白の絶対魔法
柳 真佐域
第1話『命消えて、そして』
しとしとと降りしきる闇夜の霧雨に、頭からじっとりと体を濡らし、伊坐凪紫蓮は誰もいなくなった校舎の入口に立ち尽くしていた。
時刻は20時25分、生徒も教師もとっくに下校して、あるのは赤や青の非常灯の光ばかり。それが暗い廊下をポツリポツリと頼りなさ気に照らしている。
少女の黒くて長い髪の毛はたっぷりと湿気と水分を含んで、頬にまとわりつく。日本人形のように前髪を眉の下で横一文字に切り揃え、腰まで伸びた髪の先端に、伝ってきた水滴が垂れていた。
美しい顔立ち。湿気り始めた蒸し暑い6月には似合わない表現だが、肌は雪のように白く温度を感じさせない。筆であつらえたような細く少し濃いめの眉は、少女の凛としたしなやかさを表していた。
しかし今、その眉はハの字に項垂れている。顔に生気は感じられず、しかし眼には鈍くはあるが微かに光があった。
不気味で危険な香りのする光。その光を明滅させながら紫蓮は、校舎裏の非常階段をとぼとぼと上った。
錆びついた階段は一歩ずつ踏み出す度に、ギシギシと軋んだ。
紫蓮は真っ赤なランドセルが背負っていた。
紫蓮は小学6年生だった。
4月に進級したばかりで、今年から校舎の四階にあるクラスに在籍していた。
紫蓮の学校は進級するたびに上の階へとクラスが移動するシステムになっている。
都心にほど近いが、だからと言って首都圏とまで言えない中途半端な位置にある市立羽衣小学校は歴史もまだ浅く、生徒数や校風に特に目新しいところや目を見張るところもない。ごくごく普通で平均的で平凡な学校だった。それは紫蓮の実感からの見立て。他の学校に通った経験もないので、何が平均なのか、何を持って平均なのかわからないが……クラブ活動などで、他校との交流があれば違ってくるのかもしれないのだが、入学してから今まで紫蓮はどのクラブにも属してこなかった。
その希望があれば、叶ったかもしれないが……いや、実際、心を惹かれることも、クラスメイトに誘いをかけられたり、なんてことも何度かあった。
でも自分の状況を考えると、断らざる負えなく断り続けることと、諦めることを繰り返して次第に紫蓮自身、そのことを考えることをやめた。
そんな紫蓮に対して、周囲の人間も声をかけることをしなくなった。
非常階段の4階まで着くと、背負っていたランドセルを降ろした。
中に入っていた黒の筆入れを取り出すと、さらにその中に入っていたスチール製の定規とコンパスを取り出した。
そして定規で非常ドアのガラスの隅に、直角三角形が出来るように傷をつけると、コンパスの針の部分を使って窓を割った。
初めの一回では力が足らず、もう一度叩きつけるように針を突き刺すと、音を立ててガラスが割れた。
テレビで見たように、最小限で窓を割るつもりでいたが、思いのほかガラスの亀裂は大きくなってしまった。
不意に右手に痛みが走る。手を切ってしまったのだ。ざっくりと開いた傷口から真っ赤な鮮血が垂れる。
それを観察するように眺めた紫蓮は、スカートのポケットにしまっていたハンカチで抑えた。ひどく機械的な動きだ。
まるで電池の切れかかった時計仕掛けのおもちゃのような、音と動きがずれているようなそんな違和感があった。
本当に右手に痛みを感じたのだろうかと思わせるような。紫蓮はハンカチを結んで止血すると、定規とコンパスを行儀よくしまった。
そして、割れたガラスの隙間に手を突っ込み、閉まっていた鍵を開けた。
校舎の中に入っても、じめっとした湿気は変わらなかったが、外より幾分か涼しい。
暗く誰もいない校舎に並ぶ教室は、いつもと違って新鮮に見えた。シンと静まった廊下も先の見えない暗がりも、怖くはなかった。感覚が麻痺しているのだ。
闇が異様なほどに彼女に馴染んだ。彼女の方が闇と同化したとも言えるが、ヒタリヒタリと小さな小さな足音だけが、そこに独り歩きしているかのような。
そこにあるのは身体を失った霊魂が、 まるで学校の七不思議や怪談にでてくるオカルトめいた空気を放っているかのようだった。
