最終話 Happy death



 ――私はどこにでも居る、普通の女の子なのでしょう。家庭に大きな問題はなく、完璧で理想的とは言えないけれど、暮らしていくのに困らないような、そんな家庭。

 そんな家庭で育って、私は嬉しいことも、怒りを感じることも、哀しみを感じることも、楽しいことも、全てありました。理解することができたのです。

 けれど一つだけ、きっと知られてしまえば『普通じゃない』と言われてしまうような、そんなものが巣くっていたのです。




 ――私は、幸福というものを感じることがありませんでした。




 喜怒哀楽。その感情の全てが確かに存在しているのに、私の幸福の天秤は、決して幸福側に傾くことがありません。喜びも楽しみも、全てが哀しみと怒りによって消えてしまうのです。私の天秤は、幸福に傾くことがなかったのです。

 そんな天秤が、私は嫌いでした。私より苦しくて辛い人なんて沢山居る。楽しいことも、喜ばしいことも理解できるのに、それを『幸福』とすることが出来ない自分が大嫌いです。



 食べ物を食べるとき『美味しい』と感じることはありませんでした。『美味しい』『不味い』といった感想ではなく、ただ『味や感触がする物』としてしかとらえることができません。

 私は、食べることが大嫌いでした。お母さんや多くの人が、食べ物を食べていると『美味しい?』と尋ねてきました。私は『美味しいよ』と嘘をつくようになっていきました。嘘をつくことは良くないこと。小さな頃から教えられた事を、ずっと続けることが苦しくて、食べることを拒否した時もありました。


 けれど、その度に両親が『食べなきゃダメでしょう!』と怒り、『どうして食べてくれないの』と悲しむのです。それは当たり前のことなのでしょう。成長期の子供が食事をしないなんて、身体に良くない。親としての善意による心配なのです。

 それを拒絶する度に、私の心はズキズキと痛みました。けれど、この苦しみを言ってしまえば、両親はもっと悲しむのだろう。どっちにしても苦しむなら、私だけが苦しいだけなのが一番良い。そう思って、私は美味しく感じない食事を『美味しい』と嘘をついていくようになったのです。


 だってせっかく作ってもらったのに、勿体ないものね。だって食べられない人が、世界中にいるのに。――沢山の理由で自分をごまかして、食事をする。その行為もまた、私の心をズキズキと痛めていきました。



 私は上手く眠ることができません。よく悪夢のような変な夢を見ているからなのでしょうか。あまりにも多くの夢を見すぎて、内容は憶えきれていません。けれど、嫌なものをみたと思いながら起きるのだけは、確かにありました。

 良い夢をみたいな。ゆっくり眠りたいな。そう思っても上手くできません。私は眠ることが大嫌いでした。私を苦しめるだけの行為を好きになることをできるほど、私はできた人間ではありません。


 きっと、眠れないなんて言ってしまえば、両親は心配して、焦って、大変な思いをすることになるのでしょう。そんな両親の姿を想像すると、心がズキズキと痛みました。

 また同じように、私だけが我慢すればそれだけですむのだ。そうして私は、また色々な嘘をついていくことになるのです。



 ズキズキ。ズキズキ。心が痛む音が聞こえます。生きるべき人が亡くなって、こんな私が生きていることが、気持ち悪くてたまりませんでした。

 食事も眠ることも、生きていくことには大事なことです。そこに喜びを感じることができなくて、なんで私は生きているんだろうと感じて、また気持ち悪くなりました。





 ――こうやって沢山の嘘をつきながら、私は生きてきました。周りからは手の掛からない『良い子』なのだと褒められました。けれど、本当の私はそんな立派な人間じゃない。

 沢山の嘘をついた結果でしかありません。その沢山の嘘の奥底にある『本当の私』はなんて卑怯で醜い人間なのだろうと、まだ心がズキズキと痛み出して、苦しくなっていくのです。






◇◇◇






「いつもの散歩に、行ってくるね」


「またこんな時間に? 暗くなっちゃうけど、大丈夫なの?」


「大丈夫だよ。それに暗さを気にしていたら、高校にも通えなくなっちゃうじゃない」



 そんなやりとりは何度もした。同じことを何回も言ってくるお母さんに、困ったように笑いながら散歩に出かけるまでが、一連の流れのようなものだと、私は思う。

 この時間をなくしてしまうと、私は生きていくのが耐えきれなくなってしまってしまって、きっとおかしくなってしまうのでしょう。そんな妙な確信があったのです。


 そんなことを考えながら、高校に入学してから始めた散歩を開始しました。目的地は、歩いて行くとちょっと遠い、私の家の一番近くにある堤防です。

 お母さんが言うとおり、私はどの季節でも、日が沈んで暗くなるような時間帯に行きました。色々と言い訳という嘘をついて、私はいつも暗い時間の堤防を目指していたのです。




 暗い時間の堤防は好きでした。町外れにある堤防は、真っ暗で明かりがないと足下ですら危うい暗さでした。その危うい暗さが私は好きです。まるで『何も無い』と錯覚させてくれる夜の堤防が大好きでした。

 前後左右上下。全てが何も見えないほど真っ暗ではないけれど、これが完全になったら『生命の終わり』になるのかな。そんなことを考えたら、気分が高揚したのを憶えています。

