第十九話 ふたりぐらしの始まりと終わり

 すみません、ご迷惑をおかけして、と職員たちに平謝りしてふたりはまず空港内の大型銭湯を利用した。

 平日であっても長旅の疲れを癒そうと大勢の利用客が詰めかけ、あちこちで子どもたちが走り回り、大人たちは談笑を楽しんでいる。今まで見たこともないほどに広大な風呂場を前に、ウルの涙と鼻水はぴたりと止まり、セレネの手によって優しく洗い流されていった。

 セレネもまた自信の汗と雨水を洗い流し、少し冷えたからだをゆっくりと暖めていた。無論、ウルから手は一度も離さずに。

 風呂に入っている間に隣接しているコインランドリーで衣服を洗濯し、乾燥機に暖められた服を着てふたりは宇宙港を後にした。

 バイクはまだ無理だから、とふたりはバスで帰ることにした。

 その間セレネは一言も話しかけず、無言の圧力に負けたウルも謝るきっかけを逃し続けていた。

 

 街の外苑部へ向かうバスであっても、港から出てしばらくは満員が続いた。はぐれてはいけないとウルを抱っこしたが、無言無表情を貫いたセレネは席が空くのをじっと待ち続け、ウルはウルでいつ怒られるのか怯えてさえいた。

 やがて空席が目立ち始めるとふたりは席に向かい、ウルを窓際の席に座らせてセレネはその隣に座る。窓からのぞく風景が見慣れた海に変わった頃、ようやくセレネは小さくため息を零す。たったそれだけのことなのにウルは全身を強ばらせ、おずおずとセレネを見上げる。視線に気付いてウルに顔を向けたセレネだが、なぜ見られているのか分からずにまた前方に顔を向けた。

 見慣れた風景を目にしてようやく安心したセレネは、自分が昼食をまだとっていないことを思い出した。ウルもまだだろう、とセレネは自宅の一つ前のバス停で降り、行き付けのラーメン屋に足を運んだ。帰りは、雨がひどかったら迎えにきてもらうことにして。

 店はカウンター席が七つだけの小さな造り。時間の影響か、雨の影響なのか、ふたり以外に客はいなかった。

 セレネはウルにミニチャーハンを、自分にはラーメンを頼み、やはり無言のまま箸を進めた。セレネが替え玉を、ウルがチャーハンを半分ほど平らげたころ、ついにウルが口を開いた。


「……なんで、お姉さんはあたしにやさしくしてくれるの?」

「あたしは、やさしくなんかないよ」ずずーっ、とスープをすする。「勘違いしないで」


 また会話が止まる。客がほかにいないので、鍋のスープがぐつぐつと煮える音と店主がネギを刻む音が店内にやけに大きく響く。


「おいちゃん、もやしチャーシューひとつ」


 これで三杯目。だがまだ抑えている方だ。

 あいよ、と店主は準備を始める。


「だったら、なんで、あたしを……」


 セレネはウルの方を見ようとしない。


「義務だと思ったからよ」


 ひぅ、とウルが息を飲んだ。

 セレネは言葉に感情を乗せなかった。


「あの時、ウルちゃんしか助けられなかったから。本当ならウルちゃんの親戚にあずかってもらいたかったのに、連絡つかなかったし」


 ウルは泣き出す寸前だ。

 丁度いい。全部言っておこう。洗いざらい吐き出して、嫌われておこう。これ以上情が移ってしまう前に。


「ついでだから言っておくけどね。あまり甘えないで欲しいの。五才だからっていうのは言い訳だからね。いろいろ辛い目にあってきたんだろうけど、自分だけが不幸なんだって思わないでね。お父さんとお母さんなら、あたしもいないからね」