一学年分の廊下を歩くと、屋上へ続く階段が現れた。
昼間とは雰囲気の違ってはいるが、ここは彼女の通っている学校だ。現れたという表現はおかしいかもしれない。彼女からすれば、ただ階段まで歩いてきた、夜の更けた暗い廊下を、だ。彼女には全てがありのままに見えた。
暗いものは暗く、踏みしめたリノリウムの廊下は堅い。ただそれだけだった。無機質でなんの期待もできない世界。退屈で窮屈で、空っぽの世界。紫蓮がこれまで過ごした12年で感じ取った感覚。見てきた世界のありようだった。
幼い頃からあまり感情の起伏が無かったかのように思われる。何気なく一人を好んだし、人との接触をあまりしてこなかった。もちろん夜の校舎に来たのは、きちんとした理由と原因があったのだが、ふと立ち止まりう~んと頭を捻っても、どうもそれらは後付け感が否めなかった。
そうすると、今まであった不遇の数々も全部自分に責任があるようにも思えた。少し前なら、そのことに思い悩み、実際悩んできたこれまでが確かにあった。だから今悩みの全てが解消されて、心が透明に澄んでしまったのかもしれない。1+1が2であるかのように明確で的確で確実な確信のとれた答え。
齢12歳の人生でそこまで悟ってしまった自分が少し怖い。それと同時に深く納得がいっていた。
階段を上るテンポもさっきより良くなってきたように思えた。階段を上り切り、また扉の前。ハンカチのしまってあった方の逆側のポケットを探り、鍵を取り出した。
屋上につながるための鍵―――今日行われた最後の授業は工作室での実習で、木製の椅子を制作した。授業で完成できなかったものは居残りをして、完成した者から順に下校するという形だった。
紫蓮はその居残りの最後の一人まで残って制作をしていた。工作が苦手なのではない、むしろ手先は器用な方だった。しかし、これから行う計画のため、なんて言い方にすると、何とも仰々し過ぎるが、そのための下準備だった。
居残りの最後の一人になることで、職員室に鍵を返しに行くのが狙いだった。鍵を学校の施錠ボックスの中に入れる際、屋上の鍵を抜き取ること。鍵を抜き取る際、紫蓮の鼓動は激しく鳴った。精神状態がどうであれ、身体は正直に反応するもののようだ。もしこの時なんの変哲もなく冷静に、平然にそれが出来たのなら、紫蓮には犯罪を犯す才能があったのかもしれない。もし鍵を抜き取ったのが教師に見つかったら。施錠ボックスの蓋と自分とで死角を作っていたとはいえ、たまたま鍵を利用する人間が近づいてくるとも限らない。その時の鼓動の鳴り様は生半可なものじゃなかった。紫蓮はけして気の大きい方ではない。小心者だ。目立つことを恐れ、いつも存在を消すように日々を過ごしていた。足音を極力消して歩くのが彼女のクセだった。
一人きりの校舎とはいえそれは変わらなかった。非常口からここまででさえ、音を立てないように、擦るような足取りでここまで来た。
鍵を差し込み、回すとガシャリと錠が外れる音と共に感触が伝わってきた。扉を開ける。外は相変わらずの雨模様だった。全身がじっとりと濡れていたが、屋上に点々とあった水たまりは避けて歩いた。あちこちコンクリートがひび割れているし、そこかしこにどこからか風で種子が飛ばされてきたのだろうか、ちらほらと雑草が生えていた。
学校の屋上に来るのは初めてのことだった。授業でもそれ以外でも決して開かれることはなかった。普段ここは立ち入り禁止なのだ。昼休みに気晴らしもかねて解放されていたり、昔不慮の事故があって閉鎖されているなんてエピソードはなかった。ただ使われていないだけ。紫蓮にもダメと言われたらその逆をしてみたくなる子供心はあったが、来てみれば意外にあっけないもので、特に心は動かなかった。
本を、それも小説を読むのが好きだったので、その中に出てくる青春群像劇の舞台で王道とされる屋上に少なからず憧れを持っていたのだが、むしろこんなものかと少し落胆したくらいだ。晴れた日に、それこそ気のおける友人と一緒にきたのだったなら、違ったのかもしれない。そんなものがもし一人でもいたのだったらの話だが。
