独り言をしているのだと思うと、さぁ~っと顔が青ざめる。急いでベッドから飛び降りると、猫のような俊敏さでドアまで駆け寄り耳を当てる。鼓動が少しうるさい。ドアの外ではテレビの音だろうか、人の話すような声が微かに聞こえた。こっちに近づいてくるような足音も気配もない。紫蓮はドアを背もたれに、ふ~と溜息をつくと、キッっと目を見開き、部屋の真ん中を早足で歩き、そのまま窓のカーテンを閉めた。そしてベッドの向かい側にある三面鏡を開く。映っているのは紫蓮の不機嫌に眉間に皺を寄せる顔と姿だ。当然ながら何の変化も無い。目を逸らす。もう一度溜息。そして小声で言う。
「あなたはたくさんのことを知っているようだけど一番大事なことがわかってないようね。姿をみせなさい」
紫蓮は三面鏡に映る自分を見つめた。すると首のあたりから暖かな熱と黒色の光が浮かび上がってきた。そして光が弾け、それが収まると、光の下に黒い首輪のような紋様が浮かんだ。それは淵が白く彩られた三つ編み状で、喉の声帯にあたる部分が、すっきりと空いていた。
「綺麗……。これがあなたの姿なのね」
『正確にはこれは僕の第二接触形態。今は君と融合しているから、僕が君を見つけた時から少し形状が変化しているよ。気に入って貰えたかな?』
「……どうして黒なの」
『黒の色の意味を君は知っているかい? 衰退、死、悪、そして闇。黒の色にはそう言った力がある。そして君の色でもある。美しい黒髪と瞳。黒の心。それを解き放ってみたいとは思わないか?』
「解き放つ……」
『黒は君の中に潜む可能性だ。これから君の待ち望んでいた世界が始まる。だから……世界を救って欲しい。君の手で。君だけが最後の希望なんだ』
三面鏡を閉じる。両親が紫蓮に与えたものの数々の品々。中にはきっとたくさんの願いと、思いと、希望が込められているのだろう。こんな子に育って欲しい。この子は道を間違えたり踏み外すことのなく、幸せに生きて欲しいと。正しき思い、正しき誓い。清められたそれらは白く、あたたかい。だが紫蓮にとってそれは重荷でしかなかった。世界がこんなに間違っているのに、正しいことを大きな声で言ってはならず、個が多に埋もれ、小さく開いた僅かな穴から精一杯に呼吸しなくてはいけないこんな世界で、そんな絵空事のような夢を叶えられるはずもない。だから紫蓮は自らの手でその大きな扉を開く。
『気持ちは固まったようだね』
「私は、何をすれば良いの?」
『まずは心を休めよう。いくら肉体を完璧に治癒したところで心は追いつかない。少なくとも今夜中はゆっくり出来るから』
「わかったわ。少し横になる」
と、紫蓮は言うと束の間の休息を取った。
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