飛ぶのは簡単じゃない

 鼻の上に新しくできた傷にばんそうこうを貼りながら、ラウムに何度も抗議した。


「噓つき噓つき噓つき! 翼があっても飛べないんじゃ意味ないじゃないか」

「悪魔は嘘はつかないよ。ほら契約書には、すぐに飛べるようにしてくださいなんて書いてない。書いていないことは契約の範囲外。範囲外のことはしないんだ」


 突きつけられた契約書には確かに『すぐに空を飛びたい』というのは書いてなかった。


「でもあれだけ細かい所まで聞いて、なんですぐに飛べるようにしないんだよ」

「悪魔だからね。カナタが若い魂だし、だだこねたから細かい部分はサービスでつけてあげたの。普通の大人相手なら何も聞かずに契約書書かせていたんだから。悪魔の契約はゲームのチュートリアルみたいに親切じゃないから」


 意地悪だな悪魔って。むぅっと頬が破裂するぐらいにふくらませると、ラウムが指で押してぷしゅっと押して頬に溜まっていた息を抜けさせた。


「そんなに怒らなくても、カナタが二階から落ちて鼻のすり傷だけで済んだのは翼があるからだよ。普通に落ちたら骨折ものなのに無事だったのはちゃんと翼が役目を果たしていたから。それに、その不満を解消するためのサポートのために私がいるんだから、飛べることぐらいなら私の専門分野だし」


 ぴょんとその場で跳び上がったラウムが空中で一回転すると、女の子の姿からカラスの姿に形を変えた。


「カラス!? ラウムって変身できるの」

「悪魔は契約者がいないとき時折人間界を動物の姿で見ているの。飛ぶことならわけないよ。私の動きをよく見て、まねしてごらんなさい」


 さっき飛び降りた窓にラウムが飛び乗ると、左右の翼をバサバサッと動かしながら飛び降りた。窓から降りていくラウムの姿を追いかけて下をのぞくと、さっきの僕とは大違いで、何度か翼を羽ばたかせるだけでふさぁっと家の塀の上に着陸した。


「ほらカナタあなたも翼を出して降りてきなさい」


 言われた通り窓から体を乗り出して背中の翼を広げる。さっきラウムがしたのと同じく翼を上下に動かしてみる。すると背中から風が吹き、部屋にかかっているカーテンや教科書の本がふわりと浮きだした。そのまま翼を動かしながら窓から飛び出す。


 初めて自分の翼で空を飛んだ感想は「うわぁ。僕、浮いている」という驚きの声しか出なかった。グライダーとか人が作ったものをまったく持っていないのに、体が空に浮かんでいることに感動なんか通り越してしまった。


 そして結果を言うと、さっき飛び降りた時と違い墜落するようなことはなかった。けどラウムの飛び方とはぜんぜん違い、体が右に左にへと船が揺れるように傾くばかりで安定せず、塀を越えて道路の向こう側へと飛び越えて向かいの家の塀にぶつかってしまった。


「ダメダメ。そんなバタバタ上下に動かしちゃ。それに二階からの高さでそんなに羽をばたつかせたら気流が安定しないんだから」


 塀から道路に降りて、お手本を見せるように翼と尾翼を大きく広げてみせた。


「いーい。鳥は羽ばたき飛行とグライディングという二つの飛び方があって、飛び立つ時は羽ばたき飛行をするのだけど、翼は上下じゃなく、翼を前に流して上げ下げを繰り返して風の流れを作るの」


 その場でゆっくりと黒い羽を前に動かすと周りに風が起こり前髪が浮き上がる。徐々に翼を動かす速度を上げるとラウムの体が少し浮き上がった。いつも眺めている鳥の羽ばたきは早すぎて何をしているのかわからなかったが、こんなにゆっくりな翼の動きは初めてでただむやみに翼を動かしているわけでないのがわかる。そして一気に羽ばたきを早くすると飛び上がり、また塀に上がると「ほらカナタもやって」と急き立てた。


 よしっとラウムがやってみせたことを思い出しながら、背中の翼を前に押しやるように動かす。


 バサ、バサ、バサ。

 もっと早く。


 バサバサ、バサバサ、バサバサ。


 背中に力を込めて動かし続けていると足が地面から離れていく感覚が起きた。目を開けると足が地面から離れ、家の前に書かれた『止まれ』の上に飛んでいた。距離も高さも軽くジャンプした程度だけど、足を動かさずただ翼を動かしただけで飛んだことに感動を覚えた。


「浮いた。ちょっとだけ浮いた!」

「はいそれはよかったね」

「もっと喜んでよ」

「赤ちゃん鳥が少しだけ浮いても、大人の鳥は大喜びしないのさ。これでも私三千年も生きているからね。ヒヨコがピチチと飛んだぐらいしか思わないよ」


 いつの間にか元の人型に戻ったラウムは塀の上に腰かけたまま、冷めた様子で見下ろしていた。

 なんだよ、いじわるな奴だな。


 その後何度か羽ばたき飛行の練習をして家に上がって鏡を見ると顔が砂で汚れていた。やばい、お母さんきれい好きだから僕の姿を見てすごい剣幕けんまくで怒ってくるから今のうちにお風呂に入らないと。


 いそいそと脱衣場に入って服を脱ごうとした時、背中の翼が引っ掛かって脱げなかった。


「ラウムこの翼どうやって取るの。お風呂に入るときじゃまになるよ」

「それ無理」

「……まさかこれも」

「うん。契約範囲外。自分の翼に関しては自由に取り外しができるようにしたいなんて書いてないから、一生そのまま」


 ぴろりとまた契約書を取り出してラウムが指をさす。

 悪魔って本当に意地悪。

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