 けれど、自殺することにはためらいがありました。他人に迷惑をかけるような死に方をしたいわけではなかったし、なにより死にきれなかった時の怖さが大きかったのです。死にきれなくて、両親が悲しむ顔を見ながら、さらに死ぬのが難しくなるのが嫌だったのです。


 今日もふわりふわりとした感覚で、真っ暗な堤防を歩いていると、とある人と出会うことになったのです。烏頭静馬さん。私に『幸福』をくれた、最初で最後の人です。

 静馬さんも同じように、散歩の途中でいつもここを通っていて、時折見かける私があまりにもふわふわとした歩き方で、人通りのない真っ暗な堤防を歩いているものだから、気になっていたそうだった。

 その言葉を聞いたとき、私は恥ずかしさで顔が真っ赤になっていたことでしょう。人に見られないように注意をしていたはずなのに、まさか誰かに見られてしまったなんて。

 そんな私の様子に静馬さんは、まるで小さな子供を見るような微笑み方をするものだから、ますます恥ずかしい気持ちになったものでした。





 ――こうして、静馬さんとの邂逅が始まったのです。時間を決めて会うのではなく、たまたま時間が合ったときに会って、会話をするだけでしたが。けれど静馬さんは、今まで出会った誰よりも話しやすく、気が合った人とでも言うのでしょうか。一緒にいるのに、全く苦にならない不思議な人でした。

 こうして私たちは互いについて色々なことを話しました。静馬さんの『おまじない』のこと、私の『幸福の天秤』のこと、互いの価値観のこと。そんなことを話していくうちに、静馬さんが私にこう言いました。



「なぁ、玉緒ちゃん。私の『おまじない』なら、貴方を安らかな眠りに誘うことができるかもしれないけれど、どうしたい?」



 その言葉に私は、目をゆっくりと見開きながら、静馬さんを見つめました。それは、私が静馬さんの『おまじない』の効果を聞いたときから、考えていたことでした。正直、そんな超能力染みたことなんて信じられないし、死にきれないことがあったら怖かったのです。

 そして、なによりも私自身が『おまじない』によって、救われるべき存在ではないと思ったからです。

 だって、もし『おまじない』が効いたとして、私が永眠したら静馬さんは世界にとって『殺人者』になってしまう。私なんかのせいで、静馬さんが苦しんでしまう。そんなのは嫌だった。そんなの、他者を巻き込むような自殺の方法と変わらないじゃないか。

 そんな私の言葉に、静馬さんは今まで会ってきた中で一番優しい顔をして、私を抱きしめながら、頭を撫でてくれました。そのままその表情と同じくらい優しい声で、私にこう言ってくれました。



「私が一番怖いことは、大切な人が傷ついているのに何もできないことなんだ。玉緒ちゃんは今、こんなにも苦しんでいる。それを排除するための手伝いをしてあげたい。

 ――今生きている世界にないというのなら、違う手段をとるのも一つの手だろう? 君の見えない、幸せの形をあげたいんだ。救いをあげたいんだ」


 静馬さんの言葉にハッとして、気がついたらボロボロと涙が零れて止まりませんでした。嘘をついていたときには、苦しくても泣けなかったのに。

 思い浮かんできた言葉がバラバラで、纏めきれなかった。思考がぐしゃぐしゃで、言葉にならなかった。




 私は幸福の形が分からない。それを追い求めることができなかった。見えなくて、走り出すこともできなくて、膝を抱えて小さくその場に座っているしかできなかった。

 それは、世界にとって狂気の沙汰かもしれない。理解できない人が多くて、私は仲間はずれの存在かもしれない。それでもいい、それでいいから。

 神様の愛なんていらない。奇跡なんていらない。ただ、救われたかった。ただ、小さなものでいいから幸福が欲しかった。


 結局、私はどれだけ良い子のフリをしても、悪い子だった。身勝手で、嘘つきで、醜い人間だった。それでいい。そうでいい。私は『今』から逃げ出したいのだ。消えたかったのだ。死にたかったのだ。



 泣き止まず、ぐしゃぐしゃな顔のままの私は、纏めきれない言葉を感情のままに口にした。そんな私の姿に静馬さんは何も言わないまま、私を抱きしめながら、頭を優しく撫でてくれた。

 言葉を全部言い切った後、私をゆっくりと離して、互いを見つめ合うような形になりながら、静馬さんは再び私に問うた。――『おまじない』にかかりたいか、と。

 その言葉に私は小さく頷いた。これからのことを思うと、涙は止まらなかった。決して哀しみの涙ではなく、安心と喜びの涙だった。

 その私の反応に、静馬さんは私の手をゆっくりと握って撫でようとしたが、私はその前に一度待って、と声をかけた。これだけは言っておかなければならない、そう思ったからだ。



「――静馬さん、ありがとう。私は『きょうだい』なんていなかったけれど、もしも姉ができたのだとしたら、貴方のような存在なのかな?」


「――私も『きょうだい』はいないけれど、貴方が妹だったら嬉しい」



 そう返してくれてから、静馬さんは優しく私の手を撫でて『玉緒ちゃんに幸福が訪れますように』と言った声が聞こえた。その後、ゆっくりと意識が朦朧としていった。

 その間、何か嗅いだことのない香りが私を包んだ気がした。けれど、それは決して嫌な香りではなくて、むしろ嗅ぐと幸福な気分に包まれていった。




 ――あぁ、なんて『幸せ』なんだろう。




 ……そう思って、私の意識は完全に落ちた。



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