海栗と白昼夢
大畑うに
白昼夢
あ、と思った時には消えていたのですよ。と可笑しそうに笑うもので、わたしときたら、すっかりその相貌に見惚れてしまっていた。
澄み切った湖を真夜中にぎゅうっと押し固めたような漆黒の瞳は、笑いの拍子に覗く泪に濡れ、いっそう深い色に揺れていた。
未だ笑いが納まらない彼女に、わたしは殊更優しげに肩を叩いた。
「なにをそんなに笑うことがありましょうか」
だって、と尚も思い出し笑いを続けながら己の髪を一房とって結い上げると、得意気にいきさつを述べていった。
そうはいっても、その顕になった頸の白く華奢な様を見て暫くぼんやりしてしまっていたので、冒頭は聞き逃していたかもしれない。
彼女が言うことには、つい先ほど、ほんの数刻前のことだったという。
針のようなもので覆われた黒いものが、道の真ん中でうごめいていたのです。
あらこれは、雲丹かしら、と思ったものの、暑さにやられて不可思議な幻影でも見ているのでは、とそれをただじいっと見つめては首を傾げました。
そうしていると、ふとその外界を拒絶するような刺激的な針山に愛おしいさのようなものを感じてきたのです。
「そしたら、触りたくて堪らなくなってしまいましてね」
「うに、ですか」
「そうです、雲丹です」
夏は過ぎ去ったとはいえ、まだ十二分に熱い日中に、よもや海洋生物である海栗が道端に転がっているとは夢にも思うまい。
「触ってしまいましたか」
「それが、ふふ、触る前にふっと消えてしまったのです。煙のようにふっと」
またも、それがどんなに面白いことか分かるでしょう? とでも言うかのごとく、溌剌と笑うので、わたしもうっかり愛想を振りまいてしまった。
すると、どうだろう。
にこりと頷いたわたしを見るや否や、つい先程まで腹を抱えて笑うかのように上機嫌だった美人が、鬼に取り憑かれたのではと思えるほどにひどく目を釣り上げた。
そして声を低く荒げ、なにやら訳も分からないことを話し始めたのだ。
「確かにありました。ええ、勿論、そこに転がって動いていました。さては、あなたが拾って食べてしまいましたか? 大好物だと言っていたではありませんか。それは、あなた、もちろんあれは丁度よく蒸されていたようでした、食べるには良い頃合いでしたでしょうとも」
どうやら話がおかしくなってきたではないか。
わたしは怒り狂って般若と化してしまった女性をなんとか宥めようとした。
おや? と思ったのはその時で、今しがたまで目に入っていたはずの彼女の右手の様子が昨日とどうも違うように感じたのだ。
はて違和の正体とはなんぞや、と声高にわたしを罵り始めた声を聞き流し、注視してみる。
細腕から伸びる白魚の手はそれはそれは魅惑的な色香を放っているが、やはり少しだけなにかが違う。
指先がぷっくりと腫れているのだ。
摩訶不思議なもので、一度瞼を閉じようものなら、その丸く膨れた箇所は1つまた1つと増え、ついには右手の指という指に整然と列をなす突起が生えてきた。
なおも激昂を続ける彼女の声も聞こえなくなるほど、わたしはその規則正しく並ぶ丸いものが気になって仕方なかった。
するといい加減その不躾な視線に気づいたのか、彼女はころっと態度を変え、それもぎょっとするほど甘い声色で、その右手をわたしのそれに絡めてきたのだ。
これは、吸盤だ。
ぬめぬめとしたような感触が腕に絡みつくと、その突起物がずいぶん密着するように吸い付いてくるではないか。
わたしはこのまま離れられないのでは、と思えるほど、一種の艶かしさのような恍惚な気持ちにならずにはいられなかった。
「それは、なんです? どうしましたか?」
わたしは殊の外冷静を装い、その実今にも彼女に精も魂も絡め取られるという妄想をしていたが、静かに問いただす。
「なにって、実は私も大好物でして、ふふ、責めたりしてごめんなさいね」
愛を述べるように微笑む唇がおそろしく真っ赤に見え、ついで見つめた瞳がなにやら奇妙に歪んだので、わたしはどうしても抜け出さなければという強い意志でもって、その手から腕を抜いた。
そうすると、彼女は不服そうな表情などせず、美しい面のまま佇んでいた。
怖いもの見たさで彼女を見つめると、どういうことだろう、袖に隠れている筈の腕は外からでも分かるほど、くねくねと動いている。
さて、手は先ほどよりもはっきり分かるほどビッシリと並んだ吸盤が、つやつやと陽にあてられているのだ。
それから吸い込まれるほど美しい漆黒の瞳は、なにやら黄色に縁取られ、四角く細められるように見えるのだ。
その様が妖しく、なにか得体の知れない化け物に変身するのではないかという気がしてくる。
いや、これは蛸だ。蛸に違いない。
そうすると、もう女が蛸にしか見えなくなってしまった。
わたしは、恐怖に慄きながらも、どういうわけか、もっと女の手に触れたいと思ってしまったのだ。
すると、
「あら、また」
言うや否や、女はわたしを押しのけ、ゆっくりと歩いていった。
その背中ごしに、確かに見た。
辺りはだだっ広いだけで、店などもなく、砂埃に覆われた大通りなのだが、その真ん中に海栗のようなものがあるではないか。
海なども遠くにあるので、魚屋すらないこの通りにあるわけがない。
女はその海栗を躊躇いなく拾い上げると、さも愛おしい子を愛でるように腕に抱く。
次の瞬間、大きな口を開けてそれに噛み付いたのだ。
わたしは吃驚して、もはやなにを目にしているのかも分からないほど動揺した。
ただ女が咀嚼する音だけがやたらと大きく耳に届くので、悪夢でも見ているのだと思わずにはいられないほど背筋が凍りつく。
女は一心不乱に食べ続け、ある時ふっと動くのをやめた。
そしてついっとこちらに視線をむけると、またはじめに会った時のように笑い出したのだ。
「ほら、見ましたでしょう? すぅっと消えていったでしょう?」
わたしは、これこそ白昼夢だと思わんばかりにぞっとした。
笑う女をそのまま、挨拶もそこそこに、とにかくその場をすぐにでも去りたかった。
てらてらと水々しく光る触手のような腕が、わたしを捕まえる前に一刻も早く立ち去る必要があったのだ。
踵を返したわたしの背中に、女の嗤い声が響いた。
「あら、また。こんなに、ふふ」
ちらりと目だけで振り向くと、そこには辺り一面に海栗が転がり蠢いていた。
わたしは大股に駆け出すと、その後一切振り向くことはなかった。
それからその通りには近づかなかったが、全く通らないと言うのも無理なもので。
週を跨ぐとわたしもすっかり気持ちが平静としていたために、容易にそこへ赴くことができた。
すると、いつも通り美しい女とすれ違ったが、今度は声をかけられることも視線を向けられることもなく、まるでこの前の出来事がなかったような振る舞いをされた。
やはりあれはわたしの悪夢が見せた幻影だったのだ。
頸の白く華奢な女は、すらすらと歩いて行ってしまったので、先日のことを尋ねることは叶わなかった。
そこで、わたしは耐え切れず笑ってしまったのだ。
だっておかしなもので、ついと見た女の両手は吸盤に塗れゆらゆらと揺れていたのだ。
その触手に絡みとられ何もかも吸い尽くされる、そんな夢想に耽けずにはいられなかったのだから。
笑う他になにが出来ると言うのだろうか。
了
海栗と白昼夢 大畑うに @uniohata
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