 ついに泣き出してしまった。


「それが甘えるなっていってるの!」


 ばんっ! と箸をテーブルに叩きつけ、顔をウルに向けて一気にまくし立てた。


「いい加減にしてほしいの。いっつも引きこもってばかりで、ご飯だってちょこっとずつ残すし、そのくせ夜中に泣き出すし、誰が寝かしつけてると思ってるのよ!」


 セレネの怒号を耳にしつつも店主は止めようとしない。セレネがどれだけウルのことを気遣っているか、毎日のようにグチを聞かされて知っているからだ。


「今日だってこんな雨の日に家出なんかして! そんなに地球がいいなら、いますぐ送り返してあげるわよ!」


 椅子から立ち上がってウルの右手を掴む。だがウルは泣きながら抵抗する。


「や、だ」

「やだってなにが!」

「お姉さ、ん、の、ところに、いる!」


 嗚咽混じりだが、はっきりと聞こえた。


「なんでよ! 地球に帰りたかったんじゃないの!?」

「ちが、う。地球に、いきたかっただ、け。お父さんと、お母さ、んに、ちゃ、んとお別れ、いってない、から、言いたかったの! お姉さん、が、嫌いなんじゃ、ないの!」

「……そう。だったら、いい」


 振り上げたこの拳をどう収めてよいか分からなくなり、セレネは視線と掴んだ手を離した。しゃくりあげる度にこぼれる涙と鼻水を、店主から借りたちり紙で拭き取ってあげる。びーっ、と遠慮なく放出される鼻水が自分にも飛び散ったが、あまり気にしていない。


「……さっき、あたしをやさしいって言ったよね」


 こく、ときれいになった顔でうなずく。


「あのね、……たぶん、あたしが後ろめたさを感じたくないから、かも知れないよ? ウルちゃんの面倒を見てるのって。それでもあたしをやさしいって思う?」


 言葉が難しかったのか、ウルは黙ってしまった。しかたなくセレネは自分の椅子に座り直してコップの水を飲む。そこでラーメンが完成した。


「へい、おまち。もやしチャーシュー」

「あ、ありがと」


 だが手を付ける気にはなれない。ちら、とウルを見やり、


「……どうする? あの家にいたくないのなら、おじいに連絡してあずかってもらうけど。あたしのおじいは天津人だから、ウルちゃんも少しは気が楽かも知れないしさ」

「……やだ」

「そう。じゃ、地球に帰る?」

「やだ! それはぜったいやだ!」


 また目に涙をためる。泣き出される前に次の質問を投げかけた。


「じゃあ、どうする?」

「お姉さんのところにいる。お姉さんやさしいから。好き」


 嬉しかった。でも。彼女の両親を殺した事実は曲げられない。


「……あたしは、やさしくなんかないよ」

「そんなことない。お姉さん好き」


 満面の笑顔が眩しかった。

 あれだけ怒鳴りつけても、まだこんな笑顔を見せてくれるのなら、ウルの言葉は本音なのだろう。

 いまはそれでいい。


     *     *     *


 家出騒ぎから、約一年が過ぎた。 

 第三都市での出雲機工社のシェアはついに三割を切った。セレネは業務を引き継ぎながら、人型整備免許を取得するための猛勉強をしながら、全社員たちが地球本社も含めた他の支社へ問題なく異動できるよう手続きと挨拶回りに奔走する毎日を送っていた。

 シェアこそ落ちぶれているが、腕は超一流の職人たちは次々と異動先が決まり、事務職のひとたちも職種が変わった者も居たが、全員再就職先を決めたが、ライバルであるヴァルハラ社を希望した者はだれひとり居なかった。

 どうせすぐに定年だからよ、と最後まで残ってくれた工房長は厳しく、時に優しく若き女社長を特訓し、彼女が無事免許を取得すると同時に引退した。元社員たちはいまでも集まって飲み会などを開いているらしい。セレネはウルの面倒を見ないといけないから、と断り続けているが、誘うメールや電話はとぎれることは無い。

 半年も一緒に仕事をしていなかったのに、何が気に入られたのか分からないまま、セレネとウルのふたり暮らしは始まった。

 必然的に距離は縮まり、「お姉さん」から「セレネ」へ、「ウルちゃん」から「ウル」へと自然に変わっていた。

 