フェンスで囲まれた屋上の縁まで来ると、隙間から下を見下ろした。向かいの校舎に図書室が見えた。紫蓮は放課後になると、ほぼ毎日のように図書室を利用していた。家に帰る時間をなるべく遅くしたかったのだ。早く帰ればその分リスクを負う。あの空虚で壊れた家と家族に接することは一秒でも耐えがたかった。
物語の世界にのみ彼女の居場所はあった。物語に浸っている時こそ本当に生きているんだと感じることが出来た。興味のある本を好きなだけ読みふける。文字通り時間も忘れるくらいに。それが彼女の唯一の至福の時だった。学校の授業より学友との交流を持つことより、何より安心した。自分とは違う世界のおとぎ話。それらを作る作家は、どれも自分と違う世界の住人なのかとさえ思った。憧れであり、友人であり、神様だった。それだけ彼女の中に物語というものは浸透していた。満たされていた。完璧と言えるほどに。だからかもしれない彼女が選ばれたのは、彼女でなければならなかったのかもしれない。
フェンスをよじ登ると紫蓮は、屋上の縁に座り込んで足を投げ出した。最初、手足がきゅっと縮こまる感覚が襲ってきたが、次第に落ち着いてきた。下を見下ろす、高いと思った。ここから落ちれば死ぬんだろうなと思った。生きたいという衝動は残念ながら涌いてこなかった。
恐怖というものは、先にある展開がわからないから起こるのだと思う。ここから落ちた時、どのくらい早く落ちるのか、地面にたたきつけられたときどれくらい痛みがあるのか想像が出来ないから怖いのだろうと思う。紫蓮は今その感覚、その想像力が麻痺していた。ありのままを受け入れ、もしかしたらたとえ突然隕石が落ちてこようが、この校舎目がけてミサイルが飛んできて、戦争が始まろうが、ただそれがそうなのだということしか感じないだろう。むしろそれで命を絶ってくれるなら願ったり叶ったりだとも。
でも、そういうことは決して起きないことを紫蓮は知っていた。そういうのは物語の世界にだけしか存在しないのだと。運命も宿命も前世からの約束もないことを紫蓮は知っていた。経験として体験として学んだことだった。物語のような人生を送りたいなら、他の身近なものたちを演者に引き込み演出をし、監督をし、自分で書いた脚本を演じなければならない。足掻いたこともあった。でもそれにはもう疲れた。うんざりするほどに疲れ切った。
紫蓮は身体を屋上の縁に寝かすと、ぼんやりと角度の変わった景色を眺めた。不意に笑いがこみあげてくる。これで終わりになるのだ、後には何も始まらないのだ。そう思うと今度は涙が出てきた。とめどなくそれは流れ、一拍置くと、また笑った。それを何度も何度も繰り返した。泣く。笑う。また泣いて、笑った。終わることを求めて、だから自分は今ここにいるのだ。演じること、偽ること、耐えることを辞める。その決意で自分はここまできたのだ。そう思うと、自分の中の確信めいたものに、何かを許されたような気がした。たくさん考えてたくさん理解しようとした。もしかしたら、自分は人というものの全てを想像から導き出せたのかと思った。人間だけが神を持つ。無限の可能性を持つ人は進歩し躍進し、進化し続ける。飽きもせず、ただひたすらに人が人を知ろうと日々過ごしている。素晴らしいことなのかもしれない。少なくとも人間にとっては。でも、もう疲れたのだ。
紫蓮は身体を起こし立ち上がると、持ってきた鞄を先に落としてみた。落ちていく軌道をゆっくりと眺める。ドスッと地面に落下した鞄の音が聞こえた。自分の軌跡を想像して目を閉じる。深呼吸を二つ。ゆっくりと目を開く。そしてそのまま前のめりに体を倒した。靴を脱ごうかとも思ったが、死んだあとのことを考えることが馬鹿馬鹿しくなって辞めた。一人の少女が30メートルの高さから落下した。雨に濡れた地面に。真っ赤な靴を履いたまま、少女は真っ赤な血を吐いて地面に押しつぶされた。
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