「ちょっとセレネ、またあたしの濡れせんべい勝手に食べたでしょ!」

「だってお腹空いてたんだもん……」

「だからってあたしの分まで食べないでよ! 今度の試合が終わったら一緒に食べよう、って思ってずっと楽しみにしてたのにぃっ!」


 ふたりきりになってから、ようやくウルはセレネに心を開き始めた。物心付く以前から追われ続けてきた彼女にとって、セレネとの日々は初めての安らぎを与えた。

 このまま穏やかな生活が続くかと思っていたが、半年前、


「御影セレネさん。我々は北米政府の者です。お宅にいらっしゃる天津人の少女の身柄を差し出して戴きたいのですが」


 誰が情報を漏らしたのか、それともノリス自身の手腕によるものなのか―セレネは後者だと信じている―ウルの存在を嗅ぎつけてきた。

 やはりウルの不安は少しも消されていなかった。ノリスが現れて以来、彼女は暗闇に怯え、独りになることを頑なに拒み、絶対にセレネの裾を離さなかった。


「大丈夫。あたしはウルを見捨てたりはしないから」


 セレネはいつも満月のような笑顔でウルの傍にいた。


「ほんと?」

「うん。ウルがあたしをどれだけ嫌いになっても、あたしはウルを連中に渡したりなんかしない。絶対に」

「約束だよ?」

「うん」


 だが二日前、ウルはセレネの元から去っていってしまった。

 考えられる中でも最悪に分類される別れ方で。


     *     *     *


「ふー……」


 事情を聞き終え、ショウジは天井を仰いだ。


「あたしの父と母はアフリカで戦死しました。他の親戚に連絡を取りたくても、戦後のごたごたで誰とも連絡がつきませんでした。でも北米はテロをやる元気だけは残っていたので、危険だったんです。自由に動けるあたしが火星に連れてくるしかなかったんです」


 うつむいたセレネの肩が震えている。また泣いてやがるな―今度は慰めなかった。


「ウルが家出をする理由はいくらでもあります。家は貧乏だし、あたしはだらしないし、あの子の両親を見殺しにしました」


 涙で詰まる声にショウジは侮蔑するようなため息を吐いた。そのため息はセレネの肩にのし掛かり、さらにうつむかせてしまう。


「でもあの子は、まだ八才です。学校にだって行ってないのに、全部あたしが悪いのに、ムリにでもおじいに預ければよかったのに……。迷惑しかかけてないのに、自分の無罪を主張するなんて、できません」


 ずず、と茶をすすり、ショウジはわざと冷たく言いはなった。


「自分を責めるのはねえさんの勝手だけどな」


 セレネはなにも言えない。ショウジは正論を言う。ウルもそうだ。でもセレネは理屈では動かない。正論が正しいことぐらい知っているが、納得できないことも多い。納得できないことを実行できるような大人ではない。

 反論してこないセレネをこれ以上責めることはせず、話題をすこし変えた。口調を幾分和らげて。


「あの男、何者なんだ?」


 プレッシャーが減ってセレネは僅かに顔を上げる。


「……分かりません。最初は北米政府の人間だと名乗っていました」

「北米政府に抗議とかは?」

「一応火星政府を通して文句を言ってもらったんですけど、効果はなかったです。『そんなヤツは知らない、お前達の妄想でこちらを断罪するな』とか返事してきて……」


 それはショウジが得た答えと同じだった。ウルの足取りを追うのと並行して、火星軍から東アジア連合軍を通じて北米政府へ抗議していた。

 そうか、とつぶやく。これで疑問は晴れた。


「……セレネ、俺があんたにやれる選択肢は二つだ。ウルを見捨てて、このまま独りで泣き続けるか、それとも、ウルに会いにいくか」

「……え、どういう……?」


 ひとつの答えが舞い降りてくる。


「見つかったんですか!」


 ばんっ、と満面の笑顔で机を叩いて立ち上がる。反動で味噌汁が少しこぼれた。

 なのに、ショウジの表情は重い。


「ああ。だが厄介なことになりそうだ。連中、イザナミに侵入した」


 ずいぶんと長い間聞いていない単語だった。セレネの脳が検索し終わるまで五秒近くかかった。


「イザナミって、大変じゃないですか!」


 イザナミの存在そのものは小学生でも知っている。火星の環境を地球のものと同じにしている設備の名称だ。だが、その場所などの詳細は軍や政府の機密だ。


「でもどうやって連中、あそこの場所……」


 会話を遮るように、びーっ、と呼び鈴が鳴り響く。


「え、工房の方に?」


 なんだろう、今日は搬入の予定はなかったはずだけど。とセレネが立ち上がる。ショウジはそのままでお茶をすする。ふう、と一息ついて、自分の茶碗を台所へ片付けようとひざを叩いた時、ばたばたばたっ、とセレネが大慌てで戻ってきた。


「ショ、ショ、ショジョジさん、じゃないショウジさんっ! なんですか、あれっ!」

「ああ? ツクヨミか?」


 首がちぎれそうなぐらいに何度も何度も縦に振る。それが面白くてショウジは吹き出してしまう。


「カグツチが使えんのじゃハナシにならんからな。倉庫で埃被ってたヤツをついでに発送してもらった。寸法はカグツチから採ってあるから問題無いだろ」

「でも、そんな。あんな高いもの、いただけません」


 本社の工房にあったのなら、例えセレネであっても自由に着ていいものではない。それは御影家の掟だ。


「そういうと思ったよ。冬十郎のじいさまにハナシつけて、ねえさんの小遣いでも払えるような額にまけさせてあるから安心しろ」

「ショウジさんって、あたしのおじいと……」

「俺は機械闘技始めてからこっち、いろいろと面倒見てもらってるんだ。そういやねえさんのひい爺さんだったな。ぱっと見五十ぐらいだからつい忘れちまうな」


 冬十郎は純血の天津人あまつびとだ。地球人と比べて長命な彼らの中でも、最も寿命の長い種族の出身だ。今年で一七三才になるがいまだにスパナ片手に工房の若い衆へ雷を落とす日々を過ごしている。


「あの、おじい、何か言ってました?」

「んにゃ。ひとっ言も無かったぞ。何があった、とも、連絡ぐらいしろ、とも。全っ然ちーとも。すこしは心配してやれっての」


 その素っ気無さがむしろショウジには気持ちよかった。


「そう、ですか……」


 この一件が終わったらウルと一緒にあいさつに行こう。思い返せば本社主催の新年会にも行っていないから、この家と工房をもらって以来顔を合わせていないことになる。そうだ。年賀状も暑中見舞いも送っていない。火星にいる唯一の肉親だというのに。


「ま、気にするなって。あんな古着、じいさんも置き場に困ってたんだ。それとも誰かが着た人型なんざいらねえか?」


 今度はぶんぶんと横に首を振る。


「だったら決まりだ」ぺしん、と膝を叩く。「さっそく模擬線やるぞ。カグツチの経験値を移植してもらってるから違和感はないはずだ。俺のスサノオの調子も見ておきたいからな。手加減するなよ」

「はい」


 いまは、甘えておこう。

 電文ではああ言っていたけれど、こんなふがいない自分の元を出て行きたい、と本心からウルが願うのならば、それを引き留めはしない。信頼できる誰かにあずけて、自分はひとりで生きていけばいい。

 だから、そのまえにちゃんとさよならぐらい言わせてほしい。

 そう決めた。

        

        *     *     *


 火星西半球に広がる穀倉地帯の片隅に、一軒だけぽつん、と小さな掘っ立て小屋がある。

 地図には麦畑が描かれているそこの地下五百メートル。そこを洞穴のようにくり抜いた場所に惑星管理システム「イザナミ」は埋まっている。


「ここです」

「これが、イザナミ?」

「ええ」


 地下であることを忘れるほど高い天井と、うっすらとした照明の下に鎮座するイザナミはどう見てもクジラだ。それも頭部の四角いマッコウクジラをウルは連想した。


「すごい……、おっきい……」


 しかし、この大きさはどうだ。まるで全体像を把握できない。火星の月、フォボスやダイモスからでもはっきりと見えそうだ。

 ウルの体内を、「血」が知っている記憶が甦る。

 これは、船だ。

 数多の銀河を駆け抜け、無量大数に匹敵する人々を運び、ついには銀河の一番端っこの惑星に錨を下ろした、星の海を渡る船だ。

 ふらりと歩み寄る。

 網膜、指紋、声紋、遺伝子、個を示すそれらのなにが―あるいはすべてだったのか―起動の呪文だったのか分からないが、船は再び目を覚ました。耳では聞き取れないほどの低音であかね色の外装が震え、天井や壁の照明が次々と灯されていく。


「ただいま」


 自然とその言葉が脳から落ちてきた。

 ウルは船とひとつになる